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どうして日本だけアヘン漬けにならなかったんですか?

「どうして日本だけアヘン漬けにならなかった」の質問画像

A 回答 (12件中1~10件)

戦後まもなく、しゃぶ漬けは法令により禁止されたからです。

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この回答へのお礼

戦後?

お礼日時:2020/07/25 14:30

中国でアヘン戦争が起こってた時期、日本は鎖国の真っ最中。


とにかく日本を開国させようということで、正式な使節団が交渉。
倒幕か幕府側かの問題で、武器が売れる。アヘンは後回し。
また、金と銀の交換比率でミスったため、銀貨を日本にもってきて金貨(小判)と交換するだけで一財産できる。アヘンなんかより儲かる。
日本相手に設けるのに、アヘンは必要なかったという結論。
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この回答へのお礼

日本は鎖国してなかったですよ?
カトリックを追い出しただけで。

お礼日時:2020/07/25 14:32

つい最近NHKでやっていましたが、当時の日本は戦国時代で武士の戦闘能力が高かったからです。


まともに戦ったら、相当な苦戦をすると思っていたようです。

スペイン、オランダなどの西欧諸国は中国の領土化を目指していましたが、大国過ぎて正面からの戦いは出来ませんでした。
秀吉が挑戦に出兵したのも、その背後のスペインなどの後押しがあって中国制覇を目論んでいたそうです。

家康が天下を取って太平の世になってしまったら、武士の活躍の場が無くなり、傭兵として東南アジアの侵略に手を貸していたそうです。

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/i …
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この回答へのお礼

秀吉はスペインとの共同作戦を断って単独で明国を攻めたんですよ?

お礼日時:2020/07/25 14:36

すいません、覚醒剤と勘違いしました。

申し訳ございません。
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鎖国>外国との交易を長崎に限定してますから、実質的鎖国。


幕末になると、外国船が日本近海に姿を見せたら、追い返せって命令まで出してますから、外国から見れば、鎖国って言葉がピッタリでしょう。
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この回答へのお礼

長崎以外にも、対馬・薩摩・松前の3つの外交窓口を開いていましたよ。そこから中国、東南アジア、朝鮮と貿易をしてました。

お礼日時:2020/07/25 14:49

1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。



鎖国の影響もあるでしょうね。

アヘン戦争は1640年から1642年となってますので。

アヘン漬けは当時大国だった清(今の中国)とはマトモに戦争しては勝てないと思ったイギリスが相手を骨抜きにする作戦で蔓延させたのです。

当時、日本以外の国は植民地を探して色々してましたからね。
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この回答へのお礼

鎖国という言葉は文献には出てないですよ。長崎以外にも、対馬・薩摩・松前の3つの外交窓口を開いていましたしそこから貿易したり世界の情報を得てました。アヘン浸けにしなくても潰す事が出来たけど大量生産したアヘンを買ってくれるなら売り捌けと思ったと思いますよ。キレたら潰せば良いと。それぐらいの認識かと。

お礼日時:2020/07/25 14:54

鎖国>松前は、蝦夷のアイヌたちとの交易。

対馬は、中国朝鮮のみ、本当は長崎まで来るのが規則だけど、バレなきゃいいと。薩摩は密貿易。琉球は日本と中国と両方の属国みたいな微妙な立場でした。
 
鎖国>確かに当時の文献にはでてません。幕末ペリー来航からしばらく後、開国の反対語として広まったようです。
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これは諸説有ります。



一つは、英国の事情による、とする説です。

明治維新は英国と薩長などがタッグを
組んで興したものです。

せっかく薩長に天下を取らせたのですから
英国が日本をアヘン漬けなどにする訳が
無い、とする説。



一つは、上海でアヘン漬けされ、奴隷化されている中国人を
目にした高杉晋作らが、このままでは
日本もこうなる、として明治維新を興したの
ですから、アヘンを厳しく禁じるのは当然であり
その結果だ、とする説。

そういえば、今でも日本は麻薬には厳しい
国ですね。

マラドーナでしたか。
麻薬をやっている、というので日本が入国を
拒否し、ブラジルサッカーファンの怒りを
買ったことがありました。
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「鎖国」という語は、江戸時代の蘭学者である志筑忠雄(1760年〜1806年)が、1801年成立の『鎖国論』(写本)において初めて使用した。


1690年から1692年にかけて来日したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルが、帰郷後にアジア諸国に関する体系的な著作『廻国奇観』の中で日本についても論じ、死後『日本誌』(1727年刊)が編集され英訳出版された。
そのオランダ語第二版(1733年刊)中の巻末附録の最終章に当たる『日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理』という論文を、1800年頃に長崎の元阿蘭陀稽古通詞であった志筑忠雄が訳出した。
その際、あまりに論文の題名が長いことから、翻訳本文中の適当な語を捜し、『鎖国論』と題した。
この「鎖国」はその際に新造された語だが、本は出版されず写本として一部に伝わっただけで、「鎖国」という語も広まらなかった。
したがって、いわゆる「鎖国令」という語は明治以降の研究者による講学上の名称で、実際にそのような名称の禁令が江戸時代に発せられたことはなかった。
ですので当時の文献には載って無いものです。
後に1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ様になったって事です。

諸説色々ありますので色々とご自身でも調べてみれば回答者の書いている事も出てきます。

人の受け取り方も十人十色だから諸説色々あるのです。

質問者様のお礼を見てるとご自身の考えがお在りの様ですが、答えてる方もこんな話がありますよ、こんな文献もありますよって話なので、お礼はお礼で終わらせて、補足で御自身の考えを足して頂くのが一番良いかと思います。

でないと、答えてない見てるだけの人もタダの面倒臭い奴との認識になり答えが付かない様になりますよ。
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この回答へのお礼

貴方は聡明な人ですね。確かにそうかも知れません。ありがとうございます。

お礼日時:2020/07/25 15:48

英国がインド産のアヘンを売りつけたのはあくまでも清国であって、東南アジア諸国で売られたアヘンも、イギリス領マラヤやオランダ領東インドのスズ鉱山で働く中国人労働者が対象でした。

 すなわちアヘン漬けになったのは、中国(清国)だけということです。また、アヘン戦争時日本は英国との交易はほとんどないので、アヘンが入るルートもありませんでした。 更に、日本はオランダからアヘン戦争の詳細やアヘンの功罪に関する情報をもらっていたので、早い内から「アヘンの輸入は厳禁」という認識ができ、英国を含む諸外国との通商条約締結に当たっても「アヘンの輸入は厳禁」と明記されたというわけです。
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この回答へのお礼

なるほどそういう事だったんですね。

お礼日時:2020/07/25 15:57

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