痔になりやすい生活習慣とは?

この時期になると太平洋戦争時のことがとかく問題になります。
今年も靖国参拝問題とか戦争責任とか・・・。とはいえ、現在の日本を見れば、
不況だ不況だといいながらも飽食を貪っている。戦争自体は毎年語られるけど
戦争中に国に残って生活していた人たちについては忘れられがちな気がして。
どのような生活で、どのようなものを食していたのか良くご存知の方、教えてください。

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A 回答 (6件)

この時期の人々は既に高齢化しています。



私が昭和8年,1933年生まれ、戦争の終結が昭和20年,1945年。現在68歳
戦争の前線に出た人々は70歳を越えています。

私の体験は小学生の2年から6年まで、この間の体験は到底このようなところで
総てを書くことは不可能です。

育ち盛りの年齢、最後には食べ物の話になります。
生活していた場所、環境により違いはありますがこと食べ物については農村が
有利でした。

粟、稗こそ食べませんでしたが、大豆の絞り粕、小麦のふすま、かぼちゃ、
薩摩芋、干し杏、大麦、等が主食の座を占めたことも有ります。

白米のご飯と梅干は最高のご馳走。肉などお眼にかかることも有りませんでした。
総ての生活物資は国の統制下、一人にどれだけかの割り当てが有りましたが、

戦争末期になるとこの割り当ても有名無実でした。
履物、衣類も総て同じ、年々大きくなる子供は履物には苦労しました。

右左大きさの違う靴を貰って喜んでいましたが最後にはこれも無くなり
草鞋を履いていましたがこれも新しい物は学校で盗まれました。

欲しがりません勝までは、この標語の下に耐乏生活をしていました。

海に魚は多く居たようですがこれを獲りに行く漁船も軍の管理下、
漁をする人も少なくなり、漁船も海に出ると爆撃の標的になりました。

私は戦争終結後、微熱が続きましたが飢餓熱、栄養失調の発熱でした。
私達年代の人が戦争の体験を語るとき最後には食べ物話で終わります。

日本の大中都市に暮らした人々の殆どは爆撃の恐怖を体験し、衣食住総てで
辛酸をなめた筈です。

このような生活が精神的な重荷になり語ることを拒否する人もあると聞きました。
野坂昭之(字が違うかも)のアメリカひじきと言う小説が終戦前後の食生活を書き賞を貰った筈です

確かこれをもとにしたアニメが有りました。
見ていて目頭が熱くなりました。

私の姪がこのような話を聞きたがり話し事が有りますが2時間くらい話しても
終わりませんでした。

このような生活をしてきても人間は生きています。改めて生命力の強さを
実感するときも有ります。
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この回答へのお礼

ご丁寧な回答ありがとうございました。大変勉強になります。
戦争を単なる史実として出なく、より現実感の有る伝え方を
考える必要性を感じました。

お礼日時:2001/08/08 09:38

高粱というのはイネ科の植物で、主に中国北部や満州で植えられ玉蜀黍やサトウキビに似た茎や葉を持っていて高さも2.5m



くらいになるため、戦争中は中国の[便宜隊:中国人兵士またはゲリラが民間人を装っていた]や、匪賊が隠れて日本兵を

大いに悩ませたという歴史があります。(これについては芥川竜之介の[首が落ちた話]に出てきます)
http://www.aozora.gr.jp/cards/akutagawa/htmlfile …

話はそれましたが、その実が食用になる「高粱」で日本では中国の高粱酒などで知られ、鳩用の餌などにもブレンドしています。

それで日本では、粟とかヒエのように作られていたわけではなく、満州から持ってきたものかと思われますが、小豆色をした

2.5~3mmくらいの丸い粒の穀物で、製粉した話は聞いてませんが粒のまま小松菜、油揚げなどと雑炊にしたようです。

植物の画像として適当な例ではないのですが、高粱が写っている写真があるので紹介しておきます。
http://www.koryos.com/profile/whatskb.htm

