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カテゴリーが違っていたらすみません。

ヨガ教室(軽いストレッチのような初心者向け)に通い始めて一年半です。
最初は気持ち良くて、家でも毎日やっていたのですが、そのうちヨガをすると、翌日から数日は、熱が出たり体が重くなったり、とにかくしんどくなるようになりました。

教室の先生には、自律神経がバランスを調整しようとするために起きることだから、そんな時は休むようにと言われました。
しかし一年たった今も、今だヨガをすると翌日、動けなくなるくらいしんどいです。

ヨガというと呼吸が重要視されますが、自分の呼吸の仕方は何かおかしいのかもしれない…と思うようになりました。

デスクワークになって以来、ひどい肩こりになって姿勢も悪くなってきて、それでヨガを習いはじめたのですが、その肩こり…というか肩や背中、みぞおちにかけてのこわばりがひどくて、深く息を吐くことも吸うこともしんどいです。息が体を通っていかないというか…感覚でいうとそんな感じなのです。

ポーズをとっているときにはそうでもないですが、単独で呼吸の練習をしようとすると、細く長い息などしようものなら、体中に力が入って顔が真っ赤になって、苦しくなって、やっている最中に「こんなんでいいのだろうか」と疑問がよぎります。
普通、リラックスしていくんですよね…?


健康のカテゴリーでも過去「腹式呼吸」や「ヨガ」について何度か質問させていただいて、いろいろと貴重なアドバイスをいただきました。
しかしそれらを参考にして試行錯誤しているも、今だこの状態です。
こちらでも呼吸法の記述を見かけますので質問させていただきます。

呼吸法を実践されている方、何でもいいのでアドバイスをいただけませんか。

A 回答 (55件中31~40件)

ーその3ー


私も30歳の頃から知らず知らずのうちに焦り出していたんです。
自分では善いことだと信じてひたすら将来不安をかき消すように生きてきたんです。
でも、30代後半で空中分解してしまったんですね。。。
それから長い、長い冬が始まったんです。予言どおりに。。。(苦笑)

それまでは、いつでも何処かにいい所があるんじゃないか?とか
あれを得れば幸福になれるんじゃないか?とか
「下心で胸が張り裂けそうな毎日」を過ごしてきたんです。
何時でも誰かの顔色を伺いながら・・・。
(今でもそうなんですが・・・・)

掃除機のような欲しがるばかりの人生だったんでしょうね。
気が付いたら掃除機のパワーレベルが「最強」になっていたんです。

ところが、大きすぎるモノや、一度にたくさんのモノを吸おうとしていたので、吸気口がふさがり掃除機本体が「ウィ~~ン」と唸りを上げて、求めてものは何も得られず、得られてもむなしいだけで大きな満足には至らず、それでも得よう、得ようとして、自分を押し殺し服従し、結局はうつ病にまでなってしまったんですね。。

これは全部「私は幸せになりたい」とか
「私は何をやっても駄目だ」
「あの人はいいな・・・」とか
「あいつは嫌い」とか
「私」or「あなた」の世界で生きてきたからなんだと想うんです。

好きか嫌いか、白か黒かの二極的な価値判断の中で生きていると、
勝者と敗者しか出来ませんから、結局は、私のようになってしまうんです。


でも、そうじゃなかったんです。
この歳になって、初めて知ったんです。
「カブトムシにも解るブッダの数学教室」を知って悟ったんです。

悪いのは、私でもなく、あなたでもなく、『 心 』なんです
これだけは絶対に移ろわないんです。

おそらく、世の大半の人は、このメカニズムを知りません。

うまく言えませんが人生の目的というか、本当にやるべきことは私の幸福とか、貴方の不幸とかではなくて、「心」を鍛え、育てることなんだと想うんです。

私のせいでもなく、あなたのせいでもなく、心のせいなんです。

kuronecoさんも、もしかしたら自分を責める癖がついているかも知れませんから、
どうか「こんな私を許します、認めます。受け入れます」という言葉を大切にしてください。
<試しに、24時間、ひたすら、この言葉を念じ続けてみてください>

なぜならば、自分自身を許すことが出来るのも「心」の仕事なんです。
これだって心を育てる言葉なんです。
神経で言えばセロトニン神経なのかも知れませんが、まあ「心」としておきましょう。
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この回答へのお礼

いろいろ知識が増えるほど「あれもしたいこれもしたい」「あれした方がいいのかこれした方がいいのか」で混乱していきます。(…欲望でしょうか…)
なんだかどれも中途半端なような感を否めないのです。

筋トレなどはノルマ的な感じで、自分でプログラムを作ったら後はしんどくても毎日黙々としていくだけです。それで筋肉もつきます。
どれに絞ればいいのか…その日の気分でもいいのだけどどれもが良さそうで、決めきれず集中しきれずって感じです。

Syo-yaさんの言われているように、一歩一歩ひとつひとつの感じが欲しいですが、いつも迷っています。
そんなこと自分で考えろと怒られそうですが、質問させて下さい。
Syo-yaさんは普段、毎日何か「これは絶対するようにしている」ということは決めてらっしゃるでしょうか。

