「美」という概念は何なのでしょうか?
ちなみに僕は「美」には大きく分けて2つの方向性があると思います。
それは、合理化によってもたらされる幾何学的な「美」と装飾することによって発生する華美的な「美」です。それは、人間の体格でいうならば前者はボクサーの体格であり、後者はボディービルダーの体格です。サッカーで言えば前者はカウンターのもつ美しさであり、後者は華麗なパスを展開するサッカーであるかと思います。そして、その両者を弁証法的に高めたものがヨハン・クライフが創ったトータルフットボールであるわけです。
 例を挙げるとキリがないのですが、今のところ僕の中ではこの2極説が有力です。なにか「美」に対して意見がございましたら、暇なときでも結構ですから教えてください。

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A 回答 (11件中1~10件)

>はじめに「美」ありき



ん?
本能レベルでの「美」のことを指しているのか?

女性の腰がくびれている方がよいとか?
この場合は
女性の腰がくびれている=妊娠してない=自分の子孫が残せる
と本能的に悟っているわけで、意味的には「はじめから美が設定されている」ことになる。

逆に身体障害者を怖いと思うよね?
これは自身にも同じ事が起こるのではないかという恐怖です。
もしくは障害が自分の子孫に受け継がれることへの恐怖です。
これが本能的は「醜」です。

はじめから設定されている「美」とは人間の生存本能に起因したものです。
女性は強い男性に惹かれる。
男性はナイスバディさんに惹かれる。

その他、顔形、知性、礼儀などなど「優れている」部分を自分の子孫に残そうとする。
人の顔は「その時代における平均的な顔」がもっとも美人といわれるそうな。平均的な顔というのは逆にいうと「すべてに対して劣っていない顔」といえるのではないだろうか?

総合すると本能的「美」とは「優れている」ということであると考察する。
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合理化の美と装飾の美は、アプローチの違いだと思います。


本質は同じ。
人間の頭は一つですから。

私なら、自然美と人工美に分けますね。
芸術で言うなら、模写と表現。
外と内。
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環境、宗教、思想、など美しさの定義は個々の価値観でさまざまに分かれると思います。

それを美の概念の外延とするなら、内包は美しいものを美しいと感じて、美しいと認める心になるのではないでしょうか。
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3歳で失明した男性がいまして、46歳にして医学の進歩により視力が回復しました。

術後、驚きの一言です。Dr(男性)にたいして、「先生、思ったよりハンサムですね。」つまり、「美」の感覚は後天的要素によっているわけではないという事になります。つまり、育ちの違い、文化の違いよりも、決定的な認識方法が生まれた時すでに、もしくは3歳までに確立される事になります。「美しさ」は教育によって与える事はできないという事です。
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「誰もが思う美しさ」があるかどうかですよねぇ。


sabarenさんはあると思っていらっしゃるんですね。
うーん。探してみてもないので僕はないんじゃなかなって
思います。
例えばゴキブリくんも美しいと思ってしまう人間の
女の子は世界にいるかって考えるといないと思うんですよ。
あっ人間限定ですか?
ならありそうな気も。
機能的な美と見た目の美として分けると、僕の中ではやっぱり好き嫌い
になってしまいますね。
人間が本能的に快感を覚えるような形とかは存在する気がします。
ただやっぱりそれは好きと言えるような。。
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 savarenさん、再び失礼します。

スコンチョです。(^_^)

>>好き嫌いはあるかもしれませんが、オードリー・へップバーンが美しいことに
>>異論はないかと思います。どうでしょうか?

