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1. 《たとへ》です。タトへとしてどこまで現実であるか?

2. おそらく主観の内面においてであることは定まっているはずですが どこまで・どのようにして 現実であると人びとは捉えるか?
 


3. 十字架上のイエスが特異点だと言うのは なぜ磔になったかその無実の罪といったいきさつの問題がある。これが 大きい。

4. そのいきさつを無条件で引き受け 有罪無罪を超えた地点に立った。

5. 因果律あるいは経験合理性といった認識ないし判断の基準から自由な一点だという意味で 特異点にたとえられる。その地点は 微分することが出来ない。いかなる傾き・傾向がない。

6. 1/ x において x = 0 である場合を言う。

7. その x がイエスであり それが 0(零)であるということは イエスが完全なる死を死んだという意味である。

8. 死が完全ではないというのは 通俗に言う《この世に未練が残って 文学的に言うならば幽霊になってさまよわねばならない》場合のことである。

9. イエスは 完全に死を死んだ。磔による苦しい死を膝を折ることなどによって早めてやろうとして近寄った兵士らは イエスがすでに息を引き取っていたのを見て驚いたとある。

10. 去って行ったとき 特異点が成った。あたかもよみがえった。


☆ ご見解をどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • №5でおぎないます。

    ★ コロナはいままでのウイルスと非常に異なっていて、特殊です。陰性を判断されても脳内にウイルスは残るとか、さまざまな危険な後遺症が次第に判明しつつあります。どう思われますか?
    ☆ 特殊性についてですよね。いやぁ すみません。分かりません。

    牧師氏の指摘のごとく《人類の堕落を示唆する》ものか。

    神から贈られたメールであると採ってよいと思いますが その解釈は わたしにとって むつかしいです。ヒラメキが得られていません。(解釈が ひとつに限られるとしなくてもよいでしょうし)。


    どう考えられますか?

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/01/29 22:31
  • №10つづき


    ★ ただ、聖書の理解を深めるために、ブラジェ先生が神学について語られ、誰もコメントをしていない状況であるのなら隙を見て、お邪魔をし、教えを乞いたいと考えているのです。
    ☆ ありがとうございます。まなばせてもらっていますし これまでわたしが考えて来たことがらはそのままつづらせてもらっています。


    ★ 邪魔
    ☆ というのは たしかに同じやり取りを延々と繰り返す場合として実際に経験していますが いまはこうやってご回答ご投稿に応じてたのしく言葉をつむいでいます。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/01/30 10:04

A 回答 (18件中1~10件)

お礼を拝見致しました。

ありがとうございます。

ブラジュ先生によれば、人間は自由なのですね。

>人間の自由意志の・善だけではなく負の善(つまり悪)を成す自由度もがあるという問題だと考えます

はい。仰る通りです。神は人間に悪をなすことも可能な意志をお授けになっております。

>でも 言ってわるいですが聖職者の中には なお原罪があたかも猛威を振るっていると言い続けているばあいが無きにしも非ずではないでしょうか。

はい。私もそういう聖職者は信用しておりません。
私個人は人類の原罪がイエスの死によって贖われなかったとしたら、「じゃあ、イエスは人としてなぜ一度、十字架で死ななければなかったのか?」と問いたいです。

>善の神がいれば 悪の神もいるんだと言い張るばあいが 決してすくなくありません。

悪の神というとのは聖書中に登場してきますでしょうか?
サタンが出てきますが、ヨブ記を読むと神の忠実な使者として描かれております。あくまで神の下の座に属するのであって神ではないと個人的に解釈しておるのですが・・・

>人びとの心のどこかに自由にさからうような傾きが巣食っている。

実存主義(正直、あまり詳しくはないのですが)の「自由には常に不安が伴うのだ」という主張などや(安部公房の小説などのテーマ)、エーリッヒ・フロムの著作「自由からの逃走」と関連してくるかと思います。
人は自由を求めながら、実は自由には苦痛や不安や孤独を感じるから、いざ、自由になると自由から逃げたがる、ないし、避けたがるというような主張でしたような記憶があります。

実に丁寧な回答をどうも感謝申し上げます。m(..)m
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この回答へのお礼

コメントをありがとうございます。

★ 人間は自由なのですね。
☆ だって 《わたしは 道であり 真理であり いのちである》と言った人は つづけて《真理はきみたちを自由にする》と言い添えているぢゃないですか。