お礼日時:2005/04/21 02:10

ーその2ー


で、せっかくの機会ですので、さらに大切なお話をします。
悪いのは、私でもなく、あなたでもなく、心なんだということです。


同時通訳をしてると、そのうち解るようになってくると想いますが、「悲しい・・」と想っていても、「嘆き、嘆き・・」と同時通訳していると嘆きも軽減されてきます。「気が付く」ということは「気持ちを落ち着ける」ということですから、気持ちを落ち着けると、さっきまでの「哀しかった私」が消えてなくなってしまうんです。(本当です、実験してみてください)
また逆に、さっきまで気持ちよかったのに、何かの縁起で急に「怒り」が湧いてきますよね。
こうやって一日中、心というのは意馬心猿に変化し続けています。


このことが意味するのは、実は、どこを探しても「これが私」といえる「普遍の私」など存在していないということです。
「私syo-ya」も一日のうち何千回も気分も心も入れ替わり立ち代りして変化しています。
赤ん坊の時の私と、今日の私は同じ私のように思えますが、全てが違ってますよね。
kuronecoさんだってそうです。
ハイテンションな時もあれば、ブルーな時もあって、瞬間、瞬間でまるで別人なんです。
これは世界中の誰もがみんなそうなんです。

「私でもなく、あなたでもない」とは私の勝手な造語なんですが、
自分を客観的に観察して解るのは、普遍の自分など存在していないということなんです。
これを「諸法無我」と言います。


しかし、ただ一つだけ普遍に存在するものがあるんです。


怒っている時に「あ、私は今怒っている・・」
嘆いている時に「あ、私は今ブルー入ってる」
歩いている時に「私は今、右足から歩いてる」・・・です。

どんなに「私」が移ろっても、この「気づき」だけは移ろわないでしょう?

これは何か???
これが「△△△」なんです。

この気づきの能力はせいぜいおろそかになる程度です。
おろそかになった状態を日本では「心、此処に在らず」と言いますから、
まあ「心」としておきましょう。

・・・と、こんな説明で伝わるでしょうか?
私は、つまらない道徳を説いているんではないんです。
うつ病で精神状態を乱し、オカルト人間になったワケでもないんです(^^)
「世界は微笑みですよ!」などというメルヘン系の宗教バカになったワケでもないんです。

「心」って本当にあるんです。
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この回答へのお礼

先日URL教えていただいた、臨済禅の座禅のページを読ませていただき、数息観などしていました。(座布団をはさむと本当に楽ですね!^^)
「丹田にはきかけるように」という記述に目がとまり、その通りにしてみたら、
「おお」と心の中でうなる程、下腹がドシッと満ちた感じになりました。
うれしかったです。

日常でデスクワークをしていますと、最初は伸びていた背筋も夕方頃には丸くなり、手もものすごく疲れて
みぞおちでなんとか身体を支えている状態になります。

私は30になるまで肩こり知らずだったのですが、この仕事をきっかけに肩こりになりました。
焦って筋トレやストレッチなどを毎日せっせとしていました。
効果はすぐあって肩こりはすっきりし、身体も軽くなりました。
「肩こりなんてちょっと運動すれば治るんだ」と調子にのって運動をサボッていたら、
あたりまえですが、肩こりが復活しました。
しかしそれからはどう運動しても治らないどころか身体全体がしんどくなり、仕方なく運動はあきらめヨガに走ったのでした。
やっぱり心理面の方がきていたのだと思います。

Syo-yaさんにこんなことをお聞きするのは、違うと思うのですが…。
Syo-yaさんにはたくさんのことを教えていただきました。
いろんなリンク先も教えていただき、それのどれもが私には魅力に感じました。
あれもしてみようこれもしてみよう…いろんなことを実践してみました。

普段の日常は主に、動作の実況中継、気づけば感覚、感情、思考の実況中継をしながら生活しています。
しかし改めて実践するとき、例えば夜寝る前の一人の時間など、
「スワイソウをしてそれから数息観…いや待てよ座って神経との追いかけっこをしてそれから…」
こんな感じになるんです。
同じように呼吸法にしても、ヨガでの呼吸法、聞きかじった呼吸法、アドバイスいただいた呼吸法、それのどれもがごっちゃになっていきます。

呼吸している最中に「まてよ…確かこのときは胸をはるんだ…いやいや下腹に集中して…それよりも鼻に通る息を感じねば」等、混乱して呼吸が苦しくなっていきます。
能動的に意思で身体を…ということをしようとするとこうなっていきます。受動的な実況中継はいいのです。

お礼日時:2005/04/21 01:50

ーその1ー


しつこくすいません。
大切なお話を伺ったのは、こちらのほうです。

まず、私がkuronecoさんのセンスが抜群だ!と信じているのは、以下の理由なんです。
http://security.okweb.jp/kotaeru.php3?q=946735(こちらの#4)
どうです? 説得力あるでしょ?(笑) でも、これは真実なんですよ。


で、私はただ単に数学(人生)が苦手で、苦しんだ人間なんです。
で、苦しんだ末に「カブトムシにも解るブッダの数学教室」という本に出会って、
諦めかけていた数学が嘘のように解けたので、面白くなってきたというだけなんです。