 ふふふ、これは言い換えれば「吉永小百合さんが美しいことに異論ないですか」
という事と同じですね。(多分)

 難しい線ですが、僕の解答としては「不美人という人はいないでしょうね」程度
ですか。同じ定義として「ミロのビーナスは全ての人に『美』たりえるのか?」
とも言えますかね。(ちなみに、個人的に理知的なヘップバーンは非常に好きな
タイプです(^_^;)

 平均値以上が「美」なのかどうか。でも100%美しいと言えるモノが明確に
定義できない以上、平均値以上が美と言えるかもしれませんね。無粋な話では
ありますけど。
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私は弁証法とか唯物論、ト-タルフットボ-ル等に縁に遠いので少しsavarenさんの御質問から外れているかも知れませんが私なりの「美」について答えて見たいと思います。


「美」の概念の前に「美」とは何か。
「美」の反対側に「醜」があると思います。
「醜」は人間の五感を通じて喜怒哀楽を司る感情にアクセスして不安感及び不快感等を生じさせるものだと思いますが「美」は「醜」と同様に人間の五感を通じて安心感及び快感を生じさせることを「美」だと思います。
「美」から「醜」を、[醜]から[美]を探求した人もいますので[美]の概念とは[醜]を含めた神と悪魔の様に表裏一体の観点からみたものではないでしょうか。
savarenさんの言われることも、もっともだなとも思いますがト-タル的なものではないと思いますので万人が認める[美]の学説をsavarenが立てて見たらい如何ですか。
あまり御役に立つアドバイスではないと思いますが投稿して見ました。
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ふむ、ここでいう美とは形なすもののみを対象にしているのかな?


行動そのものに美を求めることはよくあることだな。

無形の美とでも称したほうがいいかもしれない。
様式美ということもできるだろう。
その人の人格、誇り高さにもまた美しさはあるように思う。
「粋」という言葉がある。つまり、人の行動に美を求めた無形の美の一形態のように思う。

「美」にはいろいろあると思うがただ一つ、全てに対して当てはまることがある。
ある物事に対して「首尾一貫」していることだ。
一点の曇りなく、ある動作、ある形、ある様式を追求したもの。それが「美」ではないだろうか?

以上
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ただの感想みたいなので申し訳ないのですが、


savarenさんがご自身の思考を進めていかれるにあたって、
もしお役に立つことがあれば、と思って書かせていただきます....(^^;

・お相撲さんの体躯の美というのは、挙げておられた2極のうち、
 どちらの美に入ります(傾きます)か?

 わたしには、合理化と装飾化とを兼ねており、さらに
 そうした「造形」なり「手法」以外の要素
(たとえば健康美----太っている人が本当に健康かどうかは
 ともかくとして(^^;----であったり、精神美(?)であったり)
 も絡んで "こそ"、「美しい」と感じさせられているように思われます。

・savarenさんは、デフォルメによる美(?)、や奇形美といった
 必ずしも万人が美しいと感じるとは限らないものも美と認められますか?

 認めない場合は、この話は忘れてください(^^;
 認められる場合、デフォルメ(その他)は
 合理化ですか、装飾化ですか?

というわけで、わたしは2極だけでは表しきれないように思うのですが....。

自然・生物にしろ人工物にしろ、頭の中のことにしろ、
わたしが何かを美しいと思うとき、
それは単に造形的に整っているだけではダメで、
あるいは優れた手法であるというだけでもダメで、
必ず何らかの「情緒」(感情や感動)を呼び覚まさせられる部分が
対象の中に含まれているように思います。
「造形的に美しいから情緒を引き起こされた」のではなくて、
「情緒を引き起こされたせいで美しいと感じ」ていますね。
そうした情緒を引き起こすものを言葉で表すなら、
生命感や精神ってことになるでしょうか。
(実際には生きてなくても。精神を持ってなくても。)
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はじめまして


