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ショウペンハウエルの『読書について』を読んでから、自分で考えられることがあるのか疑問に思ってます。
また、マーク・トウェインの『人間とは何か』を読んでから、自分で考えてはないんじゃないかともっと疑問を深めました。
何を考えても、誰かの思想をなぞっている風にしか取れなくなりました。
それに、哲学の授業であることが疑問になっても、似たような質問を他の人がしていることが多く、同じような思想体系が形づくられているのかと思うことも多いです。
著作権があるくらいだから、ある条件で自分の考えと呼べることもあるんじゃないかとは思うんですが、それならどういうことが著作権にひっかかるのか、どこまで自分の考えだと言い張ることができるのか、と疑問になります。

人は自分で考えられることができるんでしょうか。
後、自分で考えることについて、参考になる本があったら教えてください。

A 回答 (12件中1~10件)

是非読んでください。

「人は自分で考えることが出来るのかどうか」の最高の解答になります。                                        ジドー・クリシュナムーティー 「自我の終焉」
 
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この回答へのお礼

届くのに少しかかりそうですが、
本屋で注文してみました。
ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/09 23:54

ある時代の哲学について、疑問を感じて、自分ならこう考えるということが、その後の時代の哲学になっていることはないでしょうか?


これは、既に自分自身で考えているということです。
最新の哲学、自然科学について疑問を感じ、自分ならこう考えるということがあれば、それが新たな哲学、自然科学になります。
既存の哲学、自然科学は、所詮 他の人が考えたものです。
感性を研ぎ澄ませれば、何らかの疑問を感じるはずです。
既に自分で考えることが始まっています。
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この回答へのお礼

自分で考えることが始まってるんですね。
疑問も考え。。あっ、だから下で考える葦のようってたとえがあったのか。。
なにか少し気がついたような気がします。
ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/23 09:25

本の力という言葉があります.



自分が良いと思う感性を大切に.

良書に親しむこと.
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この回答へのお礼

返信が遅くなってすみません。
自分で考えるという意味での、本の力ってどういうことなのかがわかりません。
感性ってどういうことからくるのか疑問になっています。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/20 22:47

すごく純粋でよい意味での「孤独な」ご質問だと思いました。



何百、何千年、その間の人々が表した思想を、何百、何千という本やネットや会話の中で、「重複する」部分を問題にすれば、とてもではないけれど調べるのは不可能です。でもあなた自身の問題として、自分がかけがえない個性あるひとりの人間として、オリジナリティをとにかく追求したければ、とことん悩むことに意義があるというものです。

人が無知のままで生まれてくる以上、大人や環境の「模倣」をしながら成長していくことは生まれながらに備わったシステムです。もっとも宗教的な観点からは「生まれたての赤ん坊は真実を知っている」という説もありますが。これは「大人になるつどに何かを忘れていく」という「逆説」でしょうけれど、ロマン主義の私としてはこちらの考え方を支持します(笑)。

でも後から生まれてきたのって、結局は損なのでしょうか。
たとえば電話を発明したのはベルさんの他にもうひとりいたそうですが、微妙な時間差で特許をベルさんに取られてしまったそうです。でも勿論お互い模倣でも盗作でもなく、偶然その時期に発明したそうですから、唯一その人が生んだというオリジナリティは希薄というわけでしょう。それなのに時間差で(これはもう運命というより他に言い方はありませんが)、一方は歴史に名を残し、もう一方は知る人ぞ知る人になってしまいました。
そんなこと考えるとしばし「発明」はオリジナルなものかと思って、ついつい崇めたてまつりってしまいますが、そのことにかけての天才は世界に「時間差」を経て何人もいて、それは世界の光と影なのではないでしょうか。究極、完全なオリジナリティなものはなく、神様が新たな世界を造るしかありません。神の神秘を暴く人、それが芸術家や才人たちの公式(?)の仕事であって、普通の肩書きの人、特別な才能を持たなくとも「ふと」感じてしまうとき、またご質問者様のように追求するとき、神秘に触れるのでしょう。神の目からすれば、著作権侵害なぞ天の上から瞬時に俯瞰できるその大きさ、また取るに足らないことなのでしょう。勿論法治国家では盗作はいけません。でも自分のアイデアは真似されるくらいに素晴らしいこと、と言える人もいます(笑)。

