この時期になると太平洋戦争時のことがとかく問題になります。
今年も靖国参拝問題とか戦争責任とか・・・。とはいえ、現在の日本を見れば、
不況だ不況だといいながらも飽食を貪っている。戦争自体は毎年語られるけど
戦争中に国に残って生活していた人たちについては忘れられがちな気がして。
どのような生活で、どのようなものを食していたのか良くご存知の方、教えてください。

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A 回答 (6件)

この時期の人々は既に高齢化しています。



私が昭和8年,1933年生まれ、戦争の終結が昭和20年,1945年。現在68歳
戦争の前線に出た人々は70歳を越えています。

私の体験は小学生の2年から6年まで、この間の体験は到底このようなところで
総てを書くことは不可能です。

育ち盛りの年齢、最後には食べ物の話になります。
生活していた場所、環境により違いはありますがこと食べ物については農村が
有利でした。

粟、稗こそ食べませんでしたが、大豆の絞り粕、小麦のふすま、かぼちゃ、
薩摩芋、干し杏、大麦、等が主食の座を占めたことも有ります。

白米のご飯と梅干は最高のご馳走。肉などお眼にかかることも有りませんでした。
総ての生活物資は国の統制下、一人にどれだけかの割り当てが有りましたが、

戦争末期になるとこの割り当ても有名無実でした。
履物、衣類も総て同じ、年々大きくなる子供は履物には苦労しました。

右左大きさの違う靴を貰って喜んでいましたが最後にはこれも無くなり
草鞋を履いていましたがこれも新しい物は学校で盗まれました。

欲しがりません勝までは、この標語の下に耐乏生活をしていました。

海に魚は多く居たようですがこれを獲りに行く漁船も軍の管理下、
漁をする人も少なくなり、漁船も海に出ると爆撃の標的になりました。

私は戦争終結後、微熱が続きましたが飢餓熱、栄養失調の発熱でした。
私達年代の人が戦争の体験を語るとき最後には食べ物話で終わります。

日本の大中都市に暮らした人々の殆どは爆撃の恐怖を体験し、衣食住総てで
辛酸をなめた筈です。

このような生活が精神的な重荷になり語ることを拒否する人もあると聞きました。
野坂昭之(字が違うかも)のアメリカひじきと言う小説が終戦前後の食生活を書き賞を貰った筈です

確かこれをもとにしたアニメが有りました。
見ていて目頭が熱くなりました。

私の姪がこのような話を聞きたがり話し事が有りますが2時間くらい話しても
終わりませんでした。

このような生活をしてきても人間は生きています。改めて生命力の強さを
実感するときも有ります。
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この回答へのお礼

ご丁寧な回答ありがとうございました。大変勉強になります。
戦争を単なる史実として出なく、より現実感の有る伝え方を
考える必要性を感じました。

お礼日時:2001/08/08 09:38

高粱というのはイネ科の植物で、主に中国北部や満州で植えられ玉蜀黍やサトウキビに似た茎や葉を持っていて高さも2.5m



くらいになるため、戦争中は中国の[便宜隊:中国人兵士またはゲリラが民間人を装っていた]や、匪賊が隠れて日本兵を

大いに悩ませたという歴史があります。(これについては芥川竜之介の[首が落ちた話]に出てきます)
http://www.aozora.gr.jp/cards/akutagawa/htmlfile …

話はそれましたが、その実が食用になる「高粱」で日本では中国の高粱酒などで知られ、鳩用の餌などにもブレンドしています。

それで日本では、粟とかヒエのように作られていたわけではなく、満州から持ってきたものかと思われますが、小豆色をした

2.5~3mmくらいの丸い粒の穀物で、製粉した話は聞いてませんが粒のまま小松菜、油揚げなどと雑炊にしたようです。

植物の画像として適当な例ではないのですが、高粱が写っている写真があるので紹介しておきます。
http://www.koryos.com/profile/whatskb.htm