☆☆ >人間の自由意志の・・・自由度
★ はい。仰る通りです。神は人間に悪をなすことも可能な意志をお授けになっております。
☆ ですね。


☆☆ >聖職者の中には なお原罪があたかも猛威を振るっていると・・・
★ はい。私もそういう聖職者は信用しておりません。
☆ となると思います。


★ 私個人は人類の原罪がイエスの死によって贖われなかったとしたら、「じゃあ、イエスは人としてなぜ一度、十字架で死ななければなかったのか?」と問いたいです。
☆ ええ。イエスを十字架上から是が非でも引きずり降ろそうとする場合が見受けられます。


☆☆ >善の神がいれば 悪の神もいるんだと言い張るばあいが 決してすくなくありません。
★ 悪の神というとのは聖書中に登場してきますでしょうか?
☆ あっ。言葉は違いますね。ザラトゥシュトラやマニの場合が 善悪二元論ですね。


★ サタンが出てきますが、ヨブ記を読むと神の忠実な使者として描かれております。あくまで神の下の座に属するのであって神ではないと個人的に解釈しておるのですが・・・
☆ この点は 中川師も同じくだったと思います。その辺をあいまいにして 俗な話として悪魔を押し出してくる場合を言いました。


☆☆ >人びとの心のどこかに自由にさからうような傾きが巣食っている。
★ 実存主義の「自由には常に不安が伴うのだ」という主張などや(安部公房の小説などのテーマ)、エーリッヒ・フロムの著作「自由からの逃走」と関連してくるかと思います。
☆ そのとおりだと思います。

★ 人は自由を求めながら、実は自由には苦痛や不安や孤独を感じるから、いざ、自由になると自由から逃げたがる、ないし、避けたがるというような主張でしたような記憶があります。
☆ はい。

★ 実に丁寧な回答をどうも感謝申し上げます。
☆ 寛大に受け留めていただいていると思います。こちらこそ感謝いたします。

お礼日時:2021/02/05 05:31

なるほど。


そういう視点・解釈も独創的かつ斬新でよいですね。
「普遍神」の考え方の方が、より神の愛の深さを感じますし。
神の愛とは幅が広いのですね。それこそ無制限で。

今日は大変、参考になりました。

ブラジュ先生には毎度毎度、勉強させて頂き、
得るものが多く楽しいです。(^^)

誠にありがとうございました。m(..)m
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

おそれいります。仮説だとは思います。


人間論ないし存在論として ウソ・イツハリの問題が原罪論としてありました。これは言いかえると 人間の自由意志の・善だけではなく負の善(つまり悪)を成す自由度もがあるという問題だと考えます。この原罪が問われ続けた歴史がありました。

また〔ナラハシになり得る〕もろもろの悪行ないし罪が 集団生活にとっての秩序や安全保障の問題として問われる歴史があります。


原罪は アブラハムの時から・またはアダムとエワの時からイエスの時まで 問われ続けたし それがあがなわれた後もあたかも母斑(しみ・そばかすの類)として残るかのようである。それは 残念ながら多少ともナラハシに成ったかの感のあるもろもろの罪の問題とつながっているかに思われます。




基本は すでにさだまりました。

人間は すべて自由です。真理はきみたちを自由にすると言われたごとく 完全に自由である。

その上で なんらかの後遺症が一部にあるかも分かりません。

蒙古斑のようなものゆえ もう屁の河童なのだと思います。

でも 言ってわるいですが聖職者の中には なお原罪があたかも猛威を振るっていると言い続けているばあいが無きにしも非ずではないでしょうか。

あるいは 廃れたマニケーイズムのごとくなお 善の神がいれば 悪の神もいるんだと言い張るばあいが 決してすくなくありません。

エートス(生活習慣)にもなってしまったようなナラハシの問題として 人びとの心のどこかに自由にさからうような傾きが巣食っている。・・・

お礼日時:2021/02/05 04:31

ブラジュ先生、お礼を頂きありがとうございます。



私はブラジュ先生に比べれば、まだまだ聖書理解が十分ではない者(初心者)なのですが、私なりに回答してみたいと思います。なるべく簡潔に。

まず原罪について。
イエスの死によって人類みなが抱えていた原罪は贖われたと解釈致します。ここは「普遍的」にです。

そして、ブラジュ先生の仰られている「オシエ」とは旧約の律法のことであると解釈致しました。

それは「イエスの教え」、すなわち、
1.全身全霊を持って、あらゆる知恵を尽くして、父なる神を信じ、畏れ敬い愛せ。
2.隣人を自分のように愛せ。
この2点の「イエスの教え」を受け入れ信じることで、旧約の律法(「オシエ」)はすべてカバーされます。