また高粱は歴史的にもかなり古い作物で「三国志演義」にも出てきます。。。脱線し序でにご覧下さい!!
   _______________________

◆ 義と孝 ◆ 高粱米の赤いわけ

関羽が荊州に駐留していたときのこと、関羽の馬・赤兎馬が高粱の苗を見つけて食べ尽くしてしまい、
土地の農民が関羽のもとに押しかけた。
関羽は謝り、必ず償うと約束したが、その後敗走して命を落とした。
冥府に降りた関羽はなお農民たちとの約束を憶えており、仙界の神農氏を訪ねて二粒の仙粒を貰った。
さて、荊州の農民たちは、枯れたままだった高粱の苗がまた青々としているのを見て不思議に思った。
その夜、農民たちの夢に赤兎馬に乗った関羽が現われ、「高粱の苗は私と赤兎馬とで元通りにするので、
どうか許してほしい」と言った。
夏の収穫を迎えて、農民たちは驚いた。
高粱の苗が関羽の顔、赤兎馬の毛並を思わせる赤い色をしていたのだ。
まさしく関羽は「義」の人だったのである。  (「三国演義的伝説」)
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この回答へのお礼

重ね重ねありがとうございました。大変勉強になりました。

お礼日時:2001/08/09 10:30

きのう書く時間がなかったのですが、まだ開いているようなので私も少々書き足します。



sdaruさんより年下で、記憶が戦時中なのか戦後だったのか分らないので遠慮していたのですが、興味深く読ませて頂きました。
まずは腹が減ってはイクサは出来ぬの喩えどおり、ヒモジイノが敵だなんてナサケない話しでした。

食料と言えば農村の方が有利だったと書いておられますが、3月10日の大空襲で焼かれた今の江東・墨田区などは東京でも
自家菜園も作る空き地もないのですから山手線の外部より大変だったと思います・・・実情は知りませんが!

自分の住んでいた付近について話せば、芝生の庭はどの家も戦争の初期はナス、キューリ、トマト、いんげん、エンドウ、ほうれん草、
小松菜、ニラ、ミョウガ、人参、イチゴなど好きなものを作っていたのです。

ところが戦争が激しくなり、お米の配給も麦の比率は増えその内たしか配給の量も減ってきた記憶があるのですが、そうなると
趣味的なものは作れません・・・結局、かぼちゃ、さつま芋(金時と太白)など素人にも作れ、腹持ちのいい野菜がお米の代わりに
するために作られるようになったのでした。
・・・裏の家のお爺さんは、かぼちゃが好きで戦後も作りつづけ顔が黄疸かと思うくらい黄色になっていたのを思い出しました。

戦時中食べた経験はないのですが、食券がないと駅前食堂でも飯が食えないと言う時期に[高粱:コウリャン]の雑炊は食券が
なくても食べられるとかいろいろ断片的に覚えています。
ただ地域差はあるにせよ食料で一番困ったのは都会の人間で、私の記憶では戦争が終わってからの方が深刻だった気がします。

闇米を買うのを潔しとせず、餓死した検事だか裁判官の話しとか、フスマ(脱穀した麦の殻)をパンにした記憶とかイモや豆の入った
飯の記憶は、昭和20、21年のほうがより深刻だったと思います。
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この回答へのお礼

ご丁寧にありがとうございます。ただ、勉強不足で申し訳ないのですが、高粱の雑炊についてもう少し詳しく教えていただけないでしょうか。

お礼日時:2001/08/08 13:58

1の方とほぼ同じような生活をしていました。


異なる点は.兵隊による暴行が有ったこと.動けなくなった人間を近所で生きていたまま燃していたこと.燃え残りを食べていた人々がいたこと(燃していた人間です)です。
ある集落では.兵隊に対して食糧を供給しませんでした。兵隊は.その集落で食糧の供給を受けるように命令が有りました。兵隊は.食料を用意しました。つまり.その集落全員を銃剣でとさつし.食べていました。この話は.兵隊の一人から聞いたことです。
日本臣民は.天皇の私兵である大日本帝国軍の食料に供給されていました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。初めて聞く話です。極限状態の中での現実と受け止めました。私の世代では学校教育の中でしか戦争を知りません。言葉でいうのは軽軽しいかもしれませんが、実生活(極限状態での)としての戦争こそ、伝えていくべきではないでしょうか。

お礼日時:2001/08/08 09:50

 都会では空き地があれば、サツマイモやかぼちゃを植えていました。

甲子園のグラウンドでも植えていたのは有名です。芋は米と混ぜて、イモご飯、芋のツルは雑炊・すいとんに入れていました。また、夏から秋にかけては、子供達はいなご・はちのこ取り、川ではシジミ・川ニナ取りを盛んにして、貴重なタンパク原となりました。いまでも、サツマイモやかぼちゃを食事に出されるとげんなりする年取った人はよくいます。下は、当時の人の聞き書きです。参考URLは戦時下の生活の品々の写真です。 
http://www.chitanet.or.jp/users/10010134/kikigak …