また高粱は歴史的にもかなり古い作物で「三国志演義」にも出てきます。。。脱線し序でにご覧下さい!!
   _______________________

◆ 義と孝 ◆ 高粱米の赤いわけ

関羽が荊州に駐留していたときのこと、関羽の馬・赤兎馬が高粱の苗を見つけて食べ尽くしてしまい、
土地の農民が関羽のもとに押しかけた。
関羽は謝り、必ず償うと約束したが、その後敗走して命を落とした。
冥府に降りた関羽はなお農民たちとの約束を憶えており、仙界の神農氏を訪ねて二粒の仙粒を貰った。
さて、荊州の農民たちは、枯れたままだった高粱の苗がまた青々としているのを見て不思議に思った。
その夜、農民たちの夢に赤兎馬に乗った関羽が現われ、「高粱の苗は私と赤兎馬とで元通りにするので、
どうか許してほしい」と言った。
夏の収穫を迎えて、農民たちは驚いた。
高粱の苗が関羽の顔、赤兎馬の毛並を思わせる赤い色をしていたのだ。
まさしく関羽は「義」の人だったのである。  (「三国演義的伝説」)
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この回答へのお礼

重ね重ねありがとうございました。大変勉強になりました。

お礼日時:2001/08/09 10:30

きのう書く時間がなかったのですが、まだ開いているようなので私も少々書き足します。



sdaruさんより年下で、記憶が戦時中なのか戦後だったのか分らないので遠慮していたのですが、興味深く読ませて頂きました。
まずは腹が減ってはイクサは出来ぬの喩えどおり、ヒモジイノが敵だなんてナサケない話しでした。

食料と言えば農村の方が有利だったと書いておられますが、3月10日の大空襲で焼かれた今の江東・墨田区などは東京でも
自家菜園も作る空き地もないのですから山手線の外部より大変だったと思います・・・実情は知りませんが!

自分の住んでいた付近について話せば、芝生の庭はどの家も戦争の初期はナス、キューリ、トマト、いんげん、エンドウ、ほうれん草、
小松菜、ニラ、ミョウガ、人参、イチゴなど好きなものを作っていたのです。

ところが戦争が激しくなり、お米の配給も麦の比率は増えその内たしか配給の量も減ってきた記憶があるのですが、そうなると
趣味的なものは作れません・・・結局、かぼちゃ、さつま芋(金時と太白)など素人にも作れ、腹持ちのいい野菜がお米の代わりに
するために作られるようになったのでした。
・・・裏の家のお爺さんは、かぼちゃが好きで戦後も作りつづけ顔が黄疸かと思うくらい黄色になっていたのを思い出しました。

戦時中食べた経験はないのですが、食券がないと駅前食堂でも飯が食えないと言う時期に[高粱:コウリャン]の雑炊は食券が
なくても食べられるとかいろいろ断片的に覚えています。
ただ地域差はあるにせよ食料で一番困ったのは都会の人間で、私の記憶では戦争が終わってからの方が深刻だった気がします。

闇米を買うのを潔しとせず、餓死した検事だか裁判官の話しとか、フスマ(脱穀した麦の殻)をパンにした記憶とかイモや豆の入った
飯の記憶は、昭和20、21年のほうがより深刻だったと思います。
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この回答へのお礼

ご丁寧にありがとうございます。ただ、勉強不足で申し訳ないのですが、高粱の雑炊についてもう少し詳しく教えていただけないでしょうか。

お礼日時:2001/08/08 13:58

1の方とほぼ同じような生活をしていました。


異なる点は.兵隊による暴行が有ったこと.動けなくなった人間を近所で生きていたまま燃していたこと.燃え残りを食べていた人々がいたこと(燃していた人間です)です。
ある集落では.兵隊に対して食糧を供給しませんでした。兵隊は.その集落で食糧の供給を受けるように命令が有りました。兵隊は.食料を用意しました。つまり.その集落全員を銃剣でとさつし.食べていました。この話は.兵隊の一人から聞いたことです。
日本臣民は.天皇の私兵である大日本帝国軍の食料に供給されていました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。初めて聞く話です。極限状態の中での現実と受け止めました。私の世代では学校教育の中でしか戦争を知りません。言葉でいうのは軽軽しいかもしれませんが、実生活(極限状態での)としての戦争こそ、伝えていくべきではないでしょうか。