ただし、ブラジュ先生の御批判を受けると思われますが、人類が普遍的に全員が(無信仰者も含めて)救われるのではなく、この「イエスの教え」2点を受け入れ信じる者たちが救われると解釈しております。

つまり、「普遍的」に人類の原罪は贖われたが、「イエスの教え」2点を信じる者が真に「救われる者」である。

しかし、新約聖書の中で不思議で「イエスの教え」の解釈が困難なケースが描かれております。それはたしかヨハネの福音書8章の中で、「この女は売春婦で非常に罪深い者であるので石を投げて殺せとモーセは「「オシエ」」の中で言っている」という売春婦をイエスが「罪を犯したことのない者からこの女に石を投げろ」と言い、年輩の者から去っていき、イエスが女を助けます。この解釈は困難です。つまり、イエスはこの事例からして旧約の「オシエ」を犯し、それをカバーする2点の「イエスの教え」を破った売春婦でも助けるわけです。

なので、この辺のイエスのやさしさを考慮すると、あるいはブラジュ先生の仰る通り、罪は罪人であっても「普遍的」にイエスによって救済されるだという解釈が成立する事例と私は解釈致します。そして、助けられた売春婦はみんなが去っていった後にイエスの「誰も石を投げなかったのか?」という問いに「主よ、誰も」と答えております。つまり、イエスの存在を「主」であると受け入れ信じていたわけです。ですので、罪人であっても「イエスを主である」と受け入れ信じている者なら救済されると私は解釈致しました。

結論です。
1.すべての人類の原罪は「普遍的」に贖われた。
2.イエスの存在を受け入れ「主である」と信じる者は罪人であっても救われる。ただし、これはあくまでイエスの存在を信じる者限定であり、そういう解釈では「普遍的」とは言えない。つまりイエスの存在を信じない者は救われないのではないか?

自信はありません。間違っているでしょうか?

初心者の私には難しいところです・・・m(..)m
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この回答へのお礼

★ イエスの死によって人類みなが抱えていた原罪は贖われた・・・ここは「普遍的」にです。
☆ はい。

★ 「オシエ」とは旧約の律法のこと
★ それは「イエスの教え」、すなわち、
1.全身全霊を持って神を愛せ。
2.隣人を自分のように愛せ。
☆ 《オシへ》の問題にかぎれば そういうことになるとわたしも思います。

★ ただし・・・人類が普遍的に全員が救われるのではなく、この「イエスの教え」を信じる者たちが救われると解釈しております。
☆ そうしますと:
▲ (エレミヤ書 31:34⇒へブル書 8章 ) わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。
☆ の聖句は どうなりますか? 《彼ら》とは アブラハムの《子孫》として広く人類のことを指すと思われます。


★ 「普遍的」に人類の原罪は贖われたが、「イエスの教え」2点を信じる者が真に「救われる者」である。
☆ あぁ。中川師とは少し違ってましょうか。わたしの中では ① イエスキリストの指し示した神を信じる(無条件にて心に受け容れる)ことによる。 ② ただしこの神は けっきょく普遍神であり それを《信じる》こととは 神によってあたえられることゆえ 他人(ひと)がとやかく言ったり判断したりし得ない。つまり 本人の主観の問題となる。③ 言いかえると ひとは生まれつきの自然本性において理論じょう潜在的にすくわれている。

★ ヨハネの福音書8章の中で、「この女は売春婦で非常に罪深い者
☆ 姦淫した女ですね。ずばり 上の②の問題であると思います。矛盾はないはずです。


★ 罪人であっても「イエスを主である」と信じている者なら救済される
☆ ひとは みんな罪びとです。

★ 結論です。
1.すべての人類の原罪は「普遍的」に贖われた。
☆ はい。


2.イエスの存在を受け入れ「主である」と信じる者は罪人であっても救われる。ただし、これはあくまでイエスの存在を信じる者限定であり、そういう解釈では「普遍的」とは言えない。つまりイエスの存在を信じない者は救われないのではないか?
☆ 普遍神ならば その神とわれとの関係は すべての初めからすでに成り立っています。アブラハムより以前からです。仮りに口で《神なんているものか。信じない》と言うひとも 神との関係は すでにじゅうぶん成り立っています。