で、同じように苦しんでいるクラスメートに、
「こうやれば良いんだよ!」と伝えているだけなんです。
私の存在は、ただそれだけの存在なので、どうか誤解しないでください。
人生の苦悩からの脱出方法を誰にでも体験できるように説き明かしたのはお釈迦さまなんです。

・・でも、私がこういうことばかり書いていると宗教団体の人間だと誤解されてしまうんですよね。。。独学だと言っても誰も信じてくれないんです(死の淵を彷徨った人間の底力が理解できないんでしょうか) ですから、もしかしたらこのスレッドも管理者から誤解され削除されるかも知れないので、覚悟しときましょう><
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この回答へのお礼

Syo-yaさん、こんばんは。
たくさんのお返事を本当にどうもありがとうございます。
すごくうれしかったです。

参考URLも読ませていただきました。
「あ、そうなのか、そういう面もあるのか」とパーッと晴れやかになったりして…
心って本当に単純ですね(^_^;
ありがとうございます。続ける意欲がパワーアップしました。

うつろいやすい「心」のお話を読み、さらに大切なこと思い出させていただきました。
確かに観察している目、淡々と観察しているということ、
それらは変わりようがないですね。それだけは変わらないですね。

昨日のお返事を読ませていただいて、私もうーんとなってしまったのは、
やっぱり私は「何かを得る」為の手段として、「気づく」ということをしようとしてしまうことでしょうか。
呼吸への集中にしても、数息観にしても、「ただする」っていうんじゃなく、「これで鍛えるぞ」とか「上達していくのだ」など結果への色気むんむんでして…、
それが緊張になっていくのがわかるんです。
そういう気持ちのときは、観察もギクシャクして、自分でも何やってるんだかと思います。
なんど教えていただいても、わかってるつもりでハマッていきます(>_<)

で、そうか、「結果を出したい」と思っている自分に気づくのだ…「いや、それに気づこうとしている自分」に気づくのだ…「気づこうとしている自分に気づこうとしている自分」に気づくのだ…ああわけがわからなくなった…と完璧にのぼせの世界になっています。

結局、作為だらけです。
これ、私の生き方です。
「自分を責めているのでは」と言っていただいて、「…そうかも…」と思いました。
「そんなに自分に厳しくしなくても、完璧じゃなくてもいいのに、なんでムキになるんだろう」普段そういう疑問があるのも確かなのです。

生育暦は確かに問題ありげだし…。
「許します、認めます、受け入れます」念じつづけてみようと思います。

お礼日時:2005/04/21 00:37

「心」を感じた体験は、説明しにくいんですが、なんか忘れていたような、何かの感覚を感じたんです。

普段の思考や意識のレベルとは違ったレベルの、もっと素直な無垢なレベルに「心」があるような感じといいましょうか、純朴、純粋な感じです。瞑想にはいくつか段階があって、思考が止まるというレベルにまでいくようなんですが、もしかしたら、そんな状態になると、この「心」だけの世界に入るのかも知れませんね。。。私はそんなに瞑想状態でもなかったんですが、なんとなく感じたんです。

でも、もしかしたら思考の中で感じただけなのかも知れませんし、そういう神秘的な感覚ってよくあることなので、あまり気にしないようにしようと想います。他にも顔に強い光を感じたときとかもあるんです。こういう一時的なことに執着すると、また、のぼせますから、逆効果なんですよね。。。。(難しい話ですね)


>>観察する目線が癖になってくると、自分の嫌な部分に行き当たっても、観察する眼は淡々とそれを見ます。

やっぱりkuronecoさんは自発功といい、ヨガといい、センスがあるんでしょう。
このままで良いと想いますし、何よりも気づき続けることが大切だと想います。

野球に喩えれば、今まで、時速160kmのボールが打てなかったのに、たくさん練習をして選球眼を養ったら、ボールが止まって見えるようになるでしょうから、思い通りに打てるようになるんでしょうね。

今の健康を維持して、心の底から幸福になれるように、たとえ、世間的には不幸でも、本当に幸せになるには、「心」を育てて、「善い行い」をすることなんです。

だって、自分の心に対する選球眼がなければ、自分の心が解らないので、160kmのボールを空振りするバッターのように、行いも狂ってしまいます。狂った行いしか出来なければ人生がさらに苦しくなるばかりでメンタルヘルスに相談するようになってしまうんです。
だから心というボールを見極める選球眼を養って、ホームランもヒットも打てるようになるから、少欲知足で自在な人生になり、生きてることが最高に楽しくなるんです。


kuronecoさんは元々のセンスもあるでしょうし、健康も具わっていると想いますので大丈夫だと想いますよ。
でも、センスがあるから欲が出ることも確かなことなので、なんとも言えませんよね(^_^;

逆に私のように昔はセンスあったけど、全てを失った人間のほうが一歩、一歩進んでいくので、駆け足で間違った方向に進まずに、ユックリと正しい道に進めるというケースだってあるかも知れません。(・・と、軽く自慢してみたりします。フフフ)
http://security.okweb.jp/kotaeru.php3?q=1163617
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この回答へのお礼