僕も『美』に付いては全くの素人です。
その素人の戯言だと思ってください。
僕が思うに『美』とは、その個人がその物に対し、好きか否かという事が根底にあると思います。
『フェチ』という言葉がありますが、到底一般的(過半数的)には理解されない物でも、その個人にとっては『美』ではないでしょうか?
素人の戯言でした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
 確かに「○○フェチ」の○○の部分になるようなものは「美」を感じさせる要素があることも事実だとおもいます。でも、僕が考えるに「フェチ」には多分に後天的要素が含まれていると思います。つまり、自分の中の何らかの体験、経験が関与しなければ「フェチ」は発生しないのではないのでしょうか?たとえば、彼女とのデートで花火に行った時に浴衣を着ていた彼女のうなじが妙に艶かしかったとか、そういった経験の後で発生するものだと思うんです。だから、そこには個人的感情が多く含まれ、好き嫌いもあるし、一般的ではなくなったりもするのだと思います。
 要するに、はじめに「美」ありき、であって「フェチ」は後天的なものなのです。だから、僕は「美」というものには好き嫌いはないと思います。そういった感情とは関係のないもっと根源的なものとして存在するのではないのでしょうか。

お礼日時:2001/08/12 14:36

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Q自然美と芸術美

僕は現在は短大に通っており、4年制大学の哲学科に編入しようと考えています。

そこで、哲学系の小論文の勉強をしているのですが、

「芸術美は自然美の模倣」と一般的には考えられているそうです。

どうして、そういった考えが定着していったのか疑問に思います。

しかし、ネットで検索をかけても答えがわかりませんでした。

哲学や美学関係に詳しい方、どうかご教授ください。

また、哲学の小論文の書き方も教えてもらえると幸いです。

Aベストアンサー

>芸術美は自然美の模倣

「模倣」というところの解釈をしてみます。
NO.5のお答えにもあるように、自然を手本として創作された芸術があります。
写実的芸術といわれるものです。

庭園を例に上げれば
自然の姿を縮小し、省略化して、自然を表した日本庭園がそうです。
それらは、縮景とか、山水の美とか呼ばれています。

また、そこから出発して、一つの平面や空間内における自由な美的構成そのものに至った芸術があります。
抽象芸術といわれるものです。
日本庭園の中でも、枯山水といわれるものです。

芸術が、写実から抽象へと変わっていったのは自然な変化だと思います。
それは、芸術が模倣から自由な創作へと変わっていったものと見てよいと思います。
絵画などにもそうした流れがあります。

自然というものの真似をして、一つの枠の中に閉じ込めて見ようとしたのが「模倣」だったのでしょう。
ですが、「模倣」には定型化という飽きが必ずきます。
より自由な構成を求めて創作が行われ、その結果、抽象芸術が生まれたと見てよいと思います。

あと、もう一つの見方として
自然の芸術と、反自然の芸術という見方ができると思います。
写実と抽象をそのように解釈する事も可能です。
この二つを同時に取り入れたものもあります。
庭園では、龍安寺の石庭の背景や、円通寺の借景などがそうです。
解説は、岡本太郎の「日本の伝統」に載っています。

>芸術美は自然美の模倣

芸術は自然の真似をすることから始まった・・
と解釈していいのではないでしょうか。
ご参考にしてください。

>芸術美は自然美の模倣

「模倣」というところの解釈をしてみます。
NO.5のお答えにもあるように、自然を手本として創作された芸術があります。
写実的芸術といわれるものです。

庭園を例に上げれば
自然の姿を縮小し、省略化して、自然を表した日本庭園がそうです。
それらは、縮景とか、山水の美とか呼ばれています。

また、そこから出発して、一つの平面や空間内における自由な美的構成そのものに至った芸術があります。
抽象芸術といわれるものです。
日本庭園の中でも、枯山水といわれるものです。

芸術...続きを読む

Q【創価学会の教えである「美・利・善」の美って何ですか?】 あと勘違いがあったら困るので、利・善の意

【創価学会の教えである「美・利・善」の美って何ですか?】

あと勘違いがあったら困るので、利・善の意味も教えてください。

Aベストアンサー

>>創価学会の教えである「美・利・善」

そんな物は無い。

Qヘーゲルの弁証法

ヘーゲルの弁証法についてですが、
教科書では「正」を蕾、「反」を花、
「合」を実としています。
この例えが一体何を意味しているのかが分からないのですが、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 いちおう大学院でヘーゲル読みをやらかしていた者です。泣かされました。はい。