参考URL:http://cscns.csc.gifu.gifu.jp/virtual_museum/dat …
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
私の父もサツマイモは昔を思い出すと言って、食べることはありません。

お礼日時:2001/08/08 09:42

私の親や、祖父祖母に聞いた話です。


主食はサツマイモを使った「すいとん」といって、お米が少々、芋少々、芋のツルを水で煮たものだったそうです。
実のところ、ほとんど水だったそうです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2001/08/08 09:40

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Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

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Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
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戦時中の子供達の遊びを、詳しく教えてください。

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戦時中、空から落下してきたものには、B29やグラマンという戦闘機などから爆弾、焼夷弾(しょういだん)、銃弾(大人の親指大、何割かは爆発して火災の原因になる)とその薬莢(やっきょう)、アルミ箔のテープ(レーダ攪拌用、この時はラジオにザーザーという雑音が入っていました、日本にはそのようなレーダはなかったと思いますが?、何しろ八木アンテナの発明国ですから、、、。この八木アンテナは、東南アジアへ進軍したときに、英軍が使用していて、初めて日本の八木博士の発明と分かったようです)。

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小学校6年生の息子の夏休みの課題で太平洋戦争についての課題が出ました。それぞれ「衣」・「食」・「住」で振り分けられており、いろいろネット検索しましたが子供には難しすぎてなかなかよい答えが出ません。「衣」に関しては服装や・戦時中どのような配給をされていたのか、「食」に関しては食べていたものや料理など、「住」疎開や住居に関してどのようにすごされていたか。どうかよろしくお願いします。

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お子さんの宿題ですし本人にさせるのが一番かと。お身内や身近な方に戦争を体験されてる方がいらっしゃらないなら、他の方もおっしゃってるようにネットより図書館に行かれるのは良いと思います。うちの両親は戦争体験者で当時の知人との手紙などから生活の様子も多少判りますが、まだお子さんなんですからすぐネットと言うのではなく、何から情報を得るか考える事も勉強なのでは?
とは言え、もう夏休みも終わりなんですね。間に合わないようなら諦めるしかないでしょう。恥をかいて人間は成長します。

Q戦争中の食事

戦争中の食事についての新聞記事がのっているサイトありませんか?

Aベストアンサー

1945年は私が小学生4年頃です、政府の食糧配給計画は発表されますが実際はいつも欠配
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あと食べるものといえば農家が捨てるような野菜類を拝みたおして分けてもらい飢えをしのいだの
です、路傍の草などはとっくの昔に食べつくしていたのです。寝ても覚めても頭の中は食い物の
ことばかり、食糧を調達できない絶望感そして飢餓の体験は敗戦国民の一人としてタップリ
味わされました。今から67年昔のお話です。

Q戦時中の日本国民の生活は、本当はどうだったのか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足しているイメージがありますが、豪邸なんて建てられるのでしょうか?
それに国家の命運がかかっている時期に豪邸を建てるなんて贅沢な事を世間は容認したのでしょうか!?
私は、戦争中にそんな事をすれば批判されそうな気がします。
戦時中に、それも台湾出身者が日本でビジネスをし、その上、大儲けをする。
台湾人がそうなんですから、日本人や朝鮮人などでも大儲けし、景気の良かった人はたくさんいたのではないでしょうか!?

それから話は変わりますが、数週間前の読売新聞の日曜版の中の新刊本を紹介する欄で、本の名前は忘れましたが、戦時中の事が書かれた本の内容が一部紹介されており、戦争中に日本国内で温泉旅行ブームが起こったと書かれていました。

戦争中に温泉旅行ブームは意外な気がしたしたが、戦況の悪化に伴い日本国民の生活はどんどんと厳しくなっていったのは確実だとは思いますが、これまで日本国民がメディアから聞かされてきた様な、戦争中は主食に芋やすいとんを食べていて非常に貧しかったというのは、数ヶ月、半年、一年間の事なんでしょうか?
私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく、食べる物にも事欠いて、窮乏生活を強いられていたと思っていました。

事情通のみなさん、実際はどうなんでしょうか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足...続きを読む

