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徳川家康の正室・築山殿と信康の正室・五徳は、なぜ仲が悪かったのですか?今川家と織田家の対立ですか?それとも姑と嫁だからですか?

A 回答 (6件)

発端は五徳が男子を産めないため、築山殿が何人かの娘を信康の側室に迎えさせたこと。


当時は、少なくとも徳川家に関しては、側室をどうするかは正室である五徳に権限があったことから、本来は五徳が側室を迎えることや誰を迎えるかを決めるのが本筋だ。

おそらく信康も築山殿と同調していたのだろう。五徳としては、男子を産めない引け目もあり、同意せざるを得なかったのだろうが、相当口惜しい想いをしていたことは間違いなさそうだ。

こうして五徳と築山殿&信康は不仲となり、やがて決裂する。
そしてこの問題は、信長と家康が介入したが収まらず、徳川家臣団の派閥化を生むなど大問題に発展していくことになる。

そしてこの問題を大きくしたのが、築山殿が送った主な側室2人が元武田家家臣の娘だったことだ。ここから、築山殿と信康が武田家側に寝返るのではないかと云う疑惑まで登場することになる。

最終的には、信長の怒りが頂点に達して築山殿は家康に殺され、信康は切腹という幕切れとなった。
家康としても、築山殿に無断で子を産ませたお万の方問題で、築山殿に対する見方が冷めていたのかもしれない。

おそらく、築山殿は武田と密通してなどいなかったのだろう。あくまでも信康に男子を一刻も早く授けたいという一心でやったことなのだろう。だから強要された自殺を拒んで逃げようとして首を撥ねられてしまった。

合掌。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2023/05/26 10:37

姑の築山は、今川家の名家の出で、織田は実家を滅ぼした敵。


信康の妻、徳は仇敵・信長の娘。
実家の力関係がそのまま嫁姑の対立になったのでしょう。
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かねがね、武田家くノ一(女忍者)の頭領 望月千代女の暗躍に依る物と


思ってました。
「どうする家康」では、望月千代女の暗躍で描かれているので、いよいよ
来たか~!待ってましたって感じです。

武田家くノ一は美人でないと成れなかったそうです,古川琴音さんの
怪しげな、くノ一振り、はまっていますね、最高です!!
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基本的には嫁、姑の対立のようですね。


wikiの五徳にはこうあります。

--以下部分引用---

永禄10年(1567年)5月27日、三河国の徳川家康の嫡男・松平信康に嫁ぐ。天正4年(1576年)に登久姫、天正5年(1577年)に熊姫を生んだ。しかし、いつまでも嫡子が生まれぬのを心配した姑の築山殿が、信康に元武田氏家臣の浅原昌時の娘や日向時昌の娘など、部屋子をしていた女性を側室に迎えさせたため、この頃から築山殿と徳姫が不和になったといわれている。

また、信康とも不仲になったともいわれており、これを示す史料として、松平家忠の『家忠日記』の中に、家康が信康・徳姫の不仲を仲裁するために岡崎へやって来た、と記されている
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築山殿はご存じの通り今川家にゆかりのある女性です。ただ彼女は徳川家康が織田信長と組んだことにより、帰るところを失ってしまいました。実際に彼女の両親は今川氏直の怒りをかい、自害に追いやられています。

そうなると頼るのは我が子である信康しかいないのですよ。そのため信康の地位が盤石になるように何としても男子を産んでほしかったのでしょう。ところが五徳はそれに対して非常に立腹したようですね。これが嫁姑の対立になったのでしょう。

信康は切腹、築山殿は殺害という悲劇的な結果を招きますが、これは五徳が父である信長に訴え、激怒した信長が家康に二人の処分を要求したといわれています。しかしこの話は江戸時代になって流布しています。同時代の資料にはこれをうかがわせる資料はありません。

加えて信長は家康を非常に厚遇しており、家康のおかけで東からの脅威を考えずに美濃攻めをすることができました。そんな家康に対して妻子を処分するような要求をするわけがありません。徳川が今川や北条と組めば天下統一などできるはずもないからです。

おそらく神君家康公に忖度した伝説なのでしょう。
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築山殿は織田信長に討たれた今川義元の姪。



信康の正室・五徳は織田信長の娘。

となればうまく行くわけないです。
おまけに今川義元が討たれたのは桶狭間で、人質の徳川家康の裏切りがあったからと言うのが通説。

単に嫁姑などの愛憎だけではなかったでしょう。
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その理由は諸説あり、はっきりわかっていませんが、伝承や小説、ドラマなどでは、主に二つの説があります。



一つは、築山殿と五徳が仲が悪かったのは、家康と信康の不和に由来するものというものです。実際に、家康と信康はともに今川家との戦いで活躍し、功績を残しています。しかし、家康はその後、今川氏の傘下に入った織田家と通じるようになり、信康との対立は深まっていったとされています。そのため、家康と信康の不和が、築山殿と五徳の仲にも影響を与えたとされています。

もう一つの説は、築山殿と五徳が仲が悪かったのは、姑と嫁の間の争いによるものだというものです。築山殿は、家康との間に12人の子供をもうけましたが、そのうちの一人が、五徳の夫である信康でした。そのため、築山殿は信康の母親の立場にあり、五徳は嫁という立場にありました。このような状況が、二人の間に対立を生んだとされています。

いずれにしても、築山殿と五徳が仲が悪かった具体的な理由については定説がなく、謎に包まれています。
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