ですから
>逆に私のように昔はセンスがあったけど、全てを失った人間のほうが一歩、一歩…

センスがないので最初からくらぶべくもないんですが、私はそういうのがとてもうらやましいと感じています。
私は子供の頃からこうで、コツコツしないんです。長続きもしないんです。
続けたことがないので、好調・不調というものはある、毎日の変化がある、ということを知らなかったんです。頭ではわかってても。
グラフの右肩上がりの線みたいなイメージしかなくて、進歩しても退歩することはないだろうと思い込んでいました。
だから「毎日違う」という言葉はありがたかったです。とても。そうか!と思いました。気が楽になりました。

今度は、(時速160kmのボールのたとえのように)長続きしなくなるというその過程と現場をじっくり観察していこうと思っています。

「心を感じた体験」どうもありがとうございます。
そして参考リンクの体験も読ませていただきました。

深遠すぎて…そういう意識レベルは想像もつきませんが…
「神秘的な感覚っよくある」ってそういうものなんですか…。

Syo-yaさんは昔はセンスがあったとおっしゃられますが、それは昔から変わっていないのではないでしょうか。
センスがあったからこそ自らが全てを捨てたとは言えないでしょうか。
…知ったようなこと言ってすみません。
でもそう感じました。

なんだか、愚痴めいたことばかり書いてしまいました。
私も一歩一歩、歩んでいきたいと思います。

本当にどうもありがとうございました。

お礼日時:2005/04/20 01:45

おはようございます、kuronecoさん。



これは大切なことなので、どーーしても伝えたいんですが、
「結果を出したい」「思い通りにしたい」・・・これが「欲望」なんです。
無色透明で無力のように思えまずが、kuronecoさんから健康を奪っていた正体です。


仏教では「渇愛」といって、まるで喉の渇きを満たすがために水を求めて彷徨うようなエネルギーだと言います。私たちの生命維持活動を支える電池のようなパワーなんですが、このパワーで生きられる反面、このパワーで自分が破壊されてしまうんです。

なぜならば「欲望のパワー」って決して「満足」にはならないからです。

これは、永久に求め続けるだけのエネルギーであって、掃除機のようなものなんです。
私はブラックホールのようなものだと想ってます。
自己観察してると、この餓えたエネルギーがあらゆる思考を支配しています。
一日中、朝から晩まで、喉の渇きのようなパワーで、私たちは生きているんです。


で、ここからが大切なんですが、これは満足する心、足るを知る心とは、違うものなんです。
話題のホリエモンのように求め続けるだけで、絶対!!に満足しない、出来ないんです。
どんなにリッチになっても絶対に心は幸福にはなれ無いんです・・・・。

なぜかと言うと、まだ赤ん坊の心が、枕もとにあるミルクに気づけずに泣き続けているようなものだからです。「ちょうだい、ちょうだい!」と泣き続けているだけのことなんです。
なぜならば、心がまだ赤ん坊で、心眼が開いていないからです(ぞぉ~~ ><;
(霊が彷徨うように・・・・??)


逆に満足とは心眼が開いていて「あ、ミルクだ!」と気づくことなんです。
「ゴクゴクゴク・・・ああ、美味しかった!」となれば満足なんです。

だから、そのために気づき続けて心を成長させて、心眼を開き、ものごとをしっかりと観て「ああ、幸福は此処にあったんだ!」「不幸の原因は此処にあったんだ!」「本当に大切なものは此処にあったんだ!」と気が付くことで、本当に幸福になってくるんです。「足るを知る」ですね。


そうして、さらに成長して、この世界をも正しく観ることが出来るようになれば、この世界の全ては無常に移ろっているので、私にもみんなにも老・病・死が等しく訪れるし、いつ事件、事故に巻き込まれるか、何が起こるかわからないんだ・・・と、幻想を捨てて、ものごとを正しく判断できるようになるから、何時だってのぼせずに「今、此処の私」で居られるようになり、気負いもなくなり、最終的には死をも恐れない境地に達することが出来るんです。


ただ、私も含めて多くの人は心眼が開いていないから、盲目的に「何かを得れば心が満たされるんだ!」と勘違いして、欲望のままに、パワーを全開にしてしまうんです。そして表面的には多くのモノを所持するようになるんですが、自他を滅ぼし、決して、心が成長することなく、満たされることなく人生を終えていくんです。心は餓えたまま死んでいくんです。(仏教ではこの餓えたままの心「渇愛」が輪廻転生に繋がる原因だといいます)

  こんな説明で伝わりますかね・・・? もしかしたら、
  かなり凄いことを書いてますので、何度か読み返して欲しいです。


逆に、なにごとも私たちの想い通りになってしまって、みんな不老不死でリッチになったら、
誰が豪邸を作る大工をするのか? 誰が野菜を作るのか? です。

もし、みんなの想い通りになったら、みんな共倒れしてしまうんです。
みんなの思い通りにならずに、餓えているから、生きられるんです。
ですから、餓えている状態で正解なんです。
いつでも何かに満足できない状態が正しい状態なんです。
だって、私たちの電池はそうなっているからです。(マイナス電池なんです)

その電池があるうちに、心を成長させて、幸福に至るのが私たちの△△なんです(たぶん)
(△△が使命なのか、仕事なのか、出世の本懐なのか解りませんが・・・)

(分割投稿します)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。Syo-yaさん。

求め続ける心、「結果を出したい」「焦り」これは私の人生の時のほとんどにあてはまる状態です。
常に「○○になりたい」「○○の状態にしたい」…しかしそれと共にいつも虚しさがありました。
それを目標として頑張っているときはとにかく楽しい。
でも目標と達成(しないことの方が多い)の繰返し。なんかおかしい。達成したときだけうれしくて、また虚しくなる。
「だから…?」という白けた気持ちが常にあるし、
自分は一体何が欲しいんだろう?
何を手に入れたら満足して、不平を言わなくなるんだろう。
こんなことひそかに考えてた人間なんですよね、実は。
モンモンとのぼせていたのでした。

「マイナス電池の状態で正解」…なるほど!