 まず、「実はヘーゲルは《正・反・合》という言葉は使ってない」という事実がございます。それに近いことを言っているのは、むしろフィヒテではないかと思います。高等学校の倫理の教科書などでは、わかりやすさを追求してのことか「正・反・合」としていますが。
 そして、「ヘーゲルの弁証法って何?」という問題に答えるのは、やっぱり簡単じゃありません。彼の『論理学』でも、大まかに「移行」「反省」「展開」と、3通りほどの「弁証法的運動」が語られています。それに、彼は何でもかんでも三拍子のリズムに無理やり押し込んでしまうクセのある人ですから、押し込んだモノによってはどうしようもない無理が出てワケがわかんなくなったりもしております。たぶん、彼自身、わかってない。

 が、きわめて大まかではありますが、「より全体的・包括的な見方、考え方へと上昇していく運動」とは言えようかと思います。「より全体的・包括的な方へ」です。それ考えますと、「蕾=正」「花=反」「実=合」という説明は適切とは思えません。「実」が「全体」であるかのように読めてしまうからです。No.2のkequさんが引用されている箇所は、そうは言っていません。「蕾と花と実は、同時に両立せずに交代するが、それらはその植物にとって一時的なあり方であり、それらが生まれ、消えていく過程そのものがその植物の全体である」といったあたりです。「その植物」とは蕾「だけではない」、花「だけではない」、実「だけではない」、しかして、そのすべてである、と。
 この「だけではない」というのが aufheben です。このドイツ語の動詞は、「捨てる」という意味と「保持する」という意味の両方を持つ、実にややこしい言葉なのですが、ヘーゲルはここに大きな意義を認め、好んで多用しています。「前段階の見方、考え方では、絶対的で固定的で自立的なものに見えていたものが、次段階では相対的・流動的・従属的なものとして、より全体的な認識のごく一部にすぎなかったことがわかる」、と、そんなときに、前段階の認識が「aufhebenされた」と言うわけなんです。大きく脱中心化され、価値を減じられたけれども、でも保持されているというわけで。

 ということですので、その譬えの意味は、実は「蕾も花も実も、それだけでは植物の全体ではない、それらが交代するサイクル全体こそが、その植物の全体像である」といったあたりです。

 このへんの説明で、実は別のところに書いた「仮面ライダー編」てのもあるんですが…すいません、ちょっと見つからなくて。

 いちおう大学院でヘーゲル読みをやらかしていた者です。泣かされました。はい。

 まず、「実はヘーゲルは《正・反・合》という言葉は使ってない」という事実がございます。それに近いことを言っているのは、むしろフィヒテではないかと思います。高等学校の倫理の教科書などでは、わかりやすさを追求してのことか「正・反・合」としていますが。
 そして、「ヘーゲルの弁証法って何?」という問題に答えるのは、やっぱり簡単じゃありません。彼の『論理学』でも、大まかに「移行」「反省」「展開」と、3...続きを読む

Q弁証法

弁証法を学びたいのですが、オススメの本を教えて下さい。

Aベストアンサー

50年以上の昔になりますが。当時の、文革真っ最中の中国で。子供たちに、学校で何を学んでいますか?
と質問すると、皆、口を揃えて。唯物弁証法を学んでいます。と答えていました。日本のマスコミは、批判的
嘲笑的、と思える報道をしていたようですが。

