プロが教えるわが家の防犯対策術!

こんにちは、

長文失礼いたします。

突然ですが、私は「正しいことなんてほとんどないのでは」と予想する人です。別に数学や物理をしているときにこう思うことはないのですが、政治や倫理、つまり社会について考えているときに、「正しいことなんてほとんどないのでは」と想像してしまいます。

例えば、男女平等なども、間違っていると感じることもないですし、なんなら私は女性を軽視する理由も特にないので、全くもって反対ではありません。しかし、男女平等が本当に正しい意見かというと、筋道立ててその理由を説明することはできないです。ですから、私にとって、男女平等は、反対とも賛成とも言えない意見です。

もう一つ、より具体的な例を挙げると、津久井やまゆり園の事件などがそうです。私は犯人に下された判決に特に異論はありません。なぜなら、我々の社会には、法律というルールがあるからです。犯人は、「現行の法律の上では罪人」であると思っています。また、殺人はいけない、障害者も平等です、という教育を受けてきたので、初めてニュースを耳にした時は、ぞっとしました。しかし、僕からしてみれば、犯人の行動を非難する理由は、法律以外に思いつきません。また同時に、被害者が被害者たる理由も、法律以外に思いつきません。なんなら、「重度障害者はこの世に必要ない」と思い人を死に至らせた人と、「差別的な思想を持ち人を殺すような人間はこの世に必要ない」と思い死刑に賛成する人の間に本質的な差があるのかわかりません。

このように、私からしてみれば、世の中の「当たり前」の多くについて、正しい根拠を見つけることができません。(間違っている根拠も見つかりませんが)。しかし、世の中には、熱烈に「男女平等」や「人種差別撤廃」と主張する人や、「嘘はついてはダメ」「人は殺してはいけない」などと説く人がいます。

ここで質問なのですが、どうして、このような方々は、自分の持つ意見を自信を持って主張できるのでしょうか。その自信を支えているもの(メンタリティ?)は何なのでしょうか。これが知りたいです。





何回目かになりますが、別に、このような方々の意見は間違っているんじゃないか、と疑問に思っているわけではありません。

人は皆ある種の価値観を持っていると予想します。聖書を価値観のベースにする人もいますし、「俺は人間は諦めて、とにかく動物的に生きるぞ!」という価値観の人だっていると思います。現代の法律も、先人の価値観の上に成り立っていると感じます。色々な価値観があるわけですから、それらの価値観をベースとした様々な意見があって当然だと思います。

だとすると、次に考えるのは、「どの価値観が一番いいのだ?」ということですが、私は、価値観同士をフェアに比較することはできないと思います。何かを比較し、その良し悪しを判断するために必要な基準こそ価値観であり、価値観が主観的である以上、フェアな比較難しいのではないでしょうか。

そういう意味では、例えば、「聖書に『汝、殺すことなかれ』と書いてあるから人を殺してはいけないんだ!」というのは筋道が立っているし、その論理展開に間違いはないように感じます。しかし、聖書が他の価値観に勝る理由が特に見つからない。だから、聖書を根拠に意見を言う人が、どうして聖書にそこまで自信があるのか、そこが謎なのです。

つまり、先ほど述べた質問をより正確に言い換えると、
「なぜ多くの人は自分の価値観に自信を持つことができるのか」
と言う質問になります。質問に至るまで長かったですね…すみません。ぜひこの質問について、色々な考えが知りたいです。


ちなみにですが、私は「殺人が悪い理由が法律以外に特に思いつかない」などと言いましたが、だからと言って例えば人を殺すようなことはするつもりはありません。殺人は基本的に悪である、男女は平等であるべきだ、といった時代に生まれたからには、この時代のなかで生きていく運命なのだろうと感じます。だって、どう頑張っても「黒人奴隷はOK」であった時代には戻れないし、生命医学が発達して「障害を持って生まれてくる子はいてはいけない!かわいそうではないか!」と言う意見が主流になったパラリンピックのない2XXX年にいくこともできません。そもそも殺したい人はいませんし、そのガッツもないし…