Aベストアンサー

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思想に基づいた教育が続いた結果、左翼系思想に対する制限の強化が殊更に強調されて伝わってしまっています。

(2)の影響で
「私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく」
というイメージを持たれたのだと思います。

庶民生活への経済的影響は昭和2年の金融恐慌が発端となりました。
昭和12年の盧溝橋事件を切っ掛けに軍事費が財政を圧迫し始めました。
同時に米英を中心とした今で言う経済制裁が始まりました。

昭和12年 9月 東京市内の円タクの深夜営業禁止
      10月 東京市内の銭湯の朝湯禁止
      12月 東京に木炭バス出現
昭和13年    代用品と呼ばれる品物が出現
           陶製のナベ、竹製のスプーン、鮫皮の靴、鮭皮のハンドバッグ、木製バケツetc
昭和14年 6月 料亭の営業を午前0時までに制限
      12月 歳末大売出し禁止、門松廃止
昭和15年 1月 後楽園球場で炭焼きが始まる。神宮球場が木炭倉庫に転用される。
       5月 東京市が外米(輸入米)6割混入の米を配給する。
       8月 「ぜいたくは敵」「ぜいたくは出来ない筈だ」などの標語が発表された。
           同時に啓蒙と称する取り締まりが始まる。
      10月 浅草で「代用食展」が開かれる。
          ダンスホールの営業禁止
昭和16年 4月 六大都市で米穀配給通帳が発行され配給制度が始る。外食券が発行される。
       5月 「肉なしの日」が実施される。・・・実質的には市中の食肉は欠乏していました。
       8月 食堂や料理屋での米食を禁止し、販売時間制とする。
       9月 砂糖、マッチ、小麦粉、食用油の集成配給切符制度が設けられる
      10月 配給米の輸送をトラックから電車に切り替える。(ガソリン不足)
      12月 東京市内の妊婦診断の結果、
           栄養不良により半数が罹病しているかあるいは障害があることが判明
昭和17年11月 家庭用蔬菜の登録販売が始まる。
      12月 東京市内ガス使用が一戸一孔に制限される
           「欲しがりません勝つまでは」の標語が発表される。
昭和18年 4月 鉄不足を補うために銀座の街路灯が撤去される。
       6月 東京の昭和通りの街路樹が取り払われ畑に転用される。
昭和19年 3月 バー等の飲酒サービス店閉鎖
       4月 六大都市の学童給食用に米を一人7勺配布する
       9月 学童給食の米を廃止しパンを支給する。 
       11月 都民食堂と称する雑炊食堂が設けられる
           物価が高騰し始める 前年比13,3%上昇
昭和20年 6月 都民食堂(雑炊食堂)600軒が外食券食堂となる。朝食25銭夕食50銭
       8月 六大都市の主食配給が一人2合1勺となる

以上で、徐々に物資が手に入り難くなり、食糧事情が悪化して行く様子がイメージできましたでしょうか。
余貴美子さんのお話や、温泉ブームの話については、何時の時代でも金をかき集める才能がある方はおられます。

終戦と同時に、都市という都市が焼け野原になり、工場という工場が破壊されたところへ、満州や朝鮮半島、台湾などから着の身着のままの引揚者や復員兵が帰ってきたのですから戦後の窮状は惨々たるものでした。
この記憶と、戦前戦中の物資の欠乏との記憶が混同して伝えられているのも止むを得ないことかと思います。

社会が暗かったか明るかったかは、その日その日を送っていた人達がどのように受け取っていたか次第です。
当時の流行歌がyou yubeに沢山投稿されていますので聞いてみて下さい。
昭和11年 わすれちゃいやよ、ああそれなのに、東京ラプイソディー
昭和12年 青い背広で、人生劇場、人生の並木道、妻恋道中、マロニエの木陰
昭和13年 別れのブルース、支那の夜、満州娘、初j恋、雨のブルース
       (エノケン一座が旗揚げ)
昭和14年 名月赤城山、東京ブルース、港シャンソン、懐かしのボレロ、一杯のコーヒーから
       (後楽園球場の入場者2万人)
昭和15年 湖畔の宿、誰か故郷を想わざる、ラバウル小唄
       (東京競馬場第九回ダービー入場者6万人、銀座のお汁粉屋が19軒を越える)
       (芸能人の英語風芸名禁止)
昭和16年 北上夜曲、明日はおたちか、船頭さん、たきび
       (街頭でのスナップ写真が流行する)
昭和17年 婦系図の歌、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、鈴懸の径
昭和18年 十三夜、南国の夜、スキー
昭和19年 惜別の歌
       (俳優座が結成される)
昭和20年 りんごの歌
       (12月31日 NHK第一回紅白歌合戦が実施される)
戦前も戦中も庶民は軍歌ばかり歌っていた訳ではありません。