言うなれば神の愛だと思います。

お礼日時:2021/02/04 23:13

追伸。



中川健一牧師の評判は真っ二つに分かれ賛否両論あるようです。

批判派:中川の言っていることは滅茶苦茶。カルト。
賛成派:とても有名なお方でその教えも安心して聴ける。
などなど。

なお、
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12177471.html
のNO.7で、プロテスタントであるカリオカ様が中川牧師以外にもYOUTUBEで「高原剛一郎牧師、小原克博牧師、聞くと目から鱗。」と仰っております。すでにご覧になられているかも知れませんが。

ちなみに、私はまだこのお二人の動画は拝聴しておりません・・・
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この回答へのお礼

中川師についてのわたしの批判は 次の質問に記しました。普遍主義の問題です。

【Q:クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう解釈されますか?】 ~~~
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12178600.html

(β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。
▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。

(β‐2) オシヘは要らなくなったということ。
▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
~~~~
☆ この二点の聖句です。つまり これらについて わるく言えば 見て見ぬ振りをしておられる。と思われることです。

つまり 普遍的救いの説を なぜか しりぞけています。


もちろん あなたにも どうお考えか お聞きしたいところです。

根本的な主題だと思います。

お礼日時:2021/02/04 20:51

>中川健一牧師の youtube をもう少し拝聴します。



あ、勉強中でしたか・・・・失礼致しました。
是非、オススメ致します。
私もかなりの疑問が解決され影響を受けたものです。

今日は霊性(あるいは聖霊)のブラジェ先生の解説をじっくりと考えておりました。そして、少しスッキリ致しました。

大変、勉強になり、いつも的確な教えを頂き、どうもありがとうございます。
今日は貴重な一日でした。ブラジェ先生には感謝しかありません。

それでは是非とも中川牧師のQ&Aをご視聴くださいませ。
誠にありがとうございました。m(..)m
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この回答へのお礼

#1から聴いています。

◆ #4&5 イエスは誰かにおける贖罪説
☆ この説は 結果論として言うのがよいと思います。

そうではなく じんるいの罪をあがなうために十字架じょうの死を死んだというのは 恩着せがましいと感じますから。

◆ #7 罪 #8 原罪
☆ 哲学の視点からは ひとの自由意志を基軸として説明するのがよいと思います。

自由意志の自由度には 自然本性なる心に従う意思とそれに逆らう意思とがあるという捉え方です。

悪行をおのがたましいに照らして――神の前にあって思うに―― 道を逸れたという意味で罪と言うのだと見ます。



▲ (アウグスティヌス:《心の欠けなる傷》について)~~~
 かの全能者は 
 最初の人(アダムとエワ)からであれ 
 その後に加えられたわたしたちの意志からであれ
 わたしたちに起こっている悪を
 その満ちあふれる恩恵によって
 滅ぼしている。
    (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2021/01/30 20:59

お礼を頂きありがとうございます。

どもども。

引きこもりについては以前と解釈がまったく異なっていると思われるのです。
コロナの猛威が振るっている以上、むしろ引きこもっていてくださいなるメッセージのある解釈になってきている現在だと思います。もちろん生活をぎりぎりでもできる最低限の収入を確保できればという条件付きですが・・・・

中川健一牧師は「ヴィジョンの人」と呼ばれるそうです。本人はマザーテレサのような「愛の人」と呼ばれたいと仰っておりましたが。たしか、以前、ブラジェ先生は「マザーテレサは嫌いです」と明言されておられましたね。ま、マザーテレサにはアンチも多かったみたいです。好き嫌いは個人の自由なので、いかんともしがたいです。