Syo-yaさんとご縁があって、ヨガの質疑から発展して、生き方へのご教授いただきました。
私が本当に欲しかったもの…「心の平安」「自分で自分を幸せにする力」…でもそれさえもまた求める心になってしまっていましたね、同じことの繰返しです。

大切なこと書いていただきました。

Syo-yaさんはセンスあるとおっしゃってくださってとってもうれしいのですが、自分ではあるとは思えません。

ヨガだって2年弱、四苦八苦しているわけです。
同じ頃はじめた人が「気持ちいいね~」なんて言いながら上達しているのを横目に、
「何で?何で?」とかえって体を悪くしている人間です。

Syo-yaさんがアドバイスを下さったおかげです。
それだけです。
それは、Syo-yaさんの人を導くセンスです。
こんなこんがらがっている人間に、忍耐強くもつきあって下さったと思っています。

この前親に言われてグサッときた言葉があります。
「なんでも小器用にこなすけど、これといったものがない」
結局いつもうわべだけつくろってささっと出来たフリをして、わかった顔してて、フワフワフラフラしているうちに、
ほかの人はたった一つのこと(ひとつひとつ)がしっかり身についているわけです。
30も半ばすぎた今は、それにものすごい焦りもありましたし(今も)自分の生き方って一体…という感じです。
劣等感のかたまりみたいな人間です。
センスがあるから欲があるんではなく、劣等感があるから欲深いんだと思います。

お礼日時:2005/04/20 00:55

で、気づき方も天邪鬼に気づけば良いんです。


心行に気づこうと≪ 想っている自分にこそ ≫気が付いて「心行にこだわっている・・」です。
「ありのままの自分」「今、此処の自分」に気づくことが大切なんです。
「よし、気づこう!」と≪ 想っている自分にこそ ≫気が付くことが大切なんです。

・・・・・これが簡単なようで難しいんです。^^;
特に最初は気が狂いそうになります。><;
作為の中で気づこうとしないで、素直に気づけばいいだけなんです。

もし、頭が混乱してワケが解らなくなったら、それは、瞑想が順調に進歩して、気づきの能力が上がっているというこの証拠なんです。なにごとも上達する人が悩み苦しむ人なんです。悩み苦しむ人は上達している人なんです。筋肉と一緒です。
で、そんな時にも「混乱している・・」と2~3回、気がつけばいいんです。

「混乱している・・」
「こだわっている・・」
「焦ってる・・」
「結果を出そうとしている・・」
「思い通りにしようとしている・・」
「出来て当たり前と想っている・・」
・・のように、ちょっと天邪鬼な感じで「今、此処の自分が何を感じているか?」に素直に気づいていけば良いんです。


もし、この文章をご覧になって「あん?」と想っているのであれば「悩んでいる・・」と気が付いてください。
「何、言ってんだか、さっぱり解らない」と想っているのであれば、「混乱している」と気が付いてください。
そして欲を言えば「Syo-yaの投稿を見ることに縁って混乱が起こった・・」と心行に気づけば良いんです。


これは、イヤになるほど実践して慣れるしかないです。
「習うより慣れろ」です。
本当の仏教とは実践の教えなんですから・・・。



できたら、静かな時間を作って、足が痛くならないように座蒲団を工夫して、あぐらでも正座でもして、呼吸の観察に集中してみてください。
呼吸への集中が途切れ、神経が意馬心猿に働きだしたとき、同時通訳をして、また、呼吸の観察に戻ります。
http://www.rinnou.net/cont_02/suwaru.html

私のHNにある歩行バージョンも是非、やってみてください。
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この回答へのお礼

すみません、飛びましたが続きを記入させて下さい。
(No.26は通信用に使わせて下さい)

URLをどうもありがとうございます。
実を言いますと、今だ呼吸への集中、数息観はしているうちに雑念だらけで苦しくなります。
今回いただいた回答でやはりトレーニングの大切さを改めて感じたので、やります。歩行バージョンもやります。
ちょっとあちこち気持ちが飛びまくってますね。
素直に気づいていきます。

いただくご回答とても励みになります。
またどうぞよろしくお願いします。

お礼日時:2005/04/19 03:57

で、心のプロセスも、そんなに難しく考えなくてもいいんです。


まずは「心行に気づこう!」と想っている < そんな自分にこそ >気が付いて、
「私は今、心行にこだわっている・・」と気が付けば良いんです。

そして、それは「Syo-yaの投稿を見ることに縁って起こった執着である・・」と気が付けば、それが心行に気づくことなんです。私たちの心は、必ず、何かに縁って起こってますので(縁起)そこに気づくようにしてれば良いんです。