中学生だった私は、友人に
「おい、日本の学校は知識を教えているだけだが、むこうは、考え方、を教えているぜ。
このままでは、俺たちが大人になる頃には、中国人と日本人の知能の差は大人と子供の差、なってしまうのじゃないかな?」と話したことがあります。友は「特定の考え方は教えず、自由に考えた方が、将来は伸びるんじゃないかな・」と言っていました。現在、日本人の方が中国人より頭がいい。とは言い難いものがありますが?中国人の方が賢いとも言えない、弁証法思考は放棄されているようにも見えます。
ヘ-ゲル以降、ドイツ人は明らかに頭が良くなった?とはならなかったようです。
弁証法を学ぶの本と言われれば、は、ヘ-ゲルの歴史哲学、マルクスの、形而上学批判、資本論、となるのてでしょうが。オススメ?かどうか。資本論24巻を本棚の飾りにしていた。私たちの世代にも、弁証法思考が出来る者は希であり、社会が否定し、させない。ものでもあります。
ドイツ弁証法は、マルクスが、知恵を台無しにした、と言う。形而上学に対する弁証法、であり。
反形而上学、反ユダヤ思想、の意味があり、間違うと、ナチズム、アウシュビツシュの惨劇に繋がっていないとは言えないものです。
オススメ?の弁証法は、東洋思想であり、弁証法とは、諸行無常、あらゆるものに常はない、
すべては変化してゆくものである。という考え方なのです。
諸行無常という考え方は、釈迦以前のインド哲学、バラモン思想の考え方であり。諸行、世界はどう変化してゆくのかを考えたのが、反バラモン思想としての、釈迦の思想となります。
縁起の理法、因縁の理法、とか言われる釈迦の弁証法思考になります。
すべては、縁によりて起こる、因×縁=変化した因×新たな縁=起こり続け事象。
という考え方になります。
釈迦と同じ頃、同じ弁証法思考をしていた者がもう一人います。古代中国の「老子」として伝わる書、の著者(の一人?、)です。
「老子」も釈迦の仏教がそうであるように、理解できていない後の者による創作、明らかに、考え方が違う、考える必要のない、評価、判断、を求めるだけの、形而上学的文章がまぎれこんでいるようです。
老子を理解するには、道(とう)道にして常の道にあらず・・の一章と
人々は善は善であると考え、善が悪であることを知らない、美は美であり、美は醜である事を知らない・・の2章だけをかんがえればよい。と言えるでしょう。
しかしその部分が、かつて理解出来た者が一人もいない難解な哲学、と言われる部分でもあります。
ツ弁証法は考え方であり、考え方は、繰り返し鍛錬することによってのみ、自分の脳に組み込まれてゆくものであり。本を読んで、知識として記憶してもあまり意味はありません。
それより、弁証法思考の宝庫でもある、数学や物理学の考え方を学び訓練するのが、近道、本道、ではないでしょうか。本道を外れた事を言いますとと、囲碁、をやられたらどうです。囲碁、の考え方は、唯物弁証法、そのもの。と言えそうです。
知勇学か高校の三角関数に、正弦定理、むというのがありましたよね。
まず3点を直線で結ぶと3角形が出来ます。また、その3点を通る円は一つしかない。
その円の内側で三角形を動かすと、底辺が大きくなると、頂角も大きくなり、底辺が小さくなると、頂角も小さくなる。つまり、一つの円という単位の中で起こる三角系の底辺と頂角は一体となって変化する。
底辺×頂角=一定 となる。それが、事象、変化の起こり方である。というのが釈迦や老子の考え方、なのです。
a/sinA=一定=円の直径 というのが。正弦定理でしたよね。

物理学の力学、電磁気学、気体の法則。などの物理公式はすべてといえるほど、
変化するもの×一体となって変化するもの=起きること=一定 
つまり。a×b=c=一定 あるいは、そう因数分解出来る形式になっているのです。

実は、私のせいか、パソコンのせいか、相談箱に繋がらなくなり。良い機会だ時間の無駄使いは止めよう。
とも思っていましたが。今日、Goo,に接続し、試しに回答しました。そういうことで失礼しました。