そして、この質問をした理由ですが、価値観なしでは行動の判断ができないからです。価値観を服だとすると、今の私の状態は、どの服がいいのか迷っている裸です。どの服もいいところが特にない…特に人気のあるやつとか、流行りのものとか…といった感じです。時間が止まれば、判断などをする必要がないので楽ですが…そうはいかない。投票はしなくちゃいけないし、子供がいたら、何かを教えなくてはいけない…

本当はもっと自分で勉強するべきかもしれません。この文章の内容が根本的に間違っていたり(社会について間違った理解をしてるとか、用語を間違えたとか)、矛盾していたりするかもしれません。そういったことがもしあれば合わせて教えていただけると幸いです。

わかりにくい文章ですが、もしよろしければ知恵をお分けください。特に同じことを考えたことのある方が、どうこの裸の状態を乗り越えたのかを知ることができたら私にとっては宝物です。

質問者からの補足コメント

  • (すみません、10番さんへのお礼を書いてしまいました…)

    価値観を探すのではなく、まず本質を探求し、そこから価値を考える、ということですか。
    なるほどこういう思考回路もありますね…参考にさせていただきます

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/06/15 19:56
  • みなさん、様々な意見、見方、資料を紹介してくださり、ありがとうございました。どの意見も大いに参考にしていただきます。
    どの意見が良かったか、という判断は難しいので、BAは乱数で決めさせていただきました…
    これからもよろしくお願いいたします。

      補足日時:2020/06/15 19:58

A 回答 (12件中1~10件)

世界における事実認識といった基礎の――科学的な――ただしさを


別〔としうるならば別〕として 人間関係におけるよしあしにかか
わるただしさとは そのことを考える知解力や決断し実行する意志
をまづ先にとうとびおもんじることです。

意志をないがしろにしない。心を踏みにじらない。存在をとうとぶ。
(意志を踏みにじることを 人権侵害と言います)。

ただしさを問うことすら出来ないようにその人の存在を無くすこと
は 人間性ないし倫理としてのただしさに悖ります。


これが 人間関係の原点です。




原点から展開したその時その場における《われ》にとっての一回性
としてのおこない これが やがておのれの社会的な思想(≒生活
態度)を形成して行きます。価値観は そこにふくまれます。

意志をとうとび合う原点 これにもとづき 現実の一回きりの場に
おいてわたしたちは 情況を判断しそれぞれそのこたえとしての自
己表現を展開する。

この自己表現の形式や内容をとらえ分析し――特には 原点の順守
いかんを検証し―― 《ただしさ》の具体的な応用実践のあり方を
考え合って行きます。




ひとつには よしあし あるいは 好ましいかどうか・望ましいか
どうかといった判定の物指しがありますが 基本としては その自
己表現を形成した推論と結論が 行為の一回性という条件を超えて
一般に普遍的に成り立つと考えるかどうか これをもって――ただ
しさ如何を――判定します。

その判定としての考え――つまり 個々の主観――が 思惟の上で
という前提に立って共同化しうると見做されたなら――共同主観と
して―― 《ただしい》と思われるようになります。

ひとつの主題ないし問題をめぐって 複数の共同主観が成り立つと
いったこともあり得るようです。主観ないしその――原点としての
――意志と心とをとうとび合うからには。
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この回答へのお礼

なるほど、結構難しい…

(もし私の解釈があっていれば、つまり)正しさを考え決断し実行する意志を尊び合い、これが人間関係の原点である。そしてこれがあって、人は一回きりの現実で自分で判断し行動できる。

確かに、人が互いに「正しさを考える」意志を尊び重んじ合えば、(正しくないかもしれない?)自己表現も展開できますね。

こういう見方は新しかったです(私の解釈が一致していればですが…)。

後半部分については、もう少し温めて考えてみます。

お礼日時:2020/06/15 19:57

「「価値観」は服だとする」と質問者さんは想定されていますがその想定こそとても重要です


何故なら「価値観」はまさに服に過ぎないからです
質問者さん自身の人としての「価値」は「裸の質問者」そのものだからです
これは全ての人々に言えることです
どのような価値観を持つべきか?とお悩みのようですが、その答え得るには「価値観」では無く「価値」を見いだすことが大切です
更に言えば「価値」を見出すには「本質」を見出さなければなりません
「本質」や「価値」を見出せたならば「真に求めべき価値観」を見いだせるようになるでしょう
因みに
価値と価値観について
ダイヤモンドとは「炭素結合体」の一つで炭素そのものなのです
自然界における炭素結合体は最も硬いダイヤモンド〜最も柔らかいグラファイトまで幅広い形態を~持ちます
炭素結合体としての価値それ自体は変わりませんがそれぞれの形態(見栄え)や硬さ等の違いからそれぞれの「価値観」が変わるのです
参考迄に
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

