
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
そうは思わないですけどねえ・・
大本営はロシアの参戦を、在欧州の諜報員によって実はかなり早い段階でつかんでいた。だが内閣に知れると降伏するだろうと思い、内閣には伏せていた。御前会議でさえ触れなかったとNHKSPで見た記憶があります
大本営は国体護持こそが残された使命と考え、たとえ民間人や軍人が何人死のうとも本土決戦を画策していた。本土決戦で米国に最後の大打撃を加えて、停戦に持ち込もうとしていた・・そういう内容でした
もう資力も物資も人材も消耗して底をついていたのに、まさに狂気の沙汰としか思えません
日本が降伏したのは、やはり二発の原爆と、ソ連の参戦でしょう

No.11
- 回答日時:
【 No.10・補足回答 】
エビデンスを証明しろ、と言ったのに「海老」かよ。
お前、やっぱりおかしい。
お前のような証拠も提出できない奴には、フェイクニュースだね・・・(^_^)v
ばからしい。
すきなように、やれよ。ほな、さいなら・・・\(^o^)/

No.10
- 回答日時:
【 No.9・補足回答 】
うぅ~ん。何か、質問者さんの質問と解説は、後付けに聞こえてなりません。
では、エビデンスを提示して頂けますか?そもそも、ありますか?
私は、外科医師ですが、第一東京弁護士会に登録している、弁護士でもあります。
エビデンスや証言は?
極東軍事裁判で死刑判決を受けた「A級戦犯」の、東条英機(元)首相や、大鳥圭介、自宅で服毒自殺した、近衛文麿(元)首相、
昭和20年8月15日早朝に切腹した、阿南惟近陸軍大臣は、遺言で一切、あなたの仰っているような、戊辰戦争絡みの遺言は
残していませんし、もし、百歩譲って、あなたの言う通りなら、昭和天皇に上奏している(公文書で証拠が残っている)筈です。
そうでなければ、昭和天皇(当時の天皇陛下は軍部の統帥権を縦覧していたので、軍部の最高責任者)に、それを報告しないのは、あり得ない。
この事実、および、エビデンスは、どう説明しますか? まさか、あなたの「妄想や想像」なのですか?

No.9
- 回答日時:
【 No.7・補足回答 】
言い忘れていた点があります。
質問者さんは、
>白虎隊の悲劇が奇しくも、日本の敗戦と同じ、8月に起こった事に気づくべきです。つまり時期的に重なっているのです。ですから8月に敗戦を受け入れるか議論していた>当時の戦争指導者は、会津の事が頭に有ったはずです。
と仰っています。
しかし、事実は違います。
確かに、昭和天皇臨席の下、御前会議が開かれ、ポツダム宣言の無条件降伏(国体護持だけは堅持)は、昭和20年8月14日深夜の事。
そして、国民に敗戦の玉音放送が流れたのは、昭和20年8月15日正午でした。
ただ、これは、国際法上の敗戦ではありません。あくまで、日本国政府がポツダム宣言を受け入れ、昭和天皇が国民に敗戦の詔勅を行っただけです。
国際法上の日本の正式な敗戦は、昭和20年9月、東京湾上のアメリカ合衆国戦艦「ミズーリー号」上で行われた、敗戦証書によって、
日本の敗戦が「確定」したのです。
ですので、あなたの言い分は、歴史上、間違った認識です。

No.7
- 回答日時:
【 No.5・補足回答 】
質問者さんは、何が言いたいのか?正直、理解不能です。
質問者さんは、一所懸命「白虎隊」の事を記述されていますが、それは、それで、私も問題だったと思います。
十代半ばの子供を犠牲にするのは、とんでもない事だったと思いますし、戊辰戦争で会津藩の敗戦が濃厚になった場合、
最高指揮責任者として、武家の死に方として、切腹し、責任を取るべきでした。
しかし、戊辰戦争と、太平洋戦争を結び付けるのは、無理があり、あり得まえません。
そもそも、戊辰戦争と、太平洋戦争の開戦と終戦の状況は、全く違ったからです。
あなたは、歴史を歪曲しています。

