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昌平坂学問所は東大の前身なのでしょうか?

A 回答 (3件)

40年以上前に志望大学として昌平坂学問所と書いたやつがいました(当時高1)。


彼は東大を受験しましたが、不合格で地元の医学部に行き、今は立派な医者になっています。
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wik




昌平黌は維新政府に引き継がれ「昌平学校」と改称された後、1871年(明治4年)に閉鎖された。
しかし、教育・研究機関としての昌平坂学問所は、幕府天文方の流れを汲む開成所、
種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができるほか、

この地に設立された東京師範学校(のちの高等師範学校[2])や
東京女子師範学校(のちの東京女子高等師範学校[3])の源流ともなった。

さらに学制公布以前、明治政府は小学→中学→大学の規則を公示し、
そのモデルとして1870年(明治3年)、太政官布告により東京府中学がこの地を
仮校舎として設置された[4]。

昌平坂学問所のあった湯島聖堂の構内において、文部省、国立博物館[5]の他、
先述した東京師範学校と東京女子師範学校[6]が同居していた時期もあった。

後に文部省は霞ヶ関、国立博物館は上野、東京師範学校・東京女子師範学校およびそれぞれの附属学校は文京区大塚にそれぞれ移転した。東京師範の後身である東京高師は、新制東京教育大への移行を経て茨城県つくば市に移転し筑波大学に改編され現在に至っている(しかし附属学校は大塚に止まっている)。東京女子師範の後身である東京女高師が新制大学移行に際して「お茶の水女子大学」を校名としたのは、源流と目される昌平黌が湯島聖堂構内に所在していたことに由来する。

このように、幕末維新期に至るまでの学問所の存在以降、中央大学、明治大学、日本大学等の旧法律学校を中心とする神田学生街や古書店街の現在の発展へとつながったが、敷地としての学問所跡地は、そのほとんどが東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっている。
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以前に自分で調べた結論としては、そのように認識しています。

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