どちらかというと、「一つ一つがあってるのに全体はあっていない」、というよりは、「象は、観察する位置によって認識の仕方が変わるけど、どこから見るのがいいのだろうか?」といった感じです(花火ではないです)。

お礼日時:2020/06/15 19:53

群盲象を評す


一つ一つの解釈は正しいかもしれないが、
全体像をただしく解釈しているわけではない
という話?
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この回答へのお礼

どちらかというと、「一つ一つがあってるのに全体はあっていない」、というよりは、「象は、観察する位置によって認識の仕方が変わるけど、どこから見るのがいいのだろうか?」といった感じです(打ち上げ花火ではないです)。

お礼日時:2020/06/15 19:56

何を持って正しいか、間違っているか、つまり


善悪とするかについては、考え方が二つあります。

一つは、時代や立ち位置によって変らない普遍的な
絶対的善悪がある、とする立場です。

一つは、善悪など時代や立ち位置によって
変るものだ、とする立場です。

前者は、キリスト教に由来するもので、正義論として
数百年議論されていますが、未だに結論が出て
いません。
ロールズの正義論が有名です。

後者は、日本などの考え方で、現代の価値観で
評価すれば、歴史の英雄は独裁者殺人鬼侵略者
ばかりだ、
ワシントンは米国では建国の英雄だが、英国では
反逆者だ、
それが当たり前だ、と考えます。




ここで質問なのですが、どうして、このような方々は、自分の持つ意見を自信を持って
主張できるのでしょうか。
その自信を支えているもの(メンタリティ?)は何なのでしょうか。
これが知りたいです。
 ↑
ひとつは、信仰心です。
神がそう定めたのだから、正しいのだ。
疑うのは許されない。

ワタシは次のように考えています。
人は社会的動物です。
社会で育たなかった人間は二足歩行すら
できません。

そうした社会のために善悪、という概念が
創られたのです。
社会にとって不利なモノは悪、利益になる
モノは善。

これを国家権力で担保したモノが法令です。




どうして聖書にそこまで自信があるのか、そこが謎なのです。
 ↑
そりゃ神の存在を信じているのですから、
聖書に自信があるのは当然でしょう。




特に同じことを考えたことのある方が、どうこの裸の状態を乗り
越えたのかを知ることができたら私にとっては宝物です。
  ↑
正義論、ということで哲学や法学では盛んに
議論されています。
ウイトゲンシュタインが有名で、彼は
理論では説明できない、としています。
彼の論は難解ですから、あまりお勧めは
出来ませんが。

善悪、というのはルールなのです。
野球で三振アウトと同じです。
なんで三振でアウトなのか、理由はありません。

それと同じです。
何で悪いの?
社会に不利を与えるからだ。
社会に不利だと何で悪いの?
そういうルールにしたんだ。
それに従えないのなら、無人島で独りで
暮らせ。
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この回答へのお礼

詳しくご説明していただきありがとうございます。

「正しさとは」二つの考え方がある。これは新情報でした。こうやって分けることで思考が整理されるのでありがたいです(僕は無意識に前者的な考えをしている気がしました)。

信仰心は納得できます。ただ単に受け入れる。これは「なんでそうなの?」って聞こうと思わないです。

Tanzou2さんの善悪についての考え方も理解できました。

最後のルールには理由はないというのも一部考えています(例えば法律という意味で)。私は「この時代に生きる運命なのだろう」と感じていると書きましたが、例えると今の状態はこんな感じでしょうか…「俺はサッカー選手に囲まれているから、ボールを手で触ったら反則なんだよな。如何してかはわからないけど(ボール持ってもいいじゃん?ラグビーみたいに)、とりあえず従っとくか…レッドカード欲しくないし。」

ロールズの正義論、いつか読んでみます。

お礼日時:2020/06/15 19:53

「絶対的に正しいことは無い。

」と認めたら、悩まなくともいいのでは?