例えば、こんなことなんです。

花瓶が割れたとします。
ちゃんと観察していれば、【窓が開いてて、強風でカーテンが揺れたために花瓶が落ちた】と解りますから、「まあ、仕方が無いな・・」と諦めも出来るんです。納得できるんです。「縁起」と「無常」を心から納得できますよね。

ところが、私たちの「心」というのは、まだまだ眼も開いていないような赤ん坊なんです。
ですから、花瓶の音に驚き、昂奮して、のぼせてしまって、ヒステリックに泣き喚くんです。
ちゃんと観れていないからです。

>>わけもなく「イライラ」した時・・・と、ありましたが、これが、まさに、赤ん坊状態ということなんです。私たちの「心」は、まだベビーベッドに寝ていて、眼も開いていない赤ん坊という証拠なんです。

その「心」を成長させる、目覚めさせる唯一の方法が「気づくこと」なんです。


・・・と、実は、今日、私は上記のことを体験してしまったんです。。><;
自分の中に「心」というのを感じてしまったんです。。。。
まだ眼も開いていないような「心」の存在を感じたんです。
そしたら、またスーッとのぼせが引いていったんです。

うまく言えませんが「心」というのは、「私」とは別にあるのかも知れません。
鳥肌が立って呼吸が乱れるほど怖かったですが、「心って本当にあるんだ・・・」と感じてしまったんです。
仏教、お釈迦さまが怖く思えました。
もしかしたら私の想像を遥かに越えたものが仏教なのかも知れません。
「悟りの境地って、いったい・・・」と震える想いでした。

これまでに何度も「これは心を育てる瞑想ですよ!」と言ってきましたが、実は、私も何も解っていなかったと感じました。「心って思考や意識とは、違うな・・・」と感じたんです。

まあ、私はうつ病になるほどでしたから、ただ単に弱っていただけなのかも知れませんが、腕を失って、初めて腕のありがたさが解るように、もしかしたら私も心を失っていたので、心の存在に気づけたのかも知れません。

いずれにしても、今日「心」の存在を感じるという不思議な体験をしました。。。><;
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この回答へのお礼

Syo-yaさん、こんにちは。
先日はどうもありがとうございました。
おかげさまで、夜中にモノを食べたくなる衝動は今の所やんでいます^^

私は筋肉痛の日々を送っています。
今回GWで初めて10連休をとれたので、主に運動に集中していました。

軽いジョギング、ダンベルをしながら、ヨガでは主に姿勢を矯正するポーズを重点的にしています。
後は呼吸法に集中しています。
ずっとお伝えするのを忘れていましたが、本来の質問の一つであった、ヨガをするとしんどくなる、熱が出る眠れないなどの症状はまったくなくなりました。
Syo-yaさんのおかげです。
本当にどうもありがとうございました。

今は下半身を意識することと呼吸法により、丹田の大切さを痛感しています。
丹田を意識すると下半身がドシッとして、大地の上に立っている!という実感がわきます。
(今現在、家の事情でヨガ教室の方はお休みしていますが)
教室では常々「ポーズは全身(丹田)に効かなければ意味がない」と言われていました。(よくわかりませんでした)
が、自分は丹田に全然効いていなかったのが呼吸法でよくわかるようになりました。
丹田を意識しながら呼吸をすると身体が自然と上に伸びていき、「ああ下半身の上に上半身がのっかっているな」という楽な感じが出てきました。

しかしまだまだ身体の一部分が伸びるとどこかほかの一部分がきゅっと縮むという現象が起きます。力んでいるんでしょうね。
丹田を意識する呼吸法により、だいぶ吐く息が楽になり、身体もゆるんできているのですが、
普段はやはりみぞおちで「息がつっかえる」という状態が多いです。

また質問をさせていただきたいのですが…。
呼吸法で吐く息に重点を起き、吸う息は自然に入るようにしています。
しかし吐く息により腰が立って身体がすっと伸びてくると、今度は吸い込むのが困難になりました。力んでいるのかな…。
息が入るとき胸のあたりがものすごいつっぱって苦しくなるのです。
長年の姿勢の悪さから、みぞおちから胸まわりの筋肉がカチカチに硬くなっています。
しかし腹式呼吸をしているつもりなのに、胸がこわばるのは腹式呼吸になっていないのか…?と思っています。

質問ばかりで恐縮なのですが、何かアドバイスをいただければと思います。

お礼日時:2005/05/08 14:57

<長文になるので分割して投稿します>



こんばんわ、kuronecoさん。
最近、投稿はしてませんが、自分の勉強に費やしているだけですから、気軽に質問してください。

自発功に関してですが、タイの仏教瞑想道場でも、自然の動きに任せることを認めているようです。タイの土着のマントラを「ナナナナナ・・・」と、繰り返し唱えることで集中に入り自発功が始まるようです。が、あくまでもヴィパッサナの前段として、リラックスと集中のためのサマタ瞑想です。