出典:江戸東京年表 小学館




      

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思...続きを読む

Q戦時中の子供たちの生活

戦時中の子供たちの私生活はどんな感じだったんですか。

Aベストアンサー

地方と都会で全く違いますね。
私の父は大阪市内の小学校で、学童集団疎開を経験しました。
都市以外の小学生はそういうことはありませんでしたし、そんなに食べ物に困ることはなかったみたいです。

 疎開も、先ほど上げた集団疎開と、田舎の親戚を頼る縁故疎開がありました。
集団疎開は文字通り一日中一緒に過ごすために、それこそめちゃきついいじめも多かったと聞きます。
それが何ヶ月も続くんです。大変だったと思います。

 縁故疎開は食べ物こそ困りませんが、都会の人間が田舎の小学校に通うことで、これもいろいろな差別があったみたいです。もちろん都会のこどもに対するあこがれも多かったとも聞きます。

 また本当に厳しかったのは1944年~45年の時期なので、ほんの数歳の違いで、集団疎開を味わった世代(尋常小学校)と、学徒動員された世代(高等小学校以上)があるみたいですね

Q太平洋戦争時の様子について

学校では、政府の対応や他国の動きなどについては習いましたが、一般の人々の生活についてはあまりよくわかりませんでした。そこで、街の空襲の様子、戦時中の暮らし、学校生活、食糧や衣類の欠乏による苦労などについて教えてください。

Aベストアンサー

幾つか調べました。


●戦時下、高田では (奈良高田市)
 http://www3.kcn.ne.jp/~eatyhiro/new_page_4.htm

●戦時下の塩竈   (宮城県塩釜市)
 http://www.city.shiogama.miyagi.jp/01/gaiyou/syasin/senji/sennsai.htm

●戦時下の松阪   (三重県松坂市)
 http://www.matsusaka.ne.jp/sakura/history/rekisi-33.html

●戦時下の生活道具・用品
http://www.city.minoh.osaka.jp/E-MACHI/kyoudo/senji.html

●『戦時記録』 上巻 (沖縄県読谷村)
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/index.htm

●20世紀 映像コレクション
http://www.bunmeisha.co.jp/eizo/eizo_syosai04.html
 ○No.172 戦時下の日本、学校教育(1943)
 ○No.173 戦時下の日本、学徒勤労動員(1943.06.25)
 ○No.174 戦時下の日本、国民生活(1943)
 ○No.175 学徒出陣(1943.10.21~)
 ○No.186 日本の学童疎開(1944.07.17)
 ○No.202 東京大空襲(1945.03.10)
 ○No.203 名古屋空襲(1945.03.12)

あたりではどうでしょうか?

ご参考になれば幸いです。

幾つか調べました。


●戦時下、高田では (奈良高田市)
 http://www3.kcn.ne.jp/~eatyhiro/new_page_4.htm

●戦時下の塩竈   (宮城県塩釜市)
 http://www.city.shiogama.miyagi.jp/01/gaiyou/syasin/senji/sennsai.htm

●戦時下の松阪   (三重県松坂市)
 http://www.matsusaka.ne.jp/sakura/history/rekisi-33.html

●戦時下の生活道具・用品
http://www.city.minoh.osaka.jp/E-MACHI/kyoudo/senji.html

●『戦時記録』 上巻 (沖縄県読谷村)
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05...続きを読む