いまはコロナで仕事がない状態ですが、私には先輩一人といまだに交流があり、先輩も私も時間とお金に関する価値観では共通するものがあるのです。
つまり、最低限の収入を確保できればお金はさほど求めておらず、時間持ちになりたいという価値観です。なので、極力、労働時間を減らし、趣味や家族との交流・会話・相談、あるいは好きな時に寝れることなどを重視しております。

ところで、もっとも神に近い境遇はどのような人か?と若い時に考えておりました。そこで、私が出した結論が聖職者ではなく死刑囚の中で信仰に目覚めた者というものでした。多くの罪を背負った者が信仰を持った時に聖職者より神仏に近い存在になっているのではないか?と。

もっとも人を殺めてしまえば、そういう存在にはなれても、もう完全にアウトであるので、私は人は絶対に殺めないと覚悟して生活しておりますが、親鸞の教えに「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」『歎異抄』(真宗聖典 p.634)というものがありますよね。つまり犯罪者とはほど遠い一般人も親鸞に言わせれば、誰でも条件さえ揃えば犯罪者=悪人になりうるのだということだと思います。

以来、死刑囚の最後など、大塚公子氏の著作をよく読んでいた時期があります。YOUTUBEでも犯罪者や死刑囚の最後の動画はありますが、アニメが多く内容も浅いので、ほとんど見ません。「火の鳥~鳳凰編」でも極悪人の非常に罪深い我王(?)が最後は仏像を口に彫刻刀を持ち(両腕がない状態)掘り続ける終わり方です。
また、鬼才漫画であったジョージ秋山先生の「阿修羅」でも、人を食って生き延びてきた阿修羅が最後は坊さんになったような記憶があります。

とんでもない罪を犯した者が信仰へ目覚めた時、その信仰は聖職者より本物・真実性・純粋さを持ちうるのではないかと個人的に考えておりました。
聖書にも多くの罪を犯した罪人が多く許されるのだとあったような・・・・

今回もどうも長くなってしまいましたが・・・・
もう少し短くまとめた方が良いかとも思います。
どうも、いつも私のような者の相手をしてくださり感謝です。(^^)
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この回答へのお礼

★ 引きこもりについては以前と解釈がまったく異なっていると思われるのです。コロナの猛威が振るっている以上、むしろ引きこもっていてください・・・
☆ あぁ。なるほど それもありますね。


★ 中川健一牧師は「ヴィジョンの人」と呼ばれるそうです。本人はマザーテレサのような「愛の人」と呼ばれたいと仰っておりましたが。
☆ そうですか。ひとこと。タトへとは 文字通りの内容が三位一体なのではないはずです。

★ マザーテレサ
☆ 治療をほどこさずに痛みに耐えなさいという応対をしていたと聞いて嫌いです。


★ 時間持ちになりたいという価値観です。
☆ ええ。すでに触れておられた生活が第一という原則でもあります。



★ もっとも神に近い境遇はどのような人か?・・・死刑囚の中で信仰に目覚めた者
☆ そうですね。悪人正機説に似ていますね。わたしは イエスのあとは 理論上・潜在性において ひとは例外なく神の子である(ヨハネ福音 1:13 )
と見ます。キリストという意味での神の子ではないですが。

★ 親鸞の教えに「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」というものがありますよね。つまり・・・誰でも条件さえ揃えば犯罪者=悪人になりうる
☆ これも 神義論の裏返しのような見方だと思います。直接の因・間接の縁によって 悪行の後遺症はあり得る(起こり得る)というかたちで。


★ 死刑囚の最後など
☆ 悪行は 《わたし〔の自然本性なる心〕に逆らって思いを致しこれを実行する》場合だと思います。したがって いづれ《われがわれである》状態に立ち戻ることが必要であり 条件がゆるせば実現すると見ます。


★ とんでもない罪を犯した者が信仰へ目覚めた時、その信仰は聖職者より本物・真実性・純粋さを持ちうるのではないかと個人的に考えておりました。
聖書にも多くの罪を犯した罪人が多く許されるのだとあったような・・・・
☆ そうですね。仏典にもあるようです。アングリマーラなどおもしろいかも。

中川健一牧師の youtube をもう少し拝聴します。

お礼日時:2021/01/30 20:15

PS.書き忘れましたが、レヴィナスは「顔」に関する著作を1冊だけ読んだことがあり、いまでも印象に残っているのは「人は相手の目を見て殺すことはできない」という内容があった気が致します。