それにしてもkuronecoさんの感性の高さは天性のものなんでしょうね。

だから、逆に「出来て当たり前」という好調の感覚に固執してしまうのかも知れませんね。
そして、それが心理的な追い込みになって、のぼせに繋がって、不調へと発展していくのかも知れないですね。

「出来て当たり前」という観念は、本当に危険なんですね。

「幸せになって当然」とか「健康で当然」「若くて当然」「私の人生は人並みであるはずだ」・・・という、普段、全く意識しない、無色透明で無力のような「思い込み」が、一番、力を持っているんです。

で、いざ病気になったり、事故に遭ったり、事件に巻き込まれたり、死の宣告を受けたり、挫折、絶望、不調になると、普段の思い込み、信じて執着してきた観念との間に矛盾が生じるので、一気にのぼせてしまってヒステリックになって、「今、此処の自分」が完全に不在になってしまうんです(本当に気が狂ってしまうんです)

だからこの瞑想の目指すところは、老い、病、死の恐怖さえも乗り越えるという境地なんです。
何時、何があっても、のぼせずに「今、此処の私」に留まる境地なんですね。。。。

「心」って誰にも見えないし、何を想うのも自由だし、想っただけでは影響力はないし・・・と、無力のように思えますが、実は、世界で一番、力を持っているのが「心」なんです。そして、世界で一番移ろい易いものなんですね。。。。

・・・と、これも、ただ理屈で、頭でわかったような気になっただけでは不十分で、実際に体で覚えないといけないんです。この瞑想は体に覚えさせることが重要なんです。本当に心を育てるんです。ですから私が教えて差し上げられる範囲は最初のレベルだけなんです。もし、本気でやるのであれば、一度、専門的指導を受けられると良いと想います。
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この回答へのお礼

Syo-yaさん、ありがとうございます!お元気で何よりです^^ 

理解未熟ながら、じっくり読ませていただきました。

…そうです、「混乱」「焦り」「結果を出したい」「思い通りにしたい」
見透かされたかのようにその通りです(汗)

結局淡々と実践し、気づいていくこと…身体で覚えていくこと…すぐ初心を忘れてしまいますね。
スポーツでも基礎トレが一番重要ですもんね。

今回のご回答でまた思い出させていただきました。

>「心行に気づこう!」と想っている<そんな自分にこそ>気がついて

はい。つい「今ここにいる」ことを忘れてしまっています。
自分を離れて見る感覚…とても役立っています。
気づいていくって…夢からさめるとまた夢だったっていう夢のように感じ、やっぱり混乱します。
淡々と実践…縁起にも注意を向け、徐々に気づいていければと思っています。
本当に何も見えてないと思います。

>老い、病、死の恐怖さえも乗り越えるという境地なんです。

私はちょっとヴィパッサナを恐く思う時があります。

観察する目線が癖になってくると、自分の嫌な部分に行き当たっても、観察する眼は淡々とそれを見ます。

内心、「わかりたくない」「イタタタ」とか「キャー恥ずかしい」という感じなのに、私はそれを感じることから逃げれません。
(この感じ…わかりますでしょうか…変かもしれません)

気づきたいと言いながら、全部をあからさまに見ることはとても恐く感じます。

同じ理由で「死の恐怖」や「ものすごい恐怖(老いもすごく恐いです)」を乗り越える前に、それを何ていうか…今までのように見てるつもりで見えてなかったり、ごまかしている状態ではなく、そのままをあからさまに経験しなければいけないのかなと思うと恐いです。

…のぼせてる中の言い分なので(^_^; これから実践を続けていくとまた違うかもしれませんね。


>自分の中に「心」というのを感じてしまったんです

これは…ものすごく不思議な…瞑想中になのでしょうか。
「心」に出会うって…怖いものなのか…想像もつかないんですが、読んでいるうち何故かいっしょになって「怖い…」と感じてしまいました。

もしよければ、その時のお話もっとお聞きしたいです。
興味本位なのですが。
心が思考や意識と違うというのもとても興味があります。

お礼日時:2005/04/19 03:31

書き忘れてました。



あと、自分をVTRで見るようにするのもイライラ対策だけでなく、とても有効です。

幽体離脱というか、ちょっと自分を離れてみる感覚です。

まさに、kuronecoさんが「テレビの同時通訳」と仰るような感覚ですね。

身体の外はテレビで見るように、内側に現われる感覚は神経の通訳をするように・・・と、
内も外も徹底的に客観視するんですね。

解釈無しのイライラ対策にも良いかも知れません。
お試しください。
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この回答へのお礼

Syo-yaさん、ありがとうございます、自分を離れて見る感覚やってみています。
いい感じです!^^
目を閉じてそういう風にイメージすると、自分の周りの空間が広がったように感じます。
自分が全体で感じられるような…うまく言えませんが。
自分の中にここ数日、何とも言えない感覚があります。

また報告&質問をさせて下さい。
どうぞよろしくお願いします。

(下で記入し忘れましたが、きな粉ぜひ試してみます。きな粉けっこう好きなんです^^)