Q太平洋戦争

今学校で
「太平洋戦争中の人々の暮らし」
について調べています。
ですが、思うように資料が集まらず苦戦しています。

もし、上の事柄について知っているかた、何でもいいので教えてください。
※食事や1日の生活の仕方 他・・・

Aベストアンサー

  人の暮しは、田舎か都会か、収入や資産のあるなし、周りに親族や知人がゐるか否か、その時の年齢、立場などで大きく變ります。先の大東亞戰爭の時、米軍の空襲を受けた町に住んでゐても、空襲で家が焼かれた人と、燒かれなかつた人とでも、暮らしぶりは大きく變ります。以上のやうな事を考へた上で、個人的な日記や記録、聞き書きを殘した場合、あるいは、國や市町村などで調べた記録などが殘つてゐれば、それが一番重要な資料になります。既に戰闘が止んで六十年になりますから、現在七十歳以上の人のみが、身近に經驗したことどもです。一番良いのは、ご近所や、身近の老人にお話を聽くのが良いでせう。朝は、何時頃起きて、何をして、朝ご飯は何をたべたかなど。そして、どんなものを着て、町の樣子はどうだつたか、子供の目で見た大人のやうすは、など、訊くことはいくらでもあるでせう。
  なほ、「太平洋戰爭」は、米軍の對日戰爭の通稱で、我が國では「大東亞戰爭」が正式名稱ですが、海軍は主に太平洋を戦場としたので、海軍の戰闘記録などでは太平洋戰爭といふ言ひ方を使ふ事があります。また、敗戰後は米軍により「大東亞戰爭」といふ呼稱を禁止されて來ましたので、大東亞戰爭を、無知で、あるいは故意に太平洋戰爭と言ひ替へる人もゐます。

  人の暮しは、田舎か都会か、収入や資産のあるなし、周りに親族や知人がゐるか否か、その時の年齢、立場などで大きく變ります。先の大東亞戰爭の時、米軍の空襲を受けた町に住んでゐても、空襲で家が焼かれた人と、燒かれなかつた人とでも、暮らしぶりは大きく變ります。以上のやうな事を考へた上で、個人的な日記や記録、聞き書きを殘した場合、あるいは、國や市町村などで調べた記録などが殘つてゐれば、それが一番重要な資料になります。既に戰闘が止んで六十年になりますから、現在七十歳以上の人のみが、...続きを読む

Q戦争中の子供達、どうしているんですか?

小6の女子です。
今、国語の授業で調べているんですけど、
戦争中の子供はどうやって生活をしているんですか?
学校は、どうしているのか。食料は? 日本と同じような生活だったのか。・・・・・など。
戦争中の子供達に関することなら、大歓迎です!
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「子供」をどの階層にするかで答えは代わりますが。、
2字対戦中の農村地主-比較的裕福な小作層小学生ですと、
学校に出かけて、学校帰りに近所の農地を襲って適当に食料を調達。
うちの畑が教われました。ちょっと前までPAT会長等の役職についていました。

埼玉県某村の子供ですと、その村で「食量の補給を受けろ」と命令された日本兵がとさつして食べてしまいました。

戊辰戦争の頃かな。
官軍に逆らったとして、殺されました。

学校はありません。学校では、「何とかを集めろ」という話しがあるたびに児童生徒が該当業に従事して、「しょうこんゆをとるから松の根を掘って来い」なんてやっていました。
疎開者には食い物はまずありません。その地区の餓鬼大将が配給食をほとんど略奪して、自分のつかいっぱしりに配ります。疎開者は略奪されるだけです。
疎開者が戦後学校の試験で一番を取ったことがあります。餓鬼大将がその児童を殴りました。半年後死亡しました。
都内からの疎開者は、略奪の対象に過ぎませんでした。

だから、「川魚」は食べられません(取ったらば食べる前に略奪され、半殺し。多くの場合には1-3週間食料を与えられず死亡)。カエルとか蛇とか地区の人間が食べない物が疎開者の食料でした。

「子供」をどの階層にするかで答えは代わりますが。、
2字対戦中の農村地主-比較的裕福な小作層小学生ですと、
学校に出かけて、学校帰りに近所の農地を襲って適当に食料を調達。
うちの畑が教われました。ちょっと前までPAT会長等の役職についていました。

埼玉県某村の子供ですと、その村で「食量の補給を受けろ」と命令された日本兵がとさつして食べてしまいました。

戊辰戦争の頃かな。
官軍に逆らったとして、殺されました。

学校はありません。学校では、「何とかを集めろ」という話しがある...続きを読む

Q戦前戦中戦後。人々の暮らし

大日本帝国の人について興味あります。
司馬遼太郎の坂之上の雲は呼んだことある方いますかね?教科書にしてもいいくらいだという人もいるくらいで、どんなことが書かれていますか?当時の人の暮らしぶり、考え方など知りたいです。
戦前、戦争とは関係ない人々の普通の暮らしぶりはどんなでしたかね?何を考えどう生きていたのですかね?特に教育勅語を学んだ世代の人生観、今の若者をどう思うかを知りたいです。
戦後、メーデー、安保闘争など日本人は今のように去勢されておらず元気いっぱいでした。当時の人の考え方、暮らしぶり、将来への不安と期待など知りたいです。あ、米国の奴隷になったり、米ソ冷戦に巻き込まれて再び戦地となる不安はなかったのですかね?
各地に海外移住された方もいるときいてます。どのような思いで日本を離れたのですか?
よろしくお願いします