お礼日時:2001/08/08 09:50

 都会では空き地があれば、サツマイモやかぼちゃを植えていました。

甲子園のグラウンドでも植えていたのは有名です。芋は米と混ぜて、イモご飯、芋のツルは雑炊・すいとんに入れていました。また、夏から秋にかけては、子供達はいなご・はちのこ取り、川ではシジミ・川ニナ取りを盛んにして、貴重なタンパク原となりました。いまでも、サツマイモやかぼちゃを食事に出されるとげんなりする年取った人はよくいます。下は、当時の人の聞き書きです。参考URLは戦時下の生活の品々の写真です。 
http://www.chitanet.or.jp/users/10010134/kikigak …

参考URL:http://cscns.csc.gifu.gifu.jp/virtual_museum/dat …
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
私の父もサツマイモは昔を思い出すと言って、食べることはありません。

お礼日時:2001/08/08 09:42

私の親や、祖父祖母に聞いた話です。


主食はサツマイモを使った「すいとん」といって、お米が少々、芋少々、芋のツルを水で煮たものだったそうです。
実のところ、ほとんど水だったそうです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2001/08/08 09:40

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Q太平洋戦争での沖縄地上戦の戦後

 こんにちは。
GWに初めて沖縄旅行し、ひめゆり記念館へ行きました。当時、激しい地上戦の中で逃げ惑った女学生達や、手榴弾自決した人たちの記録が生々しく残されていました。
 ところで、一つ疑問なのですが、米軍に捕まった人たちは、どうなったのでしょうか?捕虜になったのでしょうか?
 以前、「さとうきび畑の唄」というドラマをやってましたが、あの中ではラストシーンで米兵に助けてもらって親切にされているシーンがありましたが、現実は本当にそうだったのでしょうか?
 沖縄は昭和47年まで占領下にあったと聞いていますが、それまで人々は、戦前のような暮らしは出来たのでしょうか?
 戦争中のことは資料館でよくわかりましたが、それ以降のことが知りたいです。どなたかぜひ、ご教示願います。

Aベストアンサー

米軍は沖縄占領後、軍人および民間人をすべて収容所へと囲い込みました。戦前と同様の生活というわけではありません。収容所では食料が配給されており生活は保障されていましたが、当然いろいろとトラブルはあったようです。

1946年から1947年にかけ、民間人が収容所から帰村することが許可されました。

占領下の時代の沖縄は本土以上に厳しい状況が続いた(そして今も続いている)わけですが、戦前と同じであるかという問いは難しいですね。
ほとんどのインフラと歴史的建造物は破壊され、多くの土地が基地として接収され、農業以外の産業は基地作業しかなく、日本の法律に従う必要のない人間が多数滞在し…

参考URL:http://www.nahashuppan.com/catalog/pages/list/072/072chapter2.html

Q国民に太平洋戦争の戦争責任はあるのか?

『天皇独白録』(文春文庫)では(「西園寺公望と政局」)からの引用で
>昭和13年7月11日豆満江北岸の張鼓峰での日ソ両軍衝突の際、天皇は明確な統帥命令を下している。
「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条溝の場合といい、今回の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじき卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う。このたびはそんなようなことがあってはならんが・・・今後は朕の命令なくして一兵でも動かすことはならん」
 と書かれてあります。それのも関わらず、翌年満蒙国境で関東軍はノモンハン事件を半ば意図的に起こし、大敗を喫し、それを国民にはひたかくしに隠し、かつ上記の本でも天皇に正確な戦況報告を入れたとも思えません。
 司馬遼太郎氏もノモンハン事件が昭和の転換点と考えていますが、正直に大敗したことを国民に報道していたら、国民は開戦にOKを出したでしょうか?
 国民は情報操作で戦争やむなしと思ったようですが、戦前、戦中を通して嘘で固められたら国民は戦争責任のとりようがないように思っています。大日本憲法では国民主権が保証されていない以上、国民にも責任があるとは法的にも考えられません。国民に責任を押し付けるのは、やはり軍部の責任を軽減しようとする卑怯な考え方と思います。

『天皇独白録』(文春文庫)では(「西園寺公望と政局」)からの引用で
>昭和13年7月11日豆満江北岸の張鼓峰での日ソ両軍衝突の際、天皇は明確な統帥命令を下している。
「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条溝の場合といい、今回の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじき卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う。このたびはそんなようなことがあってはならんが・・・今後は朕の命令なくし...続きを読む