お礼日時:2005/04/14 01:06

こんにちわ、kuronecoさん。



同時通訳ですかーぁ!
なんと素晴らしい表現でしょう。

神経言語プログラミングという心理療法があるんですが、
ヴィパッサナーも、まさに「神経言語の同時通訳(翻訳)」ですね。

普段「私」と想っている「私」は、この複雑怪奇な神経の創りだす機能にすぎないんですね。
この神経の働きを管理できて初めて「自己理解」と「平常心」が育つんでしょうね。

神経言語を理解するということは、自らを理解するということでしょうね。
のぼせの原因となっている悪い部分を理解・反省する為にも翻訳が必須ですよね。
神経言語を同時通訳することで自己理解は深まるし、平常心は養われるて、自己矛盾が少なくなり、自己実現が可能になって、人生が楽になってくるんでしょうね。。。(こんな凄い科学的なことが2500年も前からあるんです。。。日本人は本当に損をしてきたと想います)

「神経の同時通訳」という表現は本当に素晴らしいと想います。
kuronecoさんは本当に勘・センスが良いんですね^^
(今後、使わせてください。)



>>わけもなく「イライラ」した時、実況中継しつつもどうにもなりません。

「わけもなく」とありますが、仏教では「縁起」という考え方があって、森羅万象の出来事は必ず「何かに縁って起こっている」というんです。『原因と結果の法則』という本も有名ですが、イライラも”きっと”この縁起の理法で成り立っているんです。

ですから経典では【 心行(心のプロセス)にも気づくようにしましょう 】とあるんです。
【まだ気づいていないことに気づけるようにしましょう】ともあります。

見たもの、聞いたもの、触ったもの、意識の在り方・・・に縁って、イライラが生まれたのかも知れません。幸福そうな人を見て、劣等感が湧いて、そしてイライラに発展したのかも知れないし、一瞬、頭をよぎった過去の記憶がイライラを呼び覚ましたのかも知れないし、未来への不安、欲望が引き起こしたのかも知れないし、逆に元気すぎてイライラしているのかも知れませんし・・・何かあるんです(きっと)

そういう「心行」に気づけるようにしたほうが良いと想います。
でも、出来なければ、普通に「イライラしてる・・・・」でもいいし、
イライラが鎮まった頃に「ずっとイライラしていた・・」と後追いの気づきでも良いんです。

心も筋肉と一緒で、やればやるだけ育ってきますので、きっと、そのうち自然と心行にまで気づけるようになると想いますので、焦らずに気長に、楽しみながら、喜びながらやってみてください(神経言語の同時通訳の専門学校生になったつもりで)


逆に、この瞑想で一番やってはいけないのは<解釈すること>なんです。
「なんで気づけなかったんだろう」とか
「イライラが止まらない!」
「イライラの発想しか出来ない!」
「なんで、こんなことばかり想うんだろう?」等々の解釈をすると、
それがまた妄想を生んでしまい、さらに、のぼせてしまうからです。

< 立ち止まる時には沈み、あがくときには溺れるのです >ですね(難しいですけどね)

国連の同時通訳者が会議中にパニックってしまったら駄目ですよね。
本当にそんな感じで、ただ淡々と、客観的に、平常心で行うんです・・(深い!)

時間はかかりますが、飽きず懲りずに続けてみてください。
私も同時通訳というお言葉を頂いて、さらに気づきを得たので、益々、頑張れそうです!
ありがとうございました。



ps
あと、これも説明すると長いんですが・・・、女性には「きな粉」がお薦めです。
ビタミンCが入ってないですが、心身の両面にとても素晴らしい効果が期待できますよ。
100円ショップでも売ってます。
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この回答へのお礼

Syo-yaさん、どうもありがとうございます!
お礼が遅れまして申し訳ありません。ちょっと家を空けていました。

>なんと素晴らしい表現でしょう。
Syo-yaさんにほめていただくなんて、うれしくて私はまたカッカとのぼせていきそうです(いけない、いけない^^;)
ゼヒゼヒどんどん使って下さい。

>イライラも”きっと”この縁起の理法で成り立っているんです。
「心行」…「心」ですね。
今は実況中継が未熟で、とにかく手当たり次第の観察のようになっていると思います。
注意を心にスライドしてやってみようと思います。
専門学校生…入学したばかりですがやっていきます(笑)

>焦らずに気長に、楽しみながら、喜びながらやってみてください
はい、私に特に必要な姿勢です^^;
やればやるだけ育ってくれるっていうのはうれしいですね。続けていく原動力になりますp^.^q

>「なんで気づけなかったんだろう」「イライラが止まらない!」
そうなんです。どうしてもこういう風に反応してしまいます。ハマッてしまい止まらなくなって混乱します。特に仕事中などは止めたい!と強く思ってしまいそうなります。
パニクッてますね…。

>この瞑想で一番やってはいけないのは<解釈すること>
はい。注意していきます。難関ですが… --;
実況中継しているとすぐ「なんで…」と考え始めます。
(私はそれを「理屈魔」と命名しました)
理屈魔が暴れているのをもっと大きな目で見れたら…と思ってます。
「淡々と」やっていきます。やはりそれが一番大事ですね。
たまに挫けていますが、やっぱり何かに気がつくというのはうれしかったりするので、絶対続けていきます。

本当にどうもありがとうございます!

お礼日時:2005/04/11 02:45

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