No.5
- 回答日時:
こんばんは。
話は長くなりますので、端的に記載しますね。
太平洋戦争の発端は、実は、「ペリーの来航(開港の要求)」にまで遡ります。
江戸幕府は、ご存じの通り、鎖国をしていました。
しかし、明治維新を経て、「尊王攘夷派」と「開国派」が揉めだします。
結局、歴史は開国に向かったのですが、欧米列強のもと「日米和親条約」や「日米修好通商条約」などの不平等条約の下、
日本は、「治外法権」や「関税自主権の撤廃」など苦労する国策を強いられます。
そこで、最終的には、陸奥宗光や、小村寿太郎などの苦労もあり、日本国政府は、「法律の制定、帝国議会の開設、軍隊の編成」など、
不平等条約の撤廃や、アジアの一等国をめざし、軍拡を進めます(大日本帝国陸軍、帝国海軍、陸軍大本営、海軍大本営、陸軍大臣、海軍大臣などの創設)。
その結果、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と立て続けに戦勝国となり、国際連盟(国際連合の前身)では、五大国の一員となりました。
つまり、日本国政府は、もともと、戦争が目的では無く、
(1)不平等条約の撤廃
(2)アジアの一等国への昇進
が目的だったのです。現に、昭和天皇も戦争には反対だったと「昭和天皇実録」で記載されています。
しかし、アメリカ合衆国のウォール街を発端とした「世界恐慌」で事態は急変。日本国政府も「昭和恐慌」が起こり、国内は大混乱。
その後、欧米を中心とした「連合国」がブロック経済(英国を中心に植民地を利用して、恐慌を乗り越える方法)を開始。
石油などの資源が乏しかった、日本、ドイツ、イタリアは、大打撃を被り、大反発。
その後、「枢軸国」と呼ばれる、「日独伊三国軍事同盟」を結び、第二次世界大戦が勃発。
そして、ドイツがパリを総攻撃し、フランスはドイツに降伏。フランスの植民地だった、南部仏印(南部フランス領インドシナ)へ石油を求め、日本軍が侵攻。
これに、連合国の、アメリカ、イギリスが激怒。
アメリカは、日本への石油輸出を全面禁止すると、日本国政府は、アメリカ、イギリスに宣戦布告。真珠湾攻撃を皮切りに、
太平洋戦争が勃発したのです。
No.4
- 回答日時:
そんな思いがあったなら、もっと早くに降伏なりして終戦してるか、そもそも開戦していない。
むしろ真逆。
海軍は必死兵器は採用しないという方針を取っていて、真珠湾攻撃に参加した甲標的という小型潜水艇も近づいて魚雷を撃つというもので、後に開発された人間魚雷こと回天とは使用方法がまったくの別物です。学徒出陣によって若い命をかり出し、回天やゼロ戦の特攻などを行ったのは、その白虎隊の思いからなのでしょうかね?
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白虎隊の悲劇が奇しくも、日本の敗戦と同じ、8月に起こった事に気づくべきです。つまり時期的に重なっているのです。ですから8月に敗戦を受け入れるか議論していた当時の戦争指導者は、会津の事が頭に有ったはずです。
____________
会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原(戸ノ口原の戦い)で決定的打撃を受けて潰走し、そこで数名の戦死者が出ている。
8月23日に負傷者を抱えながら残りの合計7人(20人という説もある)が郊外の飯盛山へと落ち延びた。この時、深刻な負傷によりこれ以上はもはや戦えないと悟り結果7名(20名という説もある)が自刃を決行し、6名(19名という説もある)が死亡、唯一喉を突いた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが一命を取り留めた。
それは歴史に対する「洞察力」「想像力」が有るか、無いかの問題です。
私は白虎隊の死が、歴史に対して、無駄死に、だったとは思わないです。
白虎隊は、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。
このような若者を兵士にしてはいけません。現在では禁止されています。政治は結果ですから、このような若者を死に至らしめた責任は藩主・松平容保に有ると言わざるを得ません。藩主・松平容保が薩長の陣営に単身出向き、腹を切れば済んだ事です。
もちろん、藩主・松平容保にしてみれば悪いのは薩長ではないか?なぜ俺が腹を切らねば成らぬのか?という不満は有ったでしょう。しかし藩主・松平容保が一人腹を切れば、会津藩の何百人、何千人もが助かるのなら、そうするのが藩主・松平容保の責任でした。
子供に責任を押し付けるのは恥ずべき事です。
太平洋戦争も会津の戦争も勝ち目が薄い戦争でした。本来なら最初からやるべきではなかった。しかしやってしまったのですから、犠牲を少なくして終戦に持ち込むしか有りません。
しかし会津藩主・松平容保は白虎隊に自分の警護を命じています。子供を盾にして自分の命を長らえようなど、指導者として最低です。挙句の果て、会津城炎上に至っています。
太平洋戦争で、本土決戦、一億玉砕に成らなかったのは、それをやると会津藩主・松平容保と同じになってしまうという恐れが当時の戦争指導者に有ったからです。つまり白虎隊の悲劇が1億人の日本人を救ったのです。
白虎隊の悲劇が起こったのは8月23日です。ですから8月23日の前に降伏しようとしたのです。実際、ダラダラと降伏を遅らせていたら、当然若者の戦死者は増えたでしょうし、第三の原爆投下も有ったでしょう。
エビデンスを出せと言われても、歴史には全ての証拠が残っているわけでは有りません。当時の「御前会議」の会議録も有りません。伝聞が残っているだけです。従って「御前会議」で話された事は全て記録に残って無いですし、ですから「白虎隊」の話が出たかどうかも分かりません。
ただ、敗戦処理をどうするか?という問題ですから、日本の歴史の似たような事例を参考にするのは当然です。その場合、戊辰戦争での事例は、当時の戦争指導者の頭の中に有って当然でしょう。