数学に

東洋より、2500年遅れて、やっと登場した。東洋思想。とも言えるのです。

50年以上の昔になりますが。当時の、文革真っ最中の中国で。子供たちに、学校で何を学んでいますか?
と質問すると、皆、口を揃えて。唯物弁証法を学んでいます。と答えていました。日本のマスコミは、批判的
嘲笑的、と思える報道をしていたようですが。

中学生だった私は、友人に
「おい、日本の学校は知識を教えているだけだが、むこうは、考え方、を教えているぜ。
このままでは、俺たちが大人になる頃には、中国人と日本人の知能の差は大人と子供の差、なってしまうのじゃないかな?」と話したことがありま...続きを読む

Q弁証法について

--最近、弁証法に関心を持って勉強しようとしているところです。若き頃は、自称マルキスト達から弁証法について聞かされ、煙に巻かれていました。ところが、最近、弁証法について考えるに、これはただの問題解決のための方法にすぎないのではないかと思うようになりました。
問題解決の方法としては古来より試行錯誤法があります。どちらも、有力な方法として意識的に使用されてゆくうちに、試行錯誤法なり弁証法なりの名がつけられたものと推測されます。
 試行錯誤法の場合、考えをたくさん思いついて、それらを全部試せば、より有効かつ精度の高いものになるはずです。ところが、それには時間がかかります。それに、直感的に、また経験的にこのやり方はダメだとわかるものまで試してしまうことになります。
 弁証法であれば、全部試さなくとも、最初の時点で有効な考えが大体絞り込めるのであまり時間をかけなくてもよいと言えます。ただし、思いこみや偏見が混入する余地があるように思います。
 結局、どちらのやり方にもそれぞれにふさわしい局面があるのではないかと思います。弁証法で説明すると結果的にうまくいくような場面においてのみ、弁証法がうまく働くというふうに感じています。逆に結果的にうまくいかないような場面において使うと、粗雑で強引なものになったり、場合によっては詭弁に堕するのではないかと思います。この理解で正しいでしょうか。

 もう一つ、問題解決が現実になされるためには、現実の日常生活のレベルや社会生活のレベルの問題でなければ解決はあり得ないと思います。よって、神とかかわることや、人間の持つ不変の理性(ヘーゲル的な意味での)といったものを問題解決の方法とで、つまり弁証法で扱うことに意味がないのではないかと思うのですがいかがでしょうか。
 以上の2点についてご教授願えればありがたいです。また、それ以外の論点でおかしな点があればご指摘をお願いします。

 それと、問題解決の方法でもっと有力なものがあるようなら、簡単に紹介して頂けるとありがたいです。

--最近、弁証法に関心を持って勉強しようとしているところです。若き頃は、自称マルキスト達から弁証法について聞かされ、煙に巻かれていました。ところが、最近、弁証法について考えるに、これはただの問題解決のための方法にすぎないのではないかと思うようになりました。
問題解決の方法としては古来より試行錯誤法があります。どちらも、有力な方法として意識的に使用されてゆくうちに、試行錯誤法なり弁証法なりの名がつけられたものと推測されます。
 試行錯誤法の場合、考えをたくさん思いついて、そ...続きを読む

Aベストアンサー

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7863599.html
での回答を読み返してみたら、あまりに不親切だったので、こちらにも回答しておきます。

「弁証法」といっても、その根幹にある「相手の批判・反論を引き受け、自分の主張の水準を変えていく」という考え方は、わたしたちにとって、別に特殊なことでもなんでもないんです。

このあいだ、イギリスのティーン向けドラマでこんな話を見ました。
十代のメタラーの男の子が恋人の父親に、結婚の許しを求めに行くんです。
「お嬢さんを愛しています。結婚させてください」
すると、お父さんはその男の子の、いかにもメタラーという革の上下、鎖ジャラジャラ、長髪という人相風体を見て「どうやって生活していくつもりなのか。苦労をすることがわかっているところに娘はやれん」とつっぱねた。