私は、物事は、「縦、横、高さ、と時間」だと割り切っています。
そして、私は、何かを判断するときに、「どこかに立たないと(立脚しないと)」いけません。

私は、私から見える景色を、「縦、横、高さ、と時間」の一部の断片を見ている、と考えます。
次の日、私が別の位置に立てば、景色は全く違う。

例えば「殺人が悪い。」は、「真実」ではなくて、人間が集団として、平和に安心して
生きるための「決まりごと」に過ぎません。
「真実、真理」ではない。

北朝鮮では、首領が平気で、粛清しまくっていますが、立脚点を変えれば、
金王朝を守り存続させるためには、「正義」かもしれません。

そんなものです。

人間は、一生懸命考えても、所詮、「ある立脚点」を決めたときの、「限定化された景色」を
見ているに過ぎません。

ここでも、私には理解できない項目について、日々議論されていますが、
そんなもの立脚点を変えれば、景色が変わるのです。

それを「全てが見える。」「全てが理解出来る。」と思うのは、人間の妄想であり、
愚かな「おごり」だと思っています。
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この回答へのお礼

「縦、横、高さ、と時間」がすごくいい例えだと感じました。空間と時間ですね。

>例えば「殺人が悪い。」は、「真実」ではなくて、人間が集団として、平和に安心して
生きるための「決まりごと」に過ぎません。
「真実、真理」ではない。

ここにある「決まり事」と「真理」を別のものとして考える視点も新鮮でした。でも完全に理解(納得)するには勉強不足な気がします…tanzou2さんの「ルールに理由はない」に似ている気がしました。

>それを「全てが見える。」「全てが理解出来る。」と思うのは、人間の妄想であり、
愚かな「おごり」だと思っています。

これは、経験則からでしかありませんが、少し思います。私の場合は、質問から若干ずれますが、「すべてが見えれば真実がわかるだろうけど、全ては見えない…だから真実はわからない…だとしたらどうやって論理的な思考をするべきだろうか…」っていう、ジョージ・オーウェルの1984みたいな感じになったり、「『正しさとは何』と考えられるのにその答えにはたどり着けないんだろうな…」って思ったりします。

お礼日時:2020/06/15 19:52

正しいと言うのは、本当には自分はどうしたいのか?を教えてくれる人、つまり自身の欠点や過ちを指摘してくれる人を介して獲得されます。


例えば障害者を多数殺傷したあの事件で、犯人に問う人はいなかったのか?お前、本当にそんなことしたいの?それがお前の本心なの?それ、間違ってるぞ。と言ってやれる人はいなかったのか?と言う事が重要だと思います。
そして人間の本心とは、倫理や法律に照らす必要も無く、悪でもなく、それを砕く善でもありません。それは、真っ直ぐなものであり直き心と言われらものです。

価値観とは対象を判断するものです。しかし、直き心は主体であり、決心するものです。
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この回答へのお礼

客観性と言えばいいのでしょうか…なるほどそういう考え方もあるのですね。

>人間の本心とは、倫理や法律に照らす必要も無く、悪でもなく、それを砕く善でもありません

本心というのはまだあまり考えたことがないので…ここはまたいつか振り返ってみます。

お礼日時:2020/06/15 19:51

どう生きたいか悩んでらっしゃる?



この方の再生リストの小説が面白いですよ。
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この回答へのお礼

参考資料をありがとうございます。

お礼日時:2020/06/15 19:51

たとえ過ちと思う事柄であっても、


臨場感ある体験を経験すると、その人にとっては真実になります。

同じ景色を見ても、人は自分が見たいものしか見えません。

>>「正しいことなんてほとんどないのでは」と想像してしまいます。
見る角度で正しさは変わるものです。

>>「どの価値観が一番いいのだ?」
誰にとって?
何にとって?

によって変わるもの。
(地球上で、人間が一番偉い訳ではありませんし)

>>そして、この質問をした理由ですが、価値観なしでは行動の判断ができないからです。
いくら知識を増やしたところで、この世は『百聞は一見に如かず』です。
脳みそ、思考は、あくまで命のパーツの一つにすぎません。

大切なのは心、身体全体で感じること。身体で覚えること。
あなたにとって大切なことは?

