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1. 神は 絶対性ゆえ 相対性としての有る無しのいづれとしても 人間が自由にまた対等に忖度しうる。

1-1. かくして 同じひとつと普遍神について 《有る神》派と《無い神》派とが 平和裏に共存する。はずだ。



2. ただし 相対性としての愛憎や真偽や善悪についてそれぞれの両者が互いに自由に対等なかたちで えらばれることは出来ない。

2-1. 憎悪の神や悪の神が あり得るかに見えるけれども それらは 善の神や愛情の神と――相対的に有限なかたちで――対立するものであるに過ぎず 絶対性なる普遍神とは別である。

2-2. 普遍神は 善悪の彼岸 真偽を超えた真理 愛憎をおおきくつつむ愛であると忖度される。

2-3. 言いかえると 《善の神と悪の神と》というふうに つねにペアとして持ち出して決して切り離さないならば まぁ 大目に見られるかも知れない。



3. 忖度の内容としての可能性の話であるが 《神は人間がこしらえたものだ》なる命題や《神を人間がナイフで刺してころした》なる推理は 成り立たない。

3-1. こしらえたものなら 壊せる。また たしかに殺せる。――だが 絶対性をどうして相対存在である人間が どうにかすることが出来るというのか? ニーチェ葬送を早く済まそう。



☆ どう考えますか? 添削をどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • №2について コメントをおぎないます。


    ★ 善でも悪でもなく
    ☆ これは ブディズムに言うところの《無記》ですね。(善とも悪とも記さない)。

    ということは 善と悪と無記と三つがそろって経験事象を価値判断しているかたちです。つまりは 経験事象を超えた神についての推測判断とは 問題が別であると考えられます。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/11/07 10:38
  • もうひとつ 読み物をおぎないます。よろしかったら お暇なときにどうぞ。

    【Q:《猛禽と仔羊》:ニーチェの道徳観】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9935080.html

    No.77の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/11/08 04:43
  • やっぱり 特別に持ち上げようとしているでしょう? なぜ?

    No.78の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/11/08 04:50

A 回答 (133件中61~70件)

エネルギーが及ぼす現象に自然現象と生命体が及ぼす現象があるというこです


経験を持ち込むとしたらそれはあくまで生命体が及ぼす現象です
自然現象に経験を持ち込むべき必然性も合理性も一切ありません
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この回答へのお礼

何を言ってるんですか。


★ 自然現象と生命体が及ぼす現象
☆ 生命体としての現象と言ったほうがいでしょうが どちらも 経験事象です。いったい何でこんな当たり前のことを確認しなければならないのか。

そして それらの経験事象は エネルギーが取っている状態です。

ところでそのエネルギーは 経験事象ですか? それとも 経験事象を超えた場ないしチカラですか?



いったいこのハグラカシはいつまで続くのでしょう。

お礼日時:2020/11/07 21:49

経験と言う言葉は自然現象それに自体にしようする言葉ではありませんよ


よって経験事象なる言葉もまた自然現象にもちいる言葉では無いですよ
エネルギーは不確定性によって数多な状態を取れる事が事象が現象のどちらかと言えば現象です
よって経験事象と言う言葉はどのみち当てはまりません
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この回答へのお礼

1. 経験事象とは 経験的なものごとを言い とうぜん現象も入ります。経験事物と言ってもよろしい。

2. 自然現象は 経験科学の認識の対象になり 経験事象に入ります。

3. 《エネルギーが不確定性によって数多な状態を取れる事》は 現象であり経験事象ですが そのエネルギーは 源泉があるのですか 無いのですか?

4. あるのならば その源泉エネルギーは 経験事象ですか そうではないのですか?

お礼日時:2020/11/07 22:15

自然現象を観測するという行為は経験です自然現象それ自体に経験と言う言葉は用いません


エネルギーが及ぼす現象を客観的に捉えているのでヒトの認識云々はここでは考慮していません
エネルギーが数多の状態を取れるの能力があるという事です
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この回答へのお礼

★ 自然現象を観測するという行為は経験です自然現象それ自体に経験と言う言葉は用いません
☆ 経験科学の認識の対象に成るなら 経験事象です。

自然現象は 観測するだけではなく 日差しにも雨にも風にも人間は刺激を受けています。これも経験です。


★ エネルギーが及ぼす現象を客観的に捉えているのでヒトの認識云々はここでは考慮していません
☆ 《現象を客観的に捉えている》なら 認識をおこなっているのです。


★ エネルギーが数多の状態を取れるの能力があるという事です
☆ その能力は 観測したり認識しうるとすれば 経験事象(事物)でしょう。ところで その能力には 源泉がありますか? つまりは エネルギーの源泉のことです。

源泉などはないですか? どこまでその要素をさぐって行っても 経験事物たる素粒子までですか? 経験事象を超えた場ないしチカラとしてのエネルギーというものは 考えられませんか?