戦争映画でも、銃殺する時に銃殺される側に目隠しをしますが、あれは引き金を引く側のためなのですね。
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この回答へのお礼

末尾の段落。なるほどですかね。銃殺される者の不安と恐怖をゆるくしてやるのだと思っていました。


いろんな思想家がいて さまざまな思想があるようですね。基本はそれほど広がっておらず 神論と人間論だと思っていました。宮台は 幅が広いようです。

お礼日時:2021/01/30 13:07

お礼を頂きありがとうございます。



批判は苦手というか、特に思いつきませんので。
ただし、YOUTUBEで「3分でわかる聖書 中川健一」で検索すると200以上のQ&Aがわかり明確に質問に回答されておられます。

クリステヴァは記号論を一冊だけ読んだ記憶がありますが、何せ昔のこと、さっぱり忘れております・・・・ハンナ・アーレントは評判が良いようですが、読んだことは一冊もありません。
先輩に「女性に哲学は可能かどうか?」という議論をした記憶があります。
上野先生が聞いたら激怒しそうで怖いです・・・・

橋爪先生がクリスチャンだったことは初めて知りました。
大澤先生もキリスト教に興味がおありなのですね。
現在の思想界ではコロナよりキリスト教の方が話題になっているのですかね?

いまの時代は情報が溢れている状況だと思います。
何が自分にとって有益で、何が不要かの取捨選択するスキル・判断力を持っていないと精神的に苦しいと思います。

ちなみに「井戸の中で満足する」という考えは荘子から学びました。
一時的に韓非子や孫氏、孔子、菅子、老子など、中国古典にハマっていた時期がありまして。繰り返し読んでおりました。聖書に出会う以前の話です。

いまは聖書を毎日読む以外は一切の読書はしておらず、高齢の父、母との交流や相談に乗って貰ったり、ネットで一人の時間を楽しんだりといった生活で、必要がある時以外はインドア、まあ、言ってしまえば、ほぼ広義の引きこもり生活です。ただし、わずかながら生活費はきちんと親に渡しております。

世間的に見れば惨めな生活かも知れませんが、自分としてはこれ以上、恵まれた生活、家庭もいまの時代ないのではないかと・・・・かなり贅沢な暮らしだと思います。時間の使い方が。経済的には決して裕福ではありませんが・・・・とほほ。

ブラジェ先生の言葉から楽しんでいますよとの言葉を聞けて安心いたしました。まぁ、正直な話、私のスペックでブラジェ先生の相手をするのは力不足であり、申し訳ないとはつねづね感じて文章を書いておりますが・・・・

もっとブラジェ先生と対等にやり取りできる方がこのカテにはおられると思うのですが、謙虚なお方なのか、なかなかコメントがつかないので、私がこうやってブラジェ先生に教えを乞うという感じでおります。

今回も長々と申し訳ありません。m(..)m
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 「3分でわかる聖書 中川健一」
☆ キリストの再臨のお話を聞きました。わたしには 分からない事柄です。まるっきり分かりません。
#95 三位一体を拝聴しました。いかなるタトへも間違いだとの指摘がありました。

★ クリステヴァ ハンナ・アーレント
☆ らについて いま保留します。

★ 「女性に哲学は可能かどうか?」
☆ についても いま成案がなく保留します。


★ 橋爪先生がクリスチャンだった
☆ アメリカで洗礼を受けたようです。

★ 大澤先生もキリスト教に興味がおありなのですね。
☆ はい。

★ 現在の思想界ではコロナよりキリスト教の方が話題になっているのですかね?
☆ これは どちらもだと思います。

★ いまの時代は・・・何が自分にとって有益で、何が不要かの取捨選択するスキル・判断力を持っていないと精神的に苦しいと思います。
☆ ですね。

★ ちなみに「井戸の中で満足する」という考えは荘子から学びました。
☆ 無為自然。・・・

★ 中国古典
☆ よいかと思いますが 特定の主題を取り上げたときに考えます。


★ 高齢の父、母との交流や相談に乗って貰ったり、
★ ただし、わずかながら生活費はきちんと親に渡しております。
★ 必要がある時以外はインドア、まあ、言ってしまえば、ほぼ広義の引きこもり生活です。
☆ 分かりました。なお 引きこもりについては 未来社会のネガ(陰画)であり やがてどんでん返しが起きて ポジ(陽画)になると言っています。


★ 自分としてはこれ以上、恵まれた生活、家庭もいまの時代ないのではないかと・・・・
☆ わたしは すでに年金生活です。境遇はもし違っても 同じく恵まれていると思ってます。



