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昭和28年生まれの父は、幼少期に米のとぎ汁を「ミルクだよ」と飲まされていたそうです。
せつこ、それミルクちゃう、米のとぎ汁や……。

場所は、愛知県のほどほどの田舎。
祖父は下駄職人で、復員後は陶器の工場で働いたそうです。
金持ちではなかったけれど、普通の家です。叔父は大学まで行っている。

昭和28年なんて、庶民の家はこんな光景だったのでしょうか?
米のとぎ汁をミルク代わりに幼児に与えた、という逸話を聞いたことがありますか?

なお、米のとぎ汁を飲まされていたのは次男の父だけで、長男はミルクをもらっていたそうです。
ちょっと虐待なのか……。

質問者からの補足コメント

  • 申し訳ないのですが、訂正・追記します。
    昭和28年生まれの父が乳児の時の話ではなく、幼児の時の話です。
    本人が記憶しているので、3歳にはなっていたと思います。
    なので、昭和31年より以降の話です。

      補足日時:2020/09/28 02:17
  • ミルクと書いてしまったために誤解を生んでしまいました。
    すみません。謹んで書き直します。

    ・幼児に対し
    ・牛乳の代用として
    ・昭和31年以降に
    ・米のとぎ汁を飲ませるのが
    ・一般的なことだったのか

    という質問です。

      補足日時:2020/09/28 12:27

A 回答 (19件中11~19件)

おも湯を飲ませることはあってもとぎ汁はないでしょう。


とぎ汁も熱すれば飲めるかもしれないけど、
親が飲んでたんで、ちょっと試した?
あったとしても時期は終戦直後の数年です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
貧しいとはいえそこまで?というのが疑問点なので、私の感覚と似た答えですね。
色々な意見が出て面白いです。たぶん正解はない話なので(ほんとのとこは祖父母に聞くしかない)当時の空気感や常識を漠然と掴みたいと思っています。

お礼日時:2020/09/28 09:36

60代後半の男性です。



親の話では、私も米のとぎ汁を与えられたとのことでしたね。
昭和20年代の後半です。

当時は粉ミルクというものは非常に高価だったんですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
当事者の方の発言は重みが違います。
それは乳児期に、母乳のかわりとしてでしょうか。
ある程度大きくなってからも続けられたのでしょうか。
ご自身で覚えておられない時期でしたか?
もう一度ご降臨いただければ幸いです。

お礼日時:2020/09/28 09:30

戦後1945年(昭和20年)以降はアメリカや外国からの食料援助によって、児童の欠食対策として徐々に給食は再開され、1952年(昭和27年)あたりからは食糧事情の改善により全国的に完全給食を実施することが可能となり、同時に給食の目的は「欠食児童対策」から「教育の一環」(食育)と位置づけられ、また「学校給食法」が制定され、財政力の弱い地方自治体でも交付税と補助金によって全児童への完全給食が可能となり、現在の体制が構築された[6]。



以上は、学校給食wiki

昭和27年には完全給食実施とあります。これより前25年には3年間の朝鮮特需があり昭和31年はテレビ放送(白黒)も始まります。昭和27年にはシラミ対策として学校で一斉にDDTを頭髪散布して欠食対策ばかりではなくなってきています。
https://twitter.com/oldpicture1900/status/979364 …
食糧事情は都市部と農村などの地域間格差もあり、さらには自治体間、各家庭の間にも事情の差があるため一概には言えません。

想像ですが、昭和31年のお父様3才の記憶とのことですが、記憶が正しいならあなた様の家庭はかなり厳しい方であったろうと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
助けになる情報です。
これくらい自分で調べなさいよという基本ですね……。お恥ずかしい。
私の予測もあなたと同じです。30年代に、そこまでの飢えが勤め人の家にあったのかなあと。
周囲より厳しい状況だったのかもしれませんね。

お礼日時:2020/09/28 09:25

父は大正13年生まれ


次男。
貧しくて母乳が出ず
米の研ぎ汁で育てられたそうです。
母が野良作業でいない時は
布に包んだ飴を、天井から
吊るし 赤ん坊の父は
それを舐めて生きていたそうです。

長男は、母乳。

28年なら まだ牛乳も高い時代。
栄養価が、あるのは分かっているし
戦後で、男だからって大事にされる訳でも無く
長男第一主義でしょ。
長男に跡を継いでもらうために
栄養価の高いモノを与える

幼児なら、兄のモノを欲しがるから
ウソを言って、研ぎ汁を与える。
牛乳は長男が飲むだけしかないから

じゃないのかな?
その頃は、冷蔵庫もないし、
牛乳は精製されてなくナマだから
腐りやすいんですよ。

高くて、少ししか買えない
じゃ、長男だけ
でしょ。
牛乳だけじゃなく、長男だけじゃなく
父親だけメインの魚がある。
他は魚のアラだけを食べる
なんて、昔の日本はザラでしたよ。
家長制度。父親一番。
次の家長は、長男だからね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。大正13年生まれなら、ありそうですね。
東北ではまだ飢饉も普通にあったような(うろ覚えですが)。
乳児を母乳がわりに米のとぎ汁で育てたという例がたくさんあるのは調べました。
戦後の貧困の中でもそれがあったというエピソードも、発見しました。

父の家も家父長制バリバリで、長男と次男は食事も違う内容だったそうです。昭和30年代なんてまだそんな感じだったのかも。

お礼日時:2020/09/28 09:22

昭和31年より以降でも同じですよ。

金持ち以外は。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2020/09/28 11:47

米のとぎ汁は普通だったでしょう。

そして長男は大切にする時代だったので、なんとかミルクを与えるのも普通かも。
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この回答へのお礼

それは普通だった家庭もままある、ということですね。
体験者などから聞いたことがありますか?
同い年の母、もう少し年上の義母や義父、嫁ぎ先の90代の祖母に聞いても、みな聞いたことがないと言います。父の家が一番貧乏ではあるんだけど。

お礼日時:2020/09/28 02:27

昭和28年は小屋、バラック生活です。

食料は配給
29年~30年に食い物が市場に供給されたのです
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この回答へのお礼

市場の回復が29年以降ということですね?
その辺のことを調べないといけないんですが、手っ取り早く逸話レベルでいいから誰かに聞いちゃお!と思ったのも、聞き方も間違いだったことに気づきました。
やっぱソースを求めないと、てんで話がわかりませんね。質問って難しい。

お礼日時:2020/09/28 02:09

米のとぎ汁を、汚れた水か何かだと思っていますか?


そもそも米をとぐ理由を知らないのでは?

米のとぎ汁を常温で置いておくと発酵し乳酸菌が増えます。乳酸菌って何かわかりますよね。ヨーグルトや甘酒の成分です。
今でも米のとぎ汁を飲む人もいますし、洗顔に使う人もいます。
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この回答へのお礼

何を言ってるんだ。

お礼日時:2020/09/28 02:06

貴族すら当時は食料不足だったからね

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この回答へのお礼

当時というのは漠とした終戦直後のイメージでしょうか。昭和28年前後のことでしょうか。
戦後の食糧危機は、昭和23年か24年には落ち着いていたと思うんですよね。
おもちゃや陶器のオキュパイド製品をアメリカに送ることを見返りに、占領軍が食料解放したはず。
28年なのにこれ?というのが疑問点です。

お礼日時:2020/09/28 01:42

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