さて、すでに皆さんがおっしゃるように、例えば学問は歴史の積み重ねです(学問体系)。歴史も歴史の積み重ねです(「歴史は繰り返す」)。たとえば精神分析の創立者といわれているフロイトの「無意識の発見」も世紀の大発見ですが、ニーチェの考え方に影響を受けているとか。他には芸術の世界ではいわゆる「パクリ」とかありますし。映画の世界でもタランティーノは超映画オタクで、彼の世界は自他共に認める「パロディ」です(これは「オマージュ」という言い方にも代えられる)。また弟子は師匠の「技」を「盗んで」取得します。

つまり世界は「連想」で成立しているのでしょう。そして「学問」はそのとき初めて必要になるのではないかと。エジソンの有名な言葉「天才は99%の努力と1%のインスピレーション」という言葉は、凡人のためへの励ましではなく、天才の己れへの謙虚さでもなく、意外に地道な学問の必然性を伝えたのかもしれません。

現代の学校教育に危険性があるのは、学問の本来の楽しみが奪われていることです。それに代わり、無意味な詰め込みによる「知」の模倣、その結果論としての偏差値という数式によります。受け取る側の個性、適応力により、その性格や生活、人生さえ方向づけられるので危険性がつきまといます(私はこの思想体系の犠牲者です)。
学問は繰り返しで終結するのではなく、繰り返すことで基礎を身につけ、そこからの逸脱こそがオリジナリティ、創造性を育むのではないでしょうか。歴史や過去への「後ろ向き」の視点ではなく、常に「前向き」でいる姿勢、それが模倣とオリジナリティの線引きとなると思います。そして学びたい意欲をかきたてる教育する側のオリジナリティも問われるべきでしょう。

長くなりましたが最後に。あなたのご質問の真摯さに、大衆を真似て寄りかかる楽な姿勢ではなく、「思考」の孤独の中でピシッと姿勢を立てている「考える葦」の姿を見ました。
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この回答へのお礼

返事が遅くなってすみません。
ネットが出来ない環境が続いていて。
この自分で考えられるか、という問いについて、そういってもらえると嬉しいです。
私も、相手が望んでそうな答えを見つける思想体系に慣れてしまっていて、そのときにふと、自分で考えてるのかわからなくなります。
学問をしていって、まずは基礎的な哲学の学力をつけようかと思いました。
ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/13 22:57

卒業論文という文脈で、


「自分で考える」ということを追求したいならば、
もし、まじめにやる気があるならば、
最低限、担当教官などと綿密に相談して、
それこそ、
どんな小さなことでも良いから、
自分のオリジナルな貢献を付け加えようと努力してみるのも良いと思います。
それが、プロの研究者としてのトレーニングです。

もちろん、No7. の方もおっしゃられていますが、
新たな貢献というのは、
過去の膨大な人類の知的遺産の上に
ほんの微小な貢献をすることを言います。

これを、科学の分野では、限界貢献(marginal contribution) といいます。
ほとんど、微分などで習う微小量変化をイメージすれば丁度良いです。
どんなに小さなことでも、新しいことが評価されるのが、学問の研究の世界です。
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この回答へのお礼

卒論の内容にしてもいいと思うんですが、
その前に考えられなかったら卒論がかけない気がしてしまっています。
ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/09 23:55

>マーク・トウェインの『人間とは何か』を読んでから、自分で考えてはないんじゃないかともっと疑問を深めました。


>何を考えても、誰かの思想をなぞっている風にしか取れなくなりました。

『これは「新しい」と思っても、どれも既にあったこと』ってことですよね。

例えば今の科学は前の事を基盤にして新しい発明をしているじゃないですか。
そういう人がノーベル賞とっているわけじゃないですか。

前の思想が基盤であったっていいんです。
その既存の思想を取り入れ、新しい思想を創造し、それが人類にとってすごく有益であればノーベル賞の候補に登る。


いろんな発表を見ても、多くがどの文献を参考にしたのかちゃんと書いてあります。
これは省略みたいなもので、その参考資料がどういったものか知らないと、筆者の言っていることはわかりずらいし誤解してしまうかもしれない。
読み違えてしまうかもしれない。


