好きな「お肉」は?

ある組織があった時に、その組織の構成員が何かしらの条件で支配階層と支配される階層に分かれることがあります。学校においてクラスのカーストが支配層と支配される階層に分かれた時、支配層の人々はずっとその立場に居続けたいと思うし、同じ層の人たちと仲良くして友情を深めたいと思うでしょう。そのためには、支配階級は共通の敵を作ることによって絆を深めます。支配層は支配される層の者を共通の敵として仲間と共有し、共通の敵を協力して叩くことで団結力を深めて支配層の絆・友情は深まるのです。「自分たちでない者」を明確に認識して強く共有し、共に協力して排斥することが「自分たち」というグループへの所属感・一体感を増加させます。

残念なことに、このような手法は古今東西様々な状況で使われてきました。かつてナチスドイツにおいてドイツ人たちはユダヤ人たちを共通の敵とみなすことによって強く一致団結したのです。またかつて共産主義という思想を持った者たちは金持ちたちを共通の敵とみなすことによって強く一致団結しました。そしてかつて日本は「鬼畜米英」などという標語を掲げることによって強く一致団結しています。このように特定のグループが別のグループの者を敵とみなすことで団結する例はいくつもありました。そしていじめが発覚してそれが報道され、社会問題化すると次はそれを知った人々がいじめっ子を叩くようになります。そして叩く者たちは皮肉にも共通の敵によって団結するという論理を実証してしまっているのです。このような野蛮で無益ないじめのような出来事をなくすためには、我々の社会は個々人が自分の意思で自分の行動を自由に選択して自由な考え方や発言が許された「開かれた社会」でなければならないのではないでしょうか?

A 回答 (15件中1~10件)

社会とは、言うなれば囲いてなことだから



囲いがない社会だと

みんなそれぞれ、思い通りに動いてしまい

秩序が保てなくなりますもんね

社会てな大きな囲いのなかに
小さな社会がさらにつくられて

その小さな社会では、大きな社会よりも苛烈な囲いが出来たりもするので

開かれた社会って話になると

囲いのない社会みたいに感じてしまうんですよね

社会てな秩序の変容が
個人の自由意思に影響を与えすぎてるから

共通の敵や生贄みたいな手法が使われるのかと思ったりもしますよ

個人がだいじたけど
個人をまとめる囲いもなければ

個人として成立しなくなるんじゃないでしょうか?
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>いじめををなくすためには



いじめた側をパージし、再教育する仕組みが必要。
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日本にイジメが多い原因はこれです。


https://japanreset.blogspot.com/2020/05/blog-pos …
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いじめに加わったものには鉄拳、首謀者には金蹴り。



喧しく怒って往復ビンタ。いじめはするな いじめはするなよ!!。
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♪ アース役は つらいよ ♪



と言うようにすればよいと考えます。なんなら: 

 ♪ けっこう毛だらけ ねこ灰だらけ ♪

とつけ添えてもよいです。


本人が言いづらいなら 周りの者たちが言う。

いえ 要するに全国的に大合唱すればよいはずです。いや 全世界的に。

ブリィ役ないしガミガミ役のひとも 少しは反省すると思います。
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主題に答えてないので


主題に対する回答も書きますね

いじめをなくす為にはとあるけど
無くすことって不可能かと思いますよ

人間の攻撃性や競争心などなど
そういった精神的な作用から

いじめって発生してて

攻撃性を無くすこともできなかったら
他人と争うことを諦めたりする事も出来なさそうですもんね

いじめを行うものは抹殺するってな
厳しい法律を作ったとしても

人間の悪意や悪知恵は法律なんかを凌駕してしまうので

例えば

いじめを行う者は抹殺するってな法律が出来たとしても

いじめを行うような、悪意や悪知恵を持ってる人は

いじめられっ子が、いじめっ子であるかのように偽証して

なおかつ、その偽証に従う集団なんかも出来てしまうと

いじめをなくすための厳しい法律が、いじめられっ子を貶めるための法律になってしまって

いじめられっ子が抹殺される世の中になりますもんね

いじめを無くすためには
( ̄~ ̄;)
共通の敵や生贄などを造らせない
てなのはあるけど

共通の敵を造らせないように支配したり
生贄を出さないように努力したりする人達は現れるとは思うけど

人間の悪意って底無しでね

支配しようとする人や、努力しょうとする人を!

集団の力で、共通の敵にしたり!生贄にしたりとしますもんね

法律でも悪意や悪知恵にはかなわない!

ものすごい権力を持つ支配者がいたとしても、その支配すらおとしめようとするのが
人間の意識や知恵でもありますもんね

悪意って聞くと、悪がつくから悪いことだと認識するけど
善悪ってな判断を保留にすると
たんなる意識の意ですもんね

悪知恵も同じ理屈で単なる知恵だとも言えてしまい

いじめを無くすためには
極論すると、人間の意識や知恵を奪うしか無いのかもしれなくて

人間から意識や知恵を奪ってしまうと

それって( ̄~ ̄;)すでに人間ではなく
別な生き物だとなりそうですもんね


こんな回答してるけど
ワシも個人的には!いじめはアカン
世の中から無くなって欲しいとは思いますよ
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次のごとく考えます。



【Q:イヂメの理論】 

1. 《第三項(犠牲)排除の理論》があります。

自分たちの集まりの中から 《異質〔と勝手に見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。

今村仁司が『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)で理論づけました。
 
この理論を イヂメの理論として問いたいと思います。


 
§ 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。

2. 人は 存在としてまた人びととの関係として 社会​的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。しかも・しかしながら その自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向があると。

3. 簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは 互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろん間違った道筋であるというも​のです。

4. 一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ一定の一人の人を除け​者にしてでも。・・・




§ 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。

5. この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。らしい。

6. そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけでは まだ相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。




§ 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。

7. そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持​とうとする。この・誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。




§ 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。

8. 追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。
このときその〔小さな単位体としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。

9. つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現するということらしい。そうしてこそ​ 人びとは安心して安定した《仲良し》状態となり その《秩​序》を楽しむことが出来るのだと。

10. このような傾向を人類は 悲しいかな残念なことに 持​っているのだろうか?