お礼日時:2020/11/07 22:41

エネルギーを理解したいなら


無限(大小)=0を理解する事です
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この回答へのお礼

それは 近似値の問題です。

そのものの半分が元と同じ無限である真無限のことではなく――つまり真無限は絶対性のことなのですが そうではなく―― 経験事象として《ただ限りなくつづく》ものとしての可能無限の問題です。

0.0000000・・・1 といった数が――これが可能無限ですが―― 近似値として イコール0(ゼロ)と見なされることを言います。これは 近似値を取ったそのあたいは 実無限と呼ばれています。


ですから エネルギーの取れる状態のことではなく そのエネルギーに源泉というものがあるのか無いのか? これについて答えてください。


可能無限は 経験事象です。エネルギーは その範囲を出ないのか? あるいは出て 真無限と同じ内実だと成るのか?

お礼日時:2020/11/07 23:01

科学で客観的に捉えるということは機械的に捉えるということで人の認識の影響を考慮しないということです


よって人が存在しようがしまいが関係なく捉えるという事です
エネルギーがあらゆる状態を取れるのはそれが取れるの能力がエネルギー自体にあるという事で人の認識には一切関係ありません
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この回答へのお礼

ということは エネルギーにかんして 観測しうる現象のみしか取り上げないということですか?

現象だけではなく その源泉たる何かがあるとしても それは取り扱わないということですか?

お礼日時:2020/11/07 23:04

人の認識はエネルギーが持ちうる能力の一部でしかありません


物理を理解したいなら人の認識を外すべきです
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この回答へのお礼

それは おそらく《いかに?》といった現象だけを扱えという意味なのでしょう。

ということは 扱わないけれど 《なぜ? あるいは 一体なにがどうなってその現象が起きるのか?》の問題は やはりたしかにあるという意味に取ってはいけないのですか?

お礼日時:2020/11/07 23:07

真無限なる言葉自体が質問者さんの都合によるものです


無限は人が数値として表せないと言う事ですそれ以上でもそれ以下はでもありません
真無限なる概念を用いる必然性も合理性も一切ありません
無限は無限です
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この回答へのお礼

そのものの半分も三分の一も 元の無限のままという概念について どう扱いますか?

お礼日時:2020/11/07 23:08

エネルギーが及ぼす現象を通してエネルギーを理解しているということです

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この回答へのお礼

その《いかに?》という現象を認識することだけを問題とする。ゆえに ほかのことは しかるべき問題があっても 扱わない。という意味ですか?

お礼日時:2020/11/07 23:10

物理を理解するという事は物理の仕組みを理解する事です


そのために観測による影響や認識の違いによる誤差を排除しなければなりません
故に物理を理解したいなら客観的すなわち機械的に捉えなければならないのです
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この回答へのお礼

物理が ものごとのことわり・仕組みということです。

観測するときの条件・認識したあたいの――近似値によるなどの――処理の仕方 これらが なお主観的な相違をまぬかれないか。この問題もありましょう。


あなた:
★ 客観的
☆ という言葉を そんなふうにあたかも予定調和を前提してのように使ってはいけません。

現実に 相い対立する内容の仮説理論が同時に提出されているというのは ざらのことです。どちらも客観性を言い張ります。


★ 故に物理を理解したいなら客観的すなわち機械的に捉えなければならないのです
☆ こんな歯の浮いた話をよくもデカい顔をして言えたもんです。

お礼日時:2020/11/08 02:54

ニーチェの言葉が、世間に評価されたのは事実で



これって

神の意志なのか?
人の意志なのか?

bragelloneさんは、どうとらえますか?
ヾ(・ε・。)おしえて!
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この回答へのお礼

★ ニーチェの言葉が、世間に評価されたのは事実で
☆ 間違いです。その文章とのあいだのマの取り方が違っていて ダメなんです。

或る程度の評価が成ったら あとは それにイカレテしまったあたまが行列を成したにすぎません。

たとえば ディオニュソス礼賛。その神話が語るには 狂喜乱舞がいけないのではなく そうではなく 《復讐を是認している》からです。

オウム真理教は 《悪人は活かしておいて悪行を繰り返させておくよりは 先の世における成仏を期して いまポアしたほうがよい》と説いたのです。殺してやったほうが よいと。

日蓮は 法華経のためなら 敵を殺してもよいのだと書簡で書いています。

そのたぐいにつらなるのが 二-チェ=ディオニュソスです。

これだと あたまから腐っているのです。ぜんぶ だめ。


肝心なところを見ていない・見ないふりをして 部分的によさそうなところを持って来て ああでもないこうでもないと――結論が出ないもの・神秘的な要素のあるもののほうが 人気があるというふうにして――やがて引っ張りだこになってしまった。のです。愚の骨頂です。

お礼日時:2020/11/08 03:06
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