参考資料を書くことで、長ったらしい説明を省略でき、自分の思想を書くことにページをさけるじゃないですか。

ところがある人にとっては読んでそれは既出の思想だと思えることがあったとして、それを人に言ったとする。
すると「パクリだね。柳の下の二匹目のどじょう狙い」と言う人もいれば、「え? そっちの赤と こっちの赤は違うよ」という人もいて、「あ!」ってそこで相違点が明確になったりする。
「あの参考資料が記載されていた理由は自分の説を裏づけるためじゃなかったんだ」ってなったりする。

それまでは同じ赤だったのに、違う赤の世界がみえてくる。
その感覚は幽霊なのか?

『脳の中の幽霊』の中の第十二章 火星人は赤をみるのか の冒頭に

 現代哲学のすべては、以前語られたことを解明し、
 掘り起こし、取り消すことで成り立っている

あらら、取り消すだけだとノーベル賞もらえなさそうですが、きっと取り消したとき新しいものが生まれているんでしょうね。
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この回答へのお礼

以前語られたことを取り消せるってことは、
自分で考えた証拠ですよね。
そんなような、自分で考えたっていえるようなことを
考えてみたいです。
わずかな違いに発見があるかもしれないんですね。大体を同じことだって思わずに、違いを見つけることからしてみようと思いました。
ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/09 11:01

著作権 と 自分の考え は別個の問題であると考えてよろしいと思います。



つまり、あなたが、プロの著作活動をされる場合には、
分野にもよりますが、
かなり、something new を求められることになります。
特に、科学は間違いなくそうした分野の一つです。
プロならば、どのような著作を著すにしても、
文献調査は基本中の基本です。

ただ、逆に、多くのプロが、
他人の言ったことのサーベイをすることによって飯を食っています。
つまり、この場合、過去のアイデアを、特定の切り口で整理したことが付加価値 something new になるわけです。


著作権法的に違法になるかどうか?
ということは、これまた阿部なつみくらいあからさまに盗作しない限りは、
アイデアレベルだと、書き方によりますけど、
まず「法律違反」には問われないでしょう。
通常は、法律よりは社会制裁、つまりは、他のプロや博識の人たちから突っ込まれることによって、制裁を受けると思います。
そもそも、ある程度は出版社の方々もセンスがあるので、他の人と同一のアイデアなどは、出版まで踏み込まないことも多いのではないかと思います。
つまり、大体、おっしゃるようなことは、少なくとも、著作権との絡みでは、取らぬ狸の皮算用、要らぬ心配という感じもします。

あなたが、哲学の研究者になりたいということであれば、
著作権と別に、
上述の something new については十分に意識してください。


他方で、アマチュアが「自分で考える」ことは、
文字通り素直に、本当に自分で考えたかどうかでいいんじゃないですか?

他人とアイデアがかぶるのは、これだけ長い歴史があるんだから、テーマによっては当然。
哲学だから驚くかもしれないけど、
例えば、物理や数学で、素人の人が疑問に思うことの
「答え」が既存の学問の文献の中に、まず100%見つかることについては、別に不思議に思わないでしょ?
哲学だって、科学ほどではありませんが、同じですよ。

これは、他人の考えをなぞるのとは決定的に違いますよ。
自分で考えたものは、自分の血となり肉となります。
分かりやすい例では、
自分で数学の問題を解くのと、
回答を見て理解するのとでは、
まったく違うでしょ?