Aベストアンサー

大日本(帝国)憲法では「天皇ハ神聖ニシテ犯スベカラズ」とあります。
人ではなくて神なのです。そして、「犯スベカラズ」なので、責任もとらせることができません。
開戦しましょう、と多数決で閣議決定をもちこんだ内閣、つまり「天皇を輔弼(ほひつ)する臣下」に責任があります。

Q対馬丸の悲劇の理由

 レポートで、太平洋戦争中、沖縄の疎開の人々を乗せたまま沈没した『対馬丸』について調べています。
 しかし近隣の図書館には『対馬丸沈没』についての詳しい本がありません。
 特に、何故対馬丸の悲劇が起こったのか、撃沈されない方法は無かったのか、撃沈の理由の影に日本軍が絡んでいないかについて調べたいと思っているのですが、それについて詳しい情報をお持ちの方や、詳しく書いてある本を知っている方がおられましたら、是非教えて下さい。 お願いします。

Aベストアンサー

昨年、琉球新報社が戦後60年の企画として、「沖縄戦新聞」というのを全14回のシリーズで作りました。
新聞紙上の企画であるため、沖縄県内在住でもない限りは図書館などでの閲覧は難しいかもしれませんが、その後同紙が増刷版を発売、↓より入手可能です。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-8759-storytopic-29.html

この全14回中、2回目に対馬丸の内容が入っていますので、参考になるかと。

Qどうして天皇は靖国参拝をおやめになったのか

昭和天皇はA級戦犯の合祀後は
靖国の参拝をおやめになられましたよね。
これは陛下自身のご意志だったのでしょうか?
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結果なのですか?
私は、日本国に忠節を尽くして刑死を遂げた臣下に対して
あの陛下が不義理や日和見をなさるはずがないと
思うのですが、そこが疑問です。
ご存じでしたらよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

 昭和天皇が,靖国神社にA級戦犯合祀後に参拝されていないのは事実ですが,A級戦犯が合祀されたから参拝していない訳ではありません。同じ戦犯でも,BC級戦犯が靖国神社に合祀された以降にも,昭和天皇は靖国神社に参拝しています。
 
 1975年,三木武夫首相が,戦後の首相としては初めて,終戦記念日に靖国神社を参拝しました。この時,政教分離の原則に反するのではないかとの指摘に「私的参拝である。」と言い切っています。
 私的参拝四原則と言うのを掲げたのです。
1 公用車を使用しない。(実際にタクシーで行かれた)
2 玉串料は私費から支出する。
3 記帳する際には肩書きを書かない。
4 公職者を随行しない。
 
 この1975年の11月21日に昭和天皇・香淳皇后が靖国神社と千鳥が淵戦没者墓苑に参拝しています。
 この両陛下の参拝に際して国会で議論になりました。両陛下の参拝は私的参拝か,公式参拝か。
 三木首相が掲げた私的参拝四原則ですと,天皇は,1と4をクリアできず,それ以後両陛下が靖国神社に参拝されなくなりました。1975年11月21日に参拝されたのが最後となりました。
 A級戦犯が合祀されたのは,その後の1978年です。
 
 首相が靖国神社に参拝するたびに「私的参拝か?公式参拝か?」などと議論されました。天皇が皇居外でなさる行事は全て公式行事であるため,私的参拝はあり得ず,天皇自ら参拝すると世の中をひっくり返したような騒ぎなることが分かっているので,参拝なさりません。
 
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 昭和天皇が,靖国神社にA級戦犯合祀後に参拝されていないのは事実ですが,A級戦犯が合祀されたから参拝していない訳ではありません。同じ戦犯でも,BC級戦犯が靖国神社に合祀された以降にも,昭和天皇は靖国神社に参拝しています。
 
 1975年,三木武夫首相が,戦後の首相としては初めて,終戦記念日に靖国神社を参拝しました。この時,政教分離の原則に反するのではないかとの指摘に「私的参拝である。」と言い切っています。
 私的参拝四原則と言うのを掲げたのです。
1 公用車を使用しない...続きを読む

Q対馬丸とボーフィン号

太平洋戦争のドキュメント映像を観ていて疑問に思いました。
アメリカ海軍潜水艦「ボーフィン号」は、対馬丸が学童疎開の学童1000名以上を乗せた船とわかっていて、何故撃沈させたのでしょうか?
海に散った700人以上の子どもたち。
個人的な考えですが、『戦争犯罪』とは、こういうことを云うのではと憤りを感じてしまいます。

