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何故ローマ帝国は平民上がりの皇帝が続出したのでしょうか?
出自の良くないナポレオンは彼らを模範として皇帝になる事を目指したと聞きます。
当時は血統があまり重視されない時代だったのでしょうか?

A 回答 (5件)

無理に共通点を求めるなら


軍を指揮するためには血統よりも能力が重要
ということになるのかなぁ. ナポレオンの時代はフランス革命のごたごたで「血統」なんていってる余裕はないだろうけど... まあ平民から成り上がるって意味では別の人の方が適切かもしれんけど.

ローマの場合はアウグストゥス自身がある意味で「平民上がり」だし (ちなみにティベリウスとは法的な血縁関係しかないよ), アウグストゥスの時代でも貴賤結婚が認められて既に 4世紀になりなんとしてるから「血統」が名目的なものになってる.
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ローマ市民権保持者はローマ領内に暮らす総数のおよそ1割。


ローマ市民というだけで、日本で言えば江戸時代の武士並みのエリートだった。

最初の5代はユリウス=クラウディウス朝である。
これはカエサルとアウグストゥスに連なる血統である。

ネロの死後帝国は内乱状態に陥り3人の皇帝が短期間に現れては消える。
彼らも貴族でありそれぞれ属州総督の地位にあった。

内乱をヴェスパシアヌスが収めその後の3代をフラヴィウス朝という。
彼らは平民出身のローマ市民で、ここで初めて平民出が皇帝に名を連ねる。

ヴェスパシアヌスは軍団のたたき上げでその力量は広く軍団に知られており、さらに同僚で人望もあったムキアヌスの推挙も得ていた。
彼はエルサレム陥落の軍功をもって軍団をまとめ、それをもって内乱も鎮めてローマに凱旋した。

このようにヴェスパシアヌスは実力でもって帝位に就いた皇帝である。
もともとローマでは「力量」が重視される。
いくら名門の出で高貴な地位についても、力量が伴わなければカリグラやネロの憂き目に遭う。
ヴェスパシアヌスはこの点のローマ人の厳しい鑑定に合格し、以後も合格し続けたのである。

ローマ社会は最初から階級間の流動性が高い。
奴隷でも蓄えたカネや主人に認められて解放奴隷になれる。
解放奴隷になれば、当初は子の代、時代が下るとそこまで待たなくても市民権を取得できた。
第六代の王セルヴィウスも奴隷上がりといううわさがある。

解放奴隷が市民権を取得しても貴族にはなれなかったが、あらゆる役職への扉が開かれた。
これは「リキニウス法」でそう定められていたからである。
かつてローマでは貴族と平民の抗争が激しかった。
しかしその隙を突いて「ケルト襲来」が起こり、都市ローマは占領、徹底的に破壊された。
以後、持てる力の全てを投入できるよう、ローマはあらゆる役職をあらゆる階層のローマ人に開放し内乱の芽を摘み取った。
貴族の方が人脈や財力で有利だが、平民からもたくさんの要職経験者が生まれ、特にそういう人物をたくさん出した家系は「平民貴族」などと呼ばれたりした。

これは3世紀後半、蛮族侵入によるローマ体制の限界まで続く。
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1世紀末の五賢帝時代は前皇帝が後継者の資質を観て、統治に相応しいと判断して決めていたのですが、5人目以降、数代の世襲化の後に混乱期になってしまいました。



混乱期では力(軍権)を持っているものが帝位に就くこともあり、血筋よりも軍をどれだけ掌握しているかが問われました。
また、財力で皇帝を競売で落札し付いたものも居ました、血統は良かったようです。
血統的にご落胤を称して(血統はよく判らない)皇帝になったものもいます。

何がしかのバック(軍や金等)があって、ローマ帝国の皇帝に就くことは出来ましたが、長くその地位に在ったものは少ないですね。
軍人皇帝時代は特に軍という力により皇帝になるにはなるのですが、直ぐに反乱や内紛で命脈を絶たれることが多かったです。

帝権が安定するのは4世紀のコンスタンティヌス朝辺りまで掛かりましたが、東西の分割統治によりローマ皇帝と言っても、東西のどちらかの支配になります。
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ローマは最初王政で始まりましたが、すぐに王が追い出され共和制になっています。

ローマの皇帝制とは、王政とは全く違う「民主制度の枠組みの中での専制君主」なのです。

ローマで皇帝(エンペラー)になるには、次の要素が必要でした
・政治的軍事的な最高指導者である執政官に任命されること(ただし、執政官は常時2名)
・不逮捕特権など自己防衛権をもつ護民官に任命されること
・終身職である最高神祇官に指名されること
で、当初はこれに「カエサル家出身であること」がくっ付いていました。

しかし、日本でも豊臣秀吉が、家門を買って関白になったように「カエサル家」になるのは何とでもなるので、最初の三つを一人で保持したのが皇帝だったのです

だから革命後のフランスは民主国家なので王になることはできないため、独裁政治をするにはエンペラーになるしかなく、ナポレオンは政治と軍事の最高指導者(大統領と最高司令官)になり、不逮捕特権も得て、最後に戴冠式で教皇を差し置いて自分で戴冠することで「教皇よりも強い権力を持つ立場」を表したのです

これによりナポレオンはエンペラーになったわけです

ちなみに日本の天皇はエンペラーですが、ローマとやり方は違いますが、事実上日本の
・政治的最高指導者
・軍事的最高指導者
・宗教的最高指導者
を一人で兼務しているので、エンペラーと呼ばれるわけです

ただし、政治は内閣に委任して、総理大臣を任命するだけ、軍事権は戦前は総帥権がありましたがこれも内閣に委任、宗教的な権威だけ大嘗祭などで行っているのが現在の天皇です
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ポピュリズム、でしょうね、一種の。

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