★ 
ブラジェ先生の言葉から楽しんでいますよとの言葉を聞けて安心いたしました。まぁ、正直な話、私のスペックでブラジェ先生の相手をするのは力不足であり、申し訳ないとはつねづね感じて文章を書いておりますが・・・・
☆ 恐縮です。自由なかたちでご発言ください。

お礼日時:2021/01/30 13:02

まあ、正直に告白しますが、私は20年前学生でゼミの担当教官と自主ゼミのサークルの二つに所属しておりましたが、専門のゼミの教官からは得るものがなく、興味もなく、ギデンズの「親密性の変容」を読まされておりましたが、フィードバックがどうとか、再帰性がどうとかという意味もわからないほどの劣等生でした・・・・



そして、もっとも影響を受けたのが自主ゼミの教官でした。その教官は無名の学者ですが、学生から不思議なカリスマ性があり、その教官の好きな著書を駅ビルの本屋で買い求めておりました。

ちなみに教官が好きでしたのはケネス・ガーゲン、ラカン、ボードリヤール、浅田彰、柄谷行人といったポストモダンの思想家で、まだ青臭かった私は何の役にも立たないとはわからずに必死で読みましたが、さっぱり理解ができず。
これはポストモダンの思想家全員に当てはまる点と思いますが、文章が難解過ぎるのです。「つねにすでに」とか。

それで、ボロアパートに引きこもってニルヴァーナとかテクノとかを流しながら小説を主に読んでおりました。村上春樹、チャールズ・ブコウスキー、三島由紀夫などを。特に好きであったのがブコウスキーのおバカ小説で、日本で出版されている彼の著作は詩集、自伝も含めてすべて買い求めました。子供時代は父から虐待されていたそうですね・・・・

なので、私は哲学、社会学の勉学をほとんどしておらず、思考も訓練されていないのです。これが正直なところです・・・・ですので、ポストモダン思想の著作の一行たりとも20年経過した現在では頭の中に残っておらず、私からブラジェ先生に教えられることは何もありません。哲学を避けるのも、そういう私のコンプレックスからだと思います。頭の出来が良くないのです・・・・正直。

ただ、宮台先生が「まったり革命」を出版し、人生相談本などの大衆向けは読んでおりました。当時、宮台先生はテレクラ社会学で有名でしたね。しかし、博士論文はとんでもなく高度で難解な滅茶苦茶頭の良い人として有名でした。
そんな宮台先生、柄谷先生が私が聖書を日課として読むようになった後に、キリスト教へと接近していったというのをネットで知りました。そこら辺が興味がありました。あの女性遍歴の激しかった宮台先生がなぜ?と・・・・

いまはただ、毎日の生活を家族全員健康で喧嘩をせず仲良く、一日一日をトラブルもなく平穏無事に過ごせることが幸せという感じです。それには聖書が適していたというわけです。

生き方の問題になり、哲学の話題からは遠ざかりますし、賛否両論あるかと思いますが、「井の中の蛙が大海へ出て行ったら死ぬから井戸の中で満足していた方が幸せ」という考えです。この考えには批判も多いですが・・・・これが本音です。ある意味、自分のスペックの限界と低さを自覚しているということでもあります。

長々と、また自分語りをしてしまいましたが、これが実情なのです・・・・

ただ、聖書の理解を深めるために、ブラジェ先生が神学について語られ、誰もコメントをしていない状況であるのなら隙を見て、お邪魔をし、教えを乞いたいと考えているのです。

大変、申し訳ありません・・・・
もし、邪魔だな、相手にする価値もない、不快などを感じられていらっしゃるようでしたが、どうぞ、ご遠慮なく言って下さませ。
なるべく、ブラジェ先生の神学・哲学の邪魔はしたくないので。m(..)m
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★ ゼミの担当教官と自主ゼミのサークルの二つに所属しておりましたが、専門のゼミの教官からは得るものがなく
☆ なるほど。(そういうこともありますね)


★ そして、もっとも影響を受けたのが自主ゼミの教官でした。
★ ちなみに教官が好きでしたのはケネス・ガーゲン、ラカン、ボードリヤール、浅田彰、柄谷行人といったポストモダンの思想家で・・・さっぱり理解ができず。
★ これはポストモダンの思想家全員に当てはまる点と思いますが、文章が難解過ぎるのです。「つねにすでに」とか。
☆ E.レヴィナスなどは 超越性の問題なんかで親近感がありました。のですが・・・。


★ それで、ボロアパートに引きこもってニルヴァーナとかテクノとかを流しながら小説を主に読んでおりました。
☆ そうですか。経験合理性を――わきまえつつ しかも――超えて自由な想像力による創作の世界のほうが しょうに合うといったところなのでしょうか。