Aベストアンサー

対馬丸については、テレビでもドキュメンタリー番組が組まれた事があり、乗組員の証言もありました。
潜水艦では潜望鏡を見る事ができるのは、艦長のみです。
最近の資料公開でボーフィンは浮上していたという事が明らかになりましたが、それでも戦闘態勢のときに艦橋から外の様子を見ることができるのは艦長とほんの僅かな人だけです。
乗組員は艦長が攻撃といえば攻撃するしかなく、ましてや最前線の艦船に暗号解読の結果としての「民間人が乗っている」という情報など伝えられていなかったそうです。
そういう意味では、ボーフィンだっては児童を殺そうとしたわけではないでしょう。
仮に「対馬丸に児童が乗っている」という情報があっても、洋上に浮かぶ船が対馬丸であることを確認できません。
平和なときと違って、当時の船は一切の灯火を消して航行していたのです。
病院船や緑十字船は、敵国に航路とスケジュールを事前通告した上で、赤十字や緑十字マーク、大きく書かれた船名をライトで照らしていたので、航行の安全が保証されていたのです。

それから何故救助しなかったかという事ですが、あなたはこの潜水艦ボーフィンを見た事がありますか?。
私はあります。
ハワイの真珠湾にミズーリとともに係留されていて、見学も可能です。
潜水艦は狭い船内に100人近くの乗組員が乗っており、物理的に救助は不可能です。ベッドが人数分なく一つのベッドを2~3人で交代で使用しているのですよ。
横須賀沖で、潜水艦なだしおと第一富士丸が衝突したとき潜水艦が第一富士丸の乗員のうち海に投げ出された人を救助していますが、沿岸だった事と比較的少人数だったから可能だったのです。

ましてや、対馬丸には船団護衛の艦船が付いており、この艦船から攻撃を受ける可能性がありますから、攻撃後、直ぐに戦場を離脱するのは普通です。潜水艦は機銃の弾丸で一つでも穴があけば、潜航する事ができず、場合によっては沈没してしまうほどデリケートな船です。

あなたはアメリカが救助しなかった事を責めているようですが、
対馬丸が攻撃された事を知っていたのに救助せずに見捨てていった、この船団の他の船、和浦丸、暁空丸、宇治、蓮の4隻の行動をどう感じますか?。
何故、味方なのに助けなかったのでしょうか?。
この心理が人間の正常な思考を変えてしまう戦争の怖さだと思いませんか?。

対馬丸については、テレビでもドキュメンタリー番組が組まれた事があり、乗組員の証言もありました。
潜水艦では潜望鏡を見る事ができるのは、艦長のみです。
最近の資料公開でボーフィンは浮上していたという事が明らかになりましたが、それでも戦闘態勢のときに艦橋から外の様子を見ることができるのは艦長とほんの僅かな人だけです。
乗組員は艦長が攻撃といえば攻撃するしかなく、ましてや最前線の艦船に暗号解読の結果としての「民間人が乗っている」という情報など伝えられていなかったそうです。
そう...続きを読む

Q阿部首相の靖国参拝って良かったんですか??

阿部首相が靖国を参拝しました。
国民の8割が支持をしており、何となく正しいと思っていました。

中国や北朝鮮から痛烈な批判が来ることは分かっていました。
いまさらこいつらを相手にしても仕方がないので無視します。

でも、同盟国であるはずの米国や韓国から批判が来ました。
これが私にとって謎です。
靖国参拝はしない方が良かったのでしょうか。

Aベストアンサー

大失敗、大間違いでした。
そしてそれがもう取り返しのつかない状態になって来ました。
もっと大きな問題は、この事態の深刻さを安倍首相は理解しておらず、さらに同じく国民が解って居ないことです。

まずアメリカが何故怒っているか?ということが解っていません。
日本人は太平洋戦争でアメリカを鬼畜米英と言って憎んで戦争したことを忘れて仕舞っているようです。
そしてその戦争でコテンパに叩かれたことも忘れています。
しかしながら戦後70年のアメリカの世界支配は、この戦勝によって成り立ったもので、そのことをアメリカが一番よく知っています。
東京裁判は良く考えれば、勝者の裁判で、原爆投下などの大犯罪を考えると、むちゃくちゃ裁判でした。
しかしこのむちゃくちゃ裁判を正義と言うことによって、戦後の世界秩序は成り立っているのです。
アメリカが世界の警察官のような顔が出来ているのも、あの東京裁判を「正義」と言い張ることによって成り立っています。