自転車に乗る前は、不安もあって自転車に乗れる自信もなかったのではないでしょうか。
同じように、自分の価値観に自信をもてる経験、行動を少しずつ行うというのはいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

>臨場感ある体験を経験すると、その人にとっては真実になります。

これは私には経験がないので、あまり考えることはないのですが、例えば、津久井やまゆり園の事件の被害者が私だとしたら、こんなこと言えないのだろうな、と感じることもあります(しかし、それが、どれだけ私の受けてきた教育によるものかわかりませんが)。

>見る角度で正しさは変わるものです。

私は、「いろんな視点があって、いろんな見方があるのだったら、それは皆平等に…正しくも正しくなくもないだろう」という考えをしていましたが、「皆平等に正しいだろう」という視点もありますね…

>大切なのは心、身体全体で感じること。身体で覚えること。
あなたにとって大切なことは?

心というのはまだあまり考えていないんですよね…強いて言えば今は「真実」なのかなぁ…いや、幸せかもしれません。その場合の幸せの定義は真理の探求かもしれませんけど。

>自転車に乗る前は、不安もあって自転車に乗れる自信もなかったのではないでしょうか。
同じように、自分の価値観に自信をもてる経験、行動を少しずつ行うというのはいかがでしょうか。

なるほど、面白い例えですね。とは言えこうするには、まずは、自分が何なのか思い出さないと…

お礼日時:2020/06/15 19:50

私の自論です…偏見もあるでしょう。

正しい事は生きる事でしょう、『弱肉強食と種の保存』が基本とすれば色んなケースが出て来るでしょう。…森羅万象を愛でる気持ちと行為が大切だと考えます。モノを大切する事、空気を大切にする為には自然も必要です、文明は害を及ぼしています。色んなケースに強い集団がルールを決めるだけですよ。
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この回答へのお礼

>色んなケースに強い集団がルールを決めるだけですよ。

そんな気もしなくはないですね。

お礼日時:2020/06/15 19:50

そんなに考えると、悪い方に行ってしまいますよ・・・



単純な人ほど、主張しがちだと悟りました。
賢い人は、多くの選択肢がありベターな方を選択しています。
それはまるで、多くの人と議論をしているような事なので、どちらが上手くいくかはご想像の通り。

社会も同じで、ベターな方をルールにしているのです。
なので、ベストは無い=正解はないのです!

自分が思っている事が正しいと思うのは、人間の習性なので、個々が主張したがりますが、
自分の主張は、その内の1つの意見としていた方が、受け入れる事も容易です。

私は良く、他の人の意見にわざとツッコミを入れます。
それは、誰もが唸るような理論的な反論を聞きたいからです。
反論すら出来ない人が多いので、結局は却下案になります・・・
まあ、別の正解を導きたいわけではなく、皆が「納得」して行動できれば良く、結果として失敗しても許せるし、次の修正に出来るからです。
災害だってコロナだって「雨降って地固まる」 この繰り返しです。
要は、目的に向かって前進できるよう模索しているのです。

法律やルールもそうで、(進化もありますが)過去に多くの失敗や損害があったからこそ、変化しているのです。
喧嘩せずに譲歩する事も大事なので、ベストには辿り付けないのが正解として収まる事もあります。

ルールという制限があるけど、それが公平になるので、その内で円満に、最も上手くやりましょう!って事だと思います。
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この回答へのお礼

>社会も同じで、ベターな方をルールにしているのです。
なので、ベストは無い=正解はないのです!

なるほど…では何を持ってベターとするのか。

>まあ、別の正解を導きたいわけではなく、皆が「納得」して行動できれば良く、結果として失敗しても許せるし、次の修正に出来るからです。

Naotakaさんとしては、みんなが納得できるもの=ベターと定義されるのですね。確かに全ての人が納得できる決定をあえて「それが正解じゃないかもしれない」と覆す理由はないような気はします。これについてはもう少し考えてみます(あんまり考えると悪い方に行くのかもしれないですが…)

>私は良く、他の人の意見にわざとツッコミを入れます。

これは結構私もやります。理由はnaotakaさんと同じで、誰もが唸るような理論的な反論を聞きたいからです。これが聞けたら幸せなんですが…

お礼日時:2020/06/15 19:49

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