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徳川家康の策に伊達政宗がやられ、大軍勢の前に仲間を助けに行けずに
タヌキめ!

といったといふ話はどこを探したらありますか?

質問者からの補足コメント

  • 同年9月、関ヶ原の戦いが勃発。西軍の上杉家重臣直江兼続が指揮を執る軍が東軍の最上氏の領内に侵入すると(慶長出羽合戦)、東軍に属した政宗は、最上氏からの救援要請を受けて叔父・伊達政景が指揮する3,000の兵を派遣し、9月25日には茂庭綱元が上杉領の刈田郡湯原城を攻略した[注 6]。関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わり、直江兼続もまた最上義光に敗れて米沢に逃げ帰ると、政宗は自ら兵を率いて伊達・信夫郡奪還のため国見峠を越えて南進し、10月6日に福島城主本庄繁長の軍勢と衝突する。宮代表の野戦では威力偵察に出た大宝寺義勝(繁長の子)が指揮を執る上杉軍を破ったものの、続く福島城包囲戦では繁長の堅い守りに阻まれて攻城に失敗、さらに上杉軍の別働隊に補給線を断たれたため、翌日には北目城へと撤退した(後世の軍記物に見えるいわゆる松川の戦いのモデル)

      補足日時:2020/08/20 07:58

A 回答 (1件)

両者の直接対決はなかったような、、


大阪の陣の時、伊達家の指定された位置は、万が一にも大阪側に寝返りできない絶妙の位置でした。大阪城内に居た切支丹たち、伊達家の陣に逃げ込みましたが、そのまま行方不明。助けるどころが、、
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