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当時の天皇が徳川家康を征夷大将軍に任命した時は徳川幕府が政治的権力を持つことになるのはわかってたんですか?

A 回答 (5件)

順序が逆です


関が原で勝利した徳川家は、大幅に直轄領を増やしました
外様の大名の配置についても、大方思い通りに行いました(関が原で敵対した大名は取り潰したり、領地の大半を取り上げたりしましたし、今後徳川家の脅威となり得る大名は江戸から遠ざけました。反対に江戸などを守るための要所には、血族や譜代の大名を配置しました)
これにより、豊臣秀頼という徳川の主は存在するものの、家康が実質的に天下を握るという状況ができたのです。
このため、すでに権力を握った家康を見て、朝廷は家康を征夷大将軍に任じたのです
(ただ、裏工作もきっとあったことでしょう。莫大な金銀などを公家らにばらまいて、家康こそ将軍にふさわしいという公家たちの総意を作り上げていたはずです)
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当時から鎌倉以降の征夷大将軍が蝦夷征伐の大将でない事はあなたは別として周知の事実でしょう。

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ん~~なんか違うよね・・・・



この文章だと、あたかも天皇が統治権を徳川に譲り渡したようなイメージだけど

そもそも天皇(および公家も含めて)に京都地域に限ったとしても、行政や治安維持などの能力は有りませんでしたよね?

その時々の軍事力を背景とした実力者に対して、官位であるとか綸旨やら勅書やらそういうモノを授けることで権威付けする代わりに存在を保っていた

だから、その延長線上としての将軍宣下でしょ
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家康が、関ヶ原の戦いで勝利したから


征夷大将軍に任命されたのです。

つまり、政治的権力を持ったから
任命したということです。



慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利し、
豊臣政権内での対抗勢力を一掃した徳川家康は、
豊臣氏に従属しない独自の公儀としての
名目を確立するために、
慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就く。
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指摘の3番目。

この時代にはすでに天皇に政治的支配力はありません。形式的に存在するだけです。天皇を含め京都の公家たちは「誰に養ってもらうか」ということと「どのヨプに養ってもらうか」だけを考えていました。その結果「大坂の陣」で豊臣でなく「徳川」が日本を実質的に支配することが明白になると「禁中並びに公家諸法度」で京都にいる天皇家や公家を「敬して遠ざける」政策に出た「徳川政権」の命令に従って、生活し「幕府から生活費」をもらうようになりました。その生活は割と質素なもので「公家」の中には「年に一度の尾頭付き」が正月に食べられることを喜ぶといった記録も残っています。ただし、京都の統治システムは温存されており、諸大名は「~守」などの形式的支配をもらうために、京都政権に付け届けをしていたようです。ただ幕末にはこのシステムを利用して「官軍」が作られ討幕する正当な理由となりました。当然江戸幕府を倒した明治政府は「太政官」の制度をとることになったわけです。
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