Aベストアンサー

戦前生まれの後期高齢者です。

まず、司馬遼太郎の著書は作者の思い込みや作り事、独特の推察などを網羅している一つの作文だとしてお読みになったほうが良いと思いますよ。

歴史は作られるって本当。

いつの間にか老舗になっていたり、何代も続いた家柄ですや、此処は勤皇の志士が隠れたところですだとか、まあ念入りに地図まで掲げて。現在はまやかしが多いけれど戦前はあくどい商売人と言えどもそう云う誇張はしなかったように思います。

戦前とは言え大正時代の人たちの生活は非常に楽天的なものだったと思います。(従兄弟大正生まれ90歳余曰く)

昭和の初期でも都会では幼稚園はスクールバス。映画もダンスホールも、フランス料理も今あるものは全て溢れ返ってました。

水洗はごく一部で近郊の百姓が肥を汲みに来て御礼の大根なりを置いていくのが都会でも普通の事でした。

また、戦前はそこそこ金を持っている連中でも借家が普通で、余程の事業家や成金、爵位のある家系以外は全て借家。

土地の有力者・・・例えば豪農や代々の庄屋などは家屋敷がありましたが。
家を買うという発想はほぼありませんでしたね。

腰弁(サラリーマン)の出社は歩くのが原則で交通費を貰って電車に乗るというような事は大正の初期までは無かったと従兄弟は申しております。

一家団欒、一家そろって食事と云うのも精々戦後の事です。
商家なら手の空いた人から食事をしますから。

一家の主のお膳は(おかずもご飯も)全て妻子とは別、同じ膳では食べません。主の食事が終わってから妻子の食事。(今ならよめはんに殺されるかも)

子供と大人の世界は完全に区別。

ネットは当然、普通の家に電話もありません。(うちの電話探ってみると最初に置かれたのは大正7年でした。)

戦後初めて白黒TVが発売された時TV一台の値段で当時40坪くらいの家が一軒買えました。

戦後宝くじは一等10万円。一枚10円。小さな家なら買えた。

終戦の年、すぐにアイスキャンデーを作って売ってました。一本1円。

不味いガムやチョコレートは昭和23年頃だったかに。

当時、バスやタクシーは電気自動車が多かった。充電はどうしていたのか??ですが。

従兄弟の戦前の中学校の教科書を見ると(電気技術書)きちんとテレビの写真と技術解説が載っています。

私たちがよく読んでいたのはヘッセ、Tマン、メリメ、シュトルム。

哲学をやっている連中はこんなの読みません。

明治の文学はほぼ濫読、南総里見八犬伝まで手を出した奴も居ます。

映画は手当たり次第。戦前の名画も戦後公開されましたから。
最初のアメリカ映画は確かユーコンの叫びだったかと。

普通の人にとっては戦前の、支那事変や日露戦争の結果に一喜一憂していたのは今と人たちの野次馬的な処と変わりはありませんし、人間の常として考えが楽なほうへと傾いていたのも事実です。

今と違って身分社会(出自によって社会的地位が決まる)ですから、例外はあるとしても(例えば爵位のある人や軍需産業などで大金を得て社会に還元したいと地方の優秀な男子や子女を養子として、或いは書生として住まわせて立身の道をつけてやるなど)、ほぼ人は生まれた時に取るべき道は決まっていた社会です。

で、各自それなりに、政治や軍事は・・・そんな難しい事は誰か偉い人がすることであって私たちには関係の無い事、其れよりも毎日の生活や楽しみが先決・・と云うのが本音だったでしょう。

メーデーや安保闘争など・・私の考えですが今の団塊の世代の初期の人たち(昭和22年生まれ以降)は肝心の小学校の教室も教員も足らず、抑留から引き上げてきた共産主義に洗脳されたような代用教員に習った結果が、戦前の身分社会の不条理に気づき労働者とブルジョワジーの対立と云う形で爆発したものだと思っています。