 


§ 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが希求し成しうるとも説いて​います。

11. それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。

12. また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行》​現象においても その反面にはつねに起こると思われるように それ・つまりむしろ《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてくれるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。

13. 非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れるであろうと。



 
§ 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。

14. 第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。
 
15. 人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度はぎゃくに偉大な犠牲だったと見なし それにむしろ聖性を付与する。それに​よって なお人びとは 安心するのだよと言って誰かがその仕組みを考えついたらしい​。つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは崇めるようになる(する)のだと。

16. したがって今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。
 
17. このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。人びとは万々歳の安心を得るということらしい。
 
18.(菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかも左遷されたらしく その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが 《聖なる神》としてまつられることになったというからくりであるらしい。これを画策した《頭のよい》人間がいるらしい)。
 
 


§ 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。

19. なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対して若し否定するような動きがあったなら​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということであるらしい。世の中 それでこそつり合いがとれるのだと。
 
20. 反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその新たに現われた《異端分子》を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。
 
21. 一たん聖化され人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリスト・イエスなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり その勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなる。そうなれば 明らかに戦争にまでも発展させる。​ときに社会はこぞって容易に ひとごろしなるイヂメに飛びつくことができる。クルーセイドで兵器産業もうるおう。



 
§ 8 《自由への変身》は 異者の受容によって可能か?

22. ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いであろう。

23. その《聖なる者》と規定しこれを頭にいただくか否かで合意した取り決めじたいがすでに 除け者をみづから作っていたことを証ししている。

24. アマテラシテ(象徴)の場合は 過程がぎゃくであろう。みづから望んで初めに《聖なる除け者》となったのだ。人びとにそれを受け容れさせた。(くにゆづり)。

24-1. 崇神ミマキイリヒコイニヱのイリ政権においては なかった。応神ホムダワケのタラシ政権から その《アマアガリ》が始まったと見られる。

25. 人びとは この社会的な仕組みをむしろアース役となってでも支えたのである。縁の下の力持ち(中間層)を再生産しつづけるからくりであり これを明らかにし この呪縛を解くのは そもそもは むしろお二階のアマテラスびと自身のはずだ。人間的な人間であるならば。
 
26. だから 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも――まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。

27. 内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣にからんだ承認の欲望のな​せるわざである。


 

§ 9 どこまでも《話し合い》によるしかないだろう。

28. 模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は おそらく強いの​であって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかも分か​らない。(関係の絶対性 ≒ 社会的動物)。

29. ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?

30. 仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。

31. ならば互いに 話し合う。だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(アマテラスお二階さんも 万機公論に決すべしと言う)。

32. (もっとも 待ったなしの事情があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐え得ない様​子であるなら しばらくは無理である)。

33. (また その話し合いの席に坐ることは この上なくとうとく大事なことであるが ねがうらくは かたちだけではなく 中身が欲しい)。

34. だから話し合う。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。


☆ 自由な話し合い(批判)をどうぞ。今村仁司の仕事をもっと顕彰してもよいのではないか。具体的なイヂメの場へと迫っていける方は もっとおしえて欲しい。すすめて行って欲しい。
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そんな物は、無い。


森羅万象、この世の全ては、対のせめぎあい
ゆえに、確定出来ない。
ゆえに、極めると逆転する。
ゆえに、矛盾で出来ている。
ゆえ、人は、誰、何も悟れ無い。

これを、陰陽逆転の法則と呼ぶ事にした。
これは、究極の自然哲学で有る。

これは、宇物物理学の、
宇宙時間方程(T)=(M±)±(E±)とも融合する。
これは、相対性理論と、量子論の融合を、も示している。

この理論が理解出来れば、タイムマシンが物理学で、作れない事も、理解出来る。
なにより、ビッグバンの前の、無から有が生まれた事が、理解出来る。

宇宙は、有と無のせめぎ合いで有る事も理解出来る。


BY 逆転地蔵

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人は一人一人違います。


また自分が得意な分野を基準にして優劣をつけたがるものです。
あいつと対等に扱われるのは我慢できない。
そう考える人は意外と多いです。
そんな人が自由に行動発言したら収拾が付かなくなります。
社会的な枷があるから虐めで済んでいるとも言えます。

いじめを無くするには個性を徹底的に潰して均一化するしかない。
私はそう考えています。
生きづらい代わりに虐めは極小化できるはずです。
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「自由な意思による行動」なんてものは 古い脳の欲望で動く人間だもの。


「暴虐」にしか なりえないだろう。

千人いれば千通り 万人いれば万通りの自由がある。
「俺のものは俺のもの お前のものも俺のもの」というジャイアン主義に基づいての行動を許せば どうなるかは火を見るより明らかだ。

故に「自由」は明確な「目的」の前に制限すべき。

しかしながら できるだけ多くの人間に 「自分は自由だ」と思わせることは 極めて大切だ。
それが今現在の人間という種族の 精一杯の「望む社会」だろう。
そしてそういった社会を維持する方法が「○○主義」と呼ばれる。

「開かれた社会主義」であるのなら 「評価」に焦点を当てるべきだと思う。
AIなど使えば 将来的には可能かもしれない。
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