その東京裁判を無視するような行動が許せるはずがありません。
それも当の日本人からそれをやられては、怒らないはずがありません。
そういうシグナルは安倍政権が出来た時から、出されていたのに、安倍首相はそれを無視して、戦犯を慰霊するという暴挙に出たのでした。
アメリカが東京裁判には内心後ろめたい気持ちを持っているからこそ、この安倍首相の裏切りは許せないのだと思われます。
ところでアメリカの表向きの理由は、「中国となかよくせよ!」というものでした。
かつての戦争も日中戦争が原因で、日米戦争に発展したものであることを考えると、それと同じことがもう一度再現する兆しが見えてきて、これほそ恐ろしいことはありません。
そしてこの問題が深刻な理由として、今回の安倍首相靖国参拝を国民の8割が支持していると言う世論の問題もあります。
安倍首相の個人的失敗ならば一過性のものと出来るのですが、日本国民の世論を見れば、アメリカとしても相当深刻にとらえていると思われます。
日本国民の中に、東京裁判不審、対米従属外交の屈辱感が湧いてきており、ペリーに始まる反米感情が根強いく存在すると言うことです。

日米戦争の愚を繰り返さないためには、今後の日本国民の賢明な行動が必要なのですが、そういう論がどこにも見られないことも、大問題の一つです。

参考URL:http://blog.livedoor.jp/kobatetu01-memo/

大失敗、大間違いでした。
そしてそれがもう取り返しのつかない状態になって来ました。
もっと大きな問題は、この事態の深刻さを安倍首相は理解しておらず、さらに同じく国民が解って居ないことです。

まずアメリカが何故怒っているか?ということが解っていません。
日本人は太平洋戦争でアメリカを鬼畜米英と言って憎んで戦争したことを忘れて仕舞っているようです。
そしてその戦争でコテンパに叩かれたことも忘れています。
しかしながら戦後70年のアメリカの世界支配は、この戦勝によって成り立ったもので...続きを読む

Qもしも,太平洋戦争がなければ・・・

もしも,太平洋戦争がなければ・・・
昨日22日は,太平洋戦争において沖縄戦が事実上終了した日だそうです。もし,仮に,ハル・ノートを受け入れて満州から撤兵して米英との戦争を回避したとしたならば,当時の世界情勢,日本の国力(人口,衆情,庶民の生活など)からどうような展開になったと考えられますか。また,戦争を回避した日本に対して,米英はどう対応したでしょうか。

Aベストアンサー

大東亜戦争後期の海運が大打撃を受けた
時期以降には飢餓が発生しています。
地域によっては食人の例も在ったと伝え

れています。食料確保は大問題でした。
本土では人を養えない。長野や東北地方
では大勢が農地を求めて満州へ行きました。

本土で7500万人の食料自給は無理。
全員で農業すれば生きる事は出来るでしょうが。
現代の北朝鮮状態という事になる。

Q靖国参拝の前に読む本は?

先の戦争について膨大な知識も、戦犯や靖国についての明確な是非も持っておりませんが、とにかく歴史に触れ少しでも自分なりの判断を得られるよう、参拝してみたいと思っています。

その前に、できるだけ勉強しておきたいのですが、おすすめの本などがあれば教えて下さい。

本でなくとも参拝する前に心がけることなどがもしあれば、アドバイスを頂きたいです。

親も戦後生まれで、大人になってからの独学以外は学生時代に習ったくらい、語り聞かせてくれるようなお年寄りも身近に皆無で・・・戦争について触れる機会が乏しいのですが、親として子供に正しく伝たいと思っています。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

これから参拝なさる人に否定的な本を紹介してしまいますが。きちんと靖国の問題について論評しています。

靖国問題 ちくま新書 (532)
戦後責任論 講談社学術文庫 (1704)

高橋 哲哉 (著)

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/index=books-jp&field-author=%E5%93%B2%E5%93%89%2C%20%E9%AB%98%E6%A