そこでドラマでは、ふたりは友だちの助けを得て駆け落ちするんですが、ここは弁証法的解決手段とはいえません。仮に、その青年が、自分の将来の人生設計を恋人のお父さんに示すとする。経済的な問題に関しての自分なりの対策も盛り込んである。これは弁証法的な思考です。

ドラマでは、逆に両親の方が、自分の娘が恋人を含めて多くの友だちに愛されていることを知って譲歩するのですが、これもまた弁証法的思考に基づいています。つまり、当初お父さんが考えている「正しさ」は、経済的安定や社会的ステイタスにあったのですが、一連の出来事を受けて、お父さんは自分の考える「正しさ」の枠を広げたわけです。

実際のドラマの結末も、弁証法的です。さんざんドタバタしたあげく、主人公たちは自分の若さ・未熟さに気づいて、結婚は繰り延べる。これも「愛」こそ「正しさ」である、という水準を、社会的成熟や親に対する理解にまで広げているわけです。

このように、わたしたちが合意に至るプロセスというのは、多くの場合、弁証法的な思考を含んでいます。

ただ、ここで注意をしてもらいたいのは、ドラマの例でもあきらかなように、どちらも「正しさ」を求めるために弁証法を道具として使っているわけではないということです。

そうではなくて、相手の主張に耳を傾け、自分の考えが一面的・独断的であったことに気がつき、合意に至るという一連のプロセスが、結果として弁証法的になっている、ということです。

> 問題解決のための方法

とありますが、多くの場合、わたしたちが問題に直面したとき、「弁証法的解決」なんて悠長なことは言っておれず、むしろ「何から手をつけたら良いのかわからない状態とは、なんでも良いから手をつけたほうが良い状態である」(森博嗣『つぶやきのクリーム』:これは思想書ではなくて、エッセイです。昨日読んだところにありました)ということになっています。

原発の問題にしても、憲法改正の問題にしても、「どう考えることが正しいか」と言っていられるのは、わたしたちが少なくとも直接の当事者ではないからです。わたしたちの日常に突発的に起こるトラブルの解決には、議論は役に立ちません。確かに、うまくいって振り返ったのちに、ああ、あのとき自分が自分の主張を曲げて、Aさんの判断に従ったのは正しかった(弁証法的だった)と跡づけることはできますが、まさにその渦中にあるときは議論より、解決に向けた行動が求められるはずです。

議論というのは、わたしたちが他者と意見を交わし、それが単なる情報交換にとどまらず、自分の意見に対して相手の積極的な同意を求めようとするときに使うものです。そのとき、先の回答でも書いたように、わたしたちはみな「正しさ」を求める、という思考の癖を持っていますから、相手に受け入れてほしい主張(結論)を支える証拠や理由をもあわせて提示します(前提)。

おそらく質問者さんが「弁証法」という言葉を使っておっしゃっておられるのは、たとえばヘーゲルの言う「弁証法」などのことではなくて、前提が真なら結論も真となるように構成された演繹的な議論についてなのではないか、という気がするのですが、この演繹的な議論なら、その妥当性は形式から判断することができます。

こうしたことについての本は、たくさんありますのでぜひご覧になって下さい。手元にあるのは、齋藤了文・中村光世『「ただしく」考える方法』という本なんですが、別にそれに限らず、本屋さんか図書館の「論理学」の棚でいろいろ見て、自分の問題意識にぴったりくる本を探してみてください。

以上、参考まで。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7863599.html
での回答を読み返してみたら、あまりに不親切だったので、こちらにも回答しておきます。

「弁証法」といっても、その根幹にある「相手の批判・反論を引き受け、自分の主張の水準を変えていく」という考え方は、わたしたちにとって、別に特殊なことでもなんでもないんです。

このあいだ、イギリスのティーン向けドラマでこんな話を見ました。
十代のメタラーの男の子が恋人の父親に、結婚の許しを求めに行くんです。
「お嬢さんを愛しています。結婚させてください」
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