★ チャールズ・ブコウスキー
☆ ざんねんながら 無知です。とほほ。

文体と言いますか 世の中の歩き方としてのご自分のエートスについて ずいぶんと分かりました。

★ そんな宮台先生、柄谷先生が・・・キリスト教へと接近していったというのをネットで知りました。
☆ この辺の事情は知りませんでした。おいおい分かるようになるかも知れません。


★ 毎日の生活
☆ が いちばんだとわたしも思います。そのために信仰があるのだと見ます。日から日へふかまっていけば その上ないと思います。




★ 生き方の問題になり、・・・「井の中の蛙が大海へ出て行ったら死ぬから井戸の中で満足していた方が幸せ」という考えです。
☆ 知らないでいるほうが しあわせであるという説ですね。これは 自然にまかせればよいと思います。文学の方面へ行ったり あるいはひょっとして哲学に足を踏み入れるかも知れません。(聖書の解釈は 哲学のほうが 一般性のある説明かとは思います)。

つづく

お礼日時:2021/01/30 10:02

>あらゆるいぢめ・ハラスメント問題。



いじめとかハラスメントはよくないことは確かですが、なくなることはないと思います。個人個人の人間性に拠るものでありますし、人間(=動物)としての「本能」的な差別・偏見は実際多様にあるからです。逃げるが価値と個人的には考えます。

>ジジェクですとかボードリヤールなど 関連する主題や提案がありましたら おしえてくださいませ。

ジジェクはラカン派マルクス主義者であるので、神など(いわゆる観念論)とはほど遠いです。そして、ボードリヤールも文章が非常に難解で、理解もできませんでしたが、神学とは(私が読んだ著作の限りでは)関連性はなく、主に現代社会のシミュラークル(ってわかりますかね?)の問題をテーマとしております。わかりやすく言うとコピー品が更なるコピー品を作る(それが現代社会)と。乱暴すぎる言い方ですが・・・・

そして、ジジェクは現在はコロナをテーマとしております。ボードリヤールは「芸術の終焉」(優れた写真家でもあった)を最後にすでに亡くなっておられます。

基本的にポストモダンの思想家は神をテーマとしないようです。ドゥルーズ・ガタリの共著でも「金が神に取って代わった」という論だったと思います。

正直に申しましてポスト構造主義の思想家にどれほどの価値があるのか疑問に思います。

ただ、柄谷と宮台がキリスト教へと接近していったという話を聞いたことがあり、これは興味深いなと感じております。

いろいろとためになる説・論を頂き、誠に毎回ながら感謝申し上げます。
m(..)m
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ いじめとかハラスメントはよくないことは確かですが、なくなることはないと思います。
☆ 早めに芽を摘み 大事に到らないことが 目標でしょうか。待ったなしでシガラミに巻き込まれることがあると思われますから。


★ ジジェクはラカン派マルクス主義者であるので、神など(いわゆる観念論)とはほど遠いです。
★ ジジェクは現在はコロナをテーマとしております。
☆ そうですか。唯物論――そして無神論も――は 形而上学だと理解しています。その点 唯心論的な観念論と その出で立ちはそれほど違わないとは思うのですが。


★ ボードリヤールも文章が非常に難解で・・・主に現代社会のシミュラークル(ってわかりますかね?)の問題をテーマとしております。
☆ そうですか。これは なお推測をおしすすめることもはばかられますね。よく知らないわたしには。


★ 基本的にポストモダンの思想家は神をテーマとしないようです。ドゥルーズ・ガタリの共著でも「金が神に取って代わった」という論だったと思います。
☆ 『アンチ・オイディプス』で手を焼きました。


★ 正直に申しましてポスト構造主義の思想家にどれほどの価値があるのか疑問に思います。
☆ あっ。そうなんですか。J.クリステヴァを割り合い多く読んだのですが ざんねんながら 多くが残っていません。分からなかったのですね。


★ ただ、柄谷と宮台がキリスト教へと接近していったという話を聞いたことがあり、これは興味深いなと感じております。
☆ 橋爪大三郎がクリスチャンで 大澤真幸も積極的に取り上げているのを読んでいます。

柄谷はそう言えば 最近では何でしたか 国連に代わる何とかの構想を言っていたように思うのですが 間遠くなっています。

宮台は youtube でときどき話を聞くことがあります。世界の思想をよくこなしているんですね。

お礼日時:2021/01/30 09:34

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