Q沖縄戦(地上戦)について

太平洋戦争の沖縄戦について詳しく載っているサイトをご存知の方いませんか?できれば地上戦について詳しく載っているサイトをお願いします。

Aベストアンサー

こんなのはいかがですか。↓

参考URL:http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/okinawasenn.htm

Q個人墓が爆発的に拡大しているそうです。 昔は○○家の墓という一族で入るお墓から、戦争とか出稼ぎとかで

個人墓が爆発的に拡大しているそうです。

昔は○○家の墓という一族で入るお墓から、戦争とか出稼ぎとかで地元を離れて自分と子供のお墓として家族のお墓を一族の家系のお墓から独立して建てるように一族のお墓から家族のお墓になって家族のお墓にも入らずに家族の親が建てたお墓ではなくまた新たに自分のお墓を建てる高齢者が増えているそうです。

旦那の実家の家族が入っているお墓に一緒に入りたくないという女の人が個人墓を夫のお墓とは別に建てるのが多いそうで、旦那の実家の家族と一緒に入りたくないが自分の実家のお墓に入れてくれと言うのも言いづらいので自分の好きなようにデザインしたお墓に維持管理費を先払いで支払っていく人が多いらしい。

子供はお父さんの実家のお墓参りとお母さんの個人墓の2つに参りしてるけど、お父さんが一族の本家のお墓参りをしなくなったように、子供の子供はおじいちゃんのお墓参りを止めるのか、おばあちゃんの個人墓のお墓参りを止めるのか両方とも行かなくなるのかわからないらしい。

孫が東京でまた自分たちのお墓を作ったら、完全に本家のお墓とお父さんの実家のお墓とお母さんの個人墓のお参りには行かなくなると思われる。

お墓が負債というか無縁化していって墓地だと無縁墓は引っこ抜かれて墓石は供養されて山住みされて、印字面を削って再利用される。

骨壺はどうするのかは分からない。

お墓が分散化されて個人1人に一個のお墓の世界になってきているのは間違いない。

これって個人墓の時代のお墓の概念はいまと変わりそう。

創価学会はお墓を複数持ちましょうって言った責任は感じているのだろうか?

個人墓の普及で無縁墓が増加して墓石がゴミ化しているのだが。

個人墓が爆発的に拡大しているそうです。

昔は○○家の墓という一族で入るお墓から、戦争とか出稼ぎとかで地元を離れて自分と子供のお墓として家族のお墓を一族の家系のお墓から独立して建てるように一族のお墓から家族のお墓になって家族のお墓にも入らずに家族の親が建てたお墓ではなくまた新たに自分のお墓を建てる高齢者が増えているそうです。

旦那の実家の家族が入っているお墓に一緒に入りたくないという女の人が個人墓を夫のお墓とは別に建てるのが多いそうで、旦那の実家の家族と一緒に入りたくないが自...続きを読む

Aベストアンサー

うん、本当ですよね。

ゆえに、というか、当然の帰結なんだけど「樹木葬」とか「共同墓」を選択する人も多い。
埋葬に関しては、昔ならば「墓地」はあったけど、そこに樽詰めされた遺体を運んで、穴を掘って埋めるだけでしたからね。
だから墓石なんかも、主な役割は「目印」くらいだったんでしょうね。
それが肥大化し始めた。
墓石が巨大化し、お寺も墓地の「割り振り」を始めて、一族の墓としての役割を持たせるようになった。
それがさらに細分化していったのが昨今で、まるで建売住宅のようです。

個人墓の問題は、そう遠くないうちに転換を余儀なくされるでしょう。
高齢化と少子化は変わることはありませんので、無縁墓は爆発的に増え続け、寺も今までと同じ対応は出来なくなりますから、墓地そのものを減らす方向に傾くと思います。
もしくは、全く「別の場所」に共同墓や樹木墓を集めた「墓地公園」を建設し、読経なども省く方向での経営になると思います。

人間関係が希薄になってきたわけですから、当然、法要の回数などもミニマム化し、寺の存続が窮地に陥るのは目に見えています。
今は過渡期といったところです。

うん、本当ですよね。

ゆえに、というか、当然の帰結なんだけど「樹木葬」とか「共同墓」を選択する人も多い。
埋葬に関しては、昔ならば「墓地」はあったけど、そこに樽詰めされた遺体を運んで、穴を掘って埋めるだけでしたからね。
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それが肥大化し始めた。
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