つまり、一言の結論。

どういう意味での「自分で」ということを追求されているのかを整理してください。
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この回答へのお礼

どういう意味での「自分で」を整理ですね。
今、大学1年で、先輩の卒業論文の発表を聞いたんです。なにか考えがすでにあるものが多くて、物足りなく思って、自分もそうなるんじゃないかって思いました。それは、論文じゃなくって説明だって言われそうで。
哲学だけにとらわれずに、科学に目を向けてみることで気がつくこともあるんですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/09 10:57

♯2で回答した arakan です。

ひとつ言い忘れていましたので
 追加させてください。
 そもそもショウペンハウエルはこの世界で普通の人が
 価値観とする「金銭」や「愛情」「地位」といったものの
 相対性、幻想性をひとつひとつ暴いていった人で、その結論は
 当然ながら「人生には何の価値もない」というところに行きつきます。
 もちろんそれはそれで哲学の入門編としては十分なのですが
 そこからは「虚無主義」「厭世主義」しか出てこないのです。
 それでは、現に存在し苦悩を背負って生きている人間ひとりひとりの
 「救済」は得られません。
  ところが実はその「救済」を一番願っていたのは彼自身だったのです。
 だから彼はあれほど皮肉たっぷりに「虚無主義」を表明しながら
 毎日乾布摩擦をし、人一倍健康に気を遣い、貯金の残高を気にしながら
 80才近くまで長生きするのです。
 
 もうひとつ。どんな本が「自分が考える」ヒントになるかですが、
 一番いいのはそうやって自分でもがくことです。
 現にあなたはショウペンハウエルの本に触れ、ショウペンハウエルの
 論点を正しく捉え、正しく「虚無主義」に陥られています。
 そこでつぎの問いを自分で考えてみてください。
 「では、人生は生きるに値するのだろうか?」
 「自分という新たな存在にどんな意味があるのだろうか?」
 「なぜ芥川竜之介は自殺したのだろうか?」
 
 
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この回答へのお礼

虚無主義というものをもっと詳しく調べてみようと思いました。
三つの問いですね。上の二つは、ふと思ったことがあるんですが、よくわかってません。
芥川竜之介の詳しいことは調べたことなかったので、
なぜ自殺したのか、調べてみます。
調べたのを参考に、また自分で考えてみたいと思います。ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/09 10:49

>自分で考えることについて、参考になる本があったら教えてください。



というところが笑えました。
いや、すいません、馬鹿にしているのではなくて、
この真面目な態度と探究心が「?」の自己矛盾を引き起こしているのだと感じたからです。

ショーペンハウアーは私も大好きで、
なんとなく北野たけし氏に似た雰囲気で痛快ですよね。

あなたはすでに充分に自分で考えはじめているのですから、
著名な哲学者たちを上から見下ろすような立場で各種の本を読んでみてはいかがでしょうか。

賛同できる部分とできない部分を自分で選別するだけでも、
すでにあなたの意見はあなたの中に反映されます。

まったく同じ意見(思想)の人間をつくりだすことは
どんな恐怖政治でも宗教でも不可能です。
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この回答へのお礼

著名な哲学者たちの本を読むと、その時点で納得してしまうことが多くて。それで、自分は考えがないんじゃないかって思うことが多かったんです。
上から見下ろすような立場で読むようにがんばってみます。自己矛盾・・そういえばそうですね。。
ありがとうございました!

お礼日時:2005/02/08 09:45

>人は自分で考えられることができるんでしょうか。



 できますよ (^_^)。
 ただし、何をもって「 考える 」とするかを自己の内で明確にしておく必要があるでしょう。

 一般的に、多くの人が口にする「 考える 」は、自己の経験、知識の中からテキトーなものを引っ張り出してくる、いわばジグソーパズルのような行為ではないでしょうか。これは「 考える 」とは別のもの、と私は考えます。
 「 考える 」とは、自己の発想、考えかたをいったん否定し、その後に自己の内部に生じるものに意識を集中する、このような作業( この行為そのものを含め )の一連を言う、と私は考えています。
 どうでしょうね (^_^)/~。
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この回答へのお礼

何をもって「考える」とするか、ですね。
そのことも考えてみます。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/08 09:40

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