団塊の世代が愛用した歌声喫茶で歌われている歌って労働歌やロシア民謡などソ連に関係したものばかりですよね。

確かに農村部では(戦前は長男が後を取り、次男以下は出て行くか良くても他の農家の婿養子になるかで、軍隊が出来ると米の飯が腹いっぱい食えるとばかり召集どころか争って志願した人が多いのが現実で、後に赤紙で召集される頃は兵役忌避の脱走者も多かったようですね。

でもねぇ、戦時中食べるものが無かったとは云いますが金さえ出せば何でも買えたのです。(結局は金があるかどうかで決まるのかも)

徳川無声の戦時日記を読めば東京空襲時でも牛肉の配給(食糧は物価統制令で自由に売買が出来無い、主食の米などは各戸に割り当てで配るのを配給制と云います。違反者は投獄。外食は外食券が無いと出来なかったけれど、店は知り合いには出来る限り物を提供していた。)があったと記述されていて驚きます。

海外へ移住された方は明治以前から沢山居ますので戦前の暮らしのごく一部の現象に過ぎないと思っていてください。
これに関しては色々本が出版されているので図書館でお読み下さい。

明治中期生まれだった私の母親など若い頃毎晩ダンスホールで踊っていたと。(写真が残ってますわ)

慶応生まれの祖母なんか刺身が好きで良く無理難題を。でも結構手に入ったのですよ。

果物も、ケーキも、菓子も巷に溢れ返ってましたし戦争が始まっても暫くはまだフランス映画など上映してましたしね。

学童疎開はしてましたが食べ物に不自由だった事は有りません。
(場所によるのでしょうけれど)

戦争が始まっても一般の人の生活が急に変わる事は有りませんでした。

東京や大阪名古屋の空襲にあった人たちは大変だったでしょうけれどね。
一般の庶民にとって将来の事などは戦争の行方は心配しても身の振り方までは考えられなかったと思います。

進駐したアメリカ兵が抵抗されゲリラにでもやられるかると緊張していたのに拍子抜けと、戦後隣に住んでいた大佐が笑いながら話してくれました。

昭和20年代は内憂外憂が一般の人には全く感じられなかった時代。
20年代終わりにはアメリカ文化がど~~っと。

圧巻はジャズ。ベニーグッドマン、JATP、サッチモ、ハリージェームス、ライオネルハンプトンetc。飯を惜しんで東京へだら(普通)の夜行で14時間かけ学区をサボって聞きに行った。

新宿あたり焼け跡がまだ板囲いしてありまだ戦争浮浪児も居た時代。

昭和34年まだ国道一号線は舗装なし。トヨタのクラウンの前身トヨペットスーパーがこなれてきて試乗に行きました。

クッションは板バネ。遠出でしてバネが折れて挙母市(今の豊田市)で修理をするはめに。

閑話休題

今時ああだこうだと大げさに言われている面は何事に付けても大いにあると思います。

大正、昭和の話を書いた本は沢山出ていますが、その前に矢田捜雲の江戸から東京へや生方敏郎の明治大正見聞史の一読をお勧めします。
もう少し前の幕末の世人の暮らしや出来事などは鹿島萬兵衛の江戸の夕映をぜひお読み下さい。

教育勅語の内容は素晴らしいものですから私たちは否定しません。
まだ同級生は200人以上が健在ですし、何時もわいわい集まっていますが1年先、3年先の心配をする輩はいませんねぇ。
其れより100年先どうなっているかの議論に口角泡を飛ばすほうです。
戦前、戦中、戦後を冷ややかな目で見てきた世代ですのでなるようにしかならんと物事を割り切ってます・・が多い。(^^)/

取り留めの無い文、乱文で失礼しました。

戦前生まれの後期高齢者です。

まず、司馬遼太郎の著書は作者の思い込みや作り事、独特の推察などを網羅している一つの作文だとしてお読みになったほうが良いと思いますよ。

歴史は作られるって本当。

いつの間にか老舗になっていたり、何代も続いた家柄ですや、此処は勤皇の志士が隠れたところですだとか、まあ念入りに地図まで掲げて。現在はまやかしが多いけれど戦前はあくどい商売人と言えどもそう云う誇張はしなかったように思います。

戦前とは言え大正時代の人たちの生活は非常に楽天的なものだったと...続きを読む


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