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1. 神は 絶対性ゆえ 相対存在なる人間が その世界における存在の相対性としての有る無しにちなんでそのいづれとしても 自由にまた互いに同等なかたちで忖度しうる。

1-1. かくして 同じひとつと普遍神について 《有る神》派と《無い神》派とが 互いに対等な立ち場でしたがって平和裏に共存する。はずだ。



2. ただし 相対性としての愛憎や真偽や善悪についてそれぞれの両者――善悪なら善と悪の両者――が同時に互いに自由に対等なかたちで えらばれることは出来ない。

2-1. 憎悪の神や悪の神が あり得るかに見えるけれども それらは 善の神や愛情の神と――相対的に有限なかたちで――対立するものであるに過ぎず 単なる仮象である。すなわち 絶対性なる普遍神とは別である。仮象とは ことばのあやだということ。

2-2. 普遍神は 善悪の彼岸にあり 真偽を超えた真理を言い 愛憎の両者をおおきくつつむ愛であると忖度される。

2-3. 言いかえると 《善の神と悪の神と》というふうに つねにペアとして持ち出して決して切り離さないならば まぁ 大目に見られるかも知れない。(ちょっと譲歩しすぎかも)。




3. 忖度の内容としての可能性の話であるが 《神は人間がこしらえたものだ》なる命題や《神を人間がナイフで刺しころした》なる推理は 成り立たない。

3-1. それらは 経験合理性に立つという前提から自由に創作し自己表現する文学・芸術の範疇を出ない。哲学にあらず。

3-2. こしらえたものなら 壊せる。また たしかに殺せる。――だが 絶対性をどうして相対的で有限なる存在の人間が どうにかすることが出来るというのか? ニーチェ葬送を早く済まそう。



☆ どう考えますか?

A 回答 (6件)

大変だね毎日こんな事考えてるんだね。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 大変
☆ でないことを 一生のあいだああぢゃこうぢゃといぢくってんぢゃ よっぽどタイヘンな人生ぢゃわい。


め・ざ・め・て。

お礼日時:2021/02/04 05:53

人それぞれなんだな。


きみは神の事一生考えてる。
俺は宇宙の事をよく考えるとエンドレスになる。
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この回答へのお礼

★ きみは神の事一生考えてる。
☆ それは違う。多くのひとが 神について間違ったことを言っている。ただすのが 哲学の役目。それをおこなっているのみ。

お礼日時:2021/02/04 08:07

自然界の摂理。


人為がそれと矛盾しないものならば
到達できる理想状態。
その実現を妨げる表層の作為
というものがある
とは思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

言わんとするところは つたわります。ただ げんみつには――それが哲学だと思うからですが―― 神の超自然性は ゆるくしたり曲げたりしてはならないとは思います。

★ 自然界の摂理。
☆ あるいは 宇宙の法則だとか言いますが これらはあくまで経験事象〔の中に見出される規則性〕であるに過ぎません。人知がおよぶ範囲なのです。


摂理という言葉では 神の絶対性たる真理につなげて捉えるような雰囲気がありますが それ〔だけ〕ではけっきょく言葉のあやであるに過ぎません。

太陽がほろび宇宙もどうかなる というのも摂理です。



★ 人為がそれと矛盾しないものならば
到達できる理想状態。
☆ すずめさんが この段階で考えておられるとは思いません。それでは あたかも動物や植物のおおいなる自然状態のことと錯覚しかねません。



★ その実現を妨げる表層の作為
というものがある
とは思います。
☆ その実践も大事です。そして いまこの設問では 神の定義を問うています。きちんとしていないと 実践もおぼつかない。

――のではないですか?

お礼日時:2021/02/05 05:18

bragelloneさん



無神論者でも、人の道に外れてなかったら

無神論者でもよくないかな?

宗教家であっても

人の道に外れてなかったらそれでいいのでは?

神って
人から認識されたいのか?
認識されなくても、人の道さえ外れてなかったら!怒らないのかな?


無神論者で道を踏み外す人や
宗教に溺れて道を歩めない人など

沢山世の中には居てるけどね

神の認識と人の道

質問読んでて、そこら辺が浮かび上がったから
オシエテヾ(・ε・。)クダサイ
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 無神論者でも、人の道に外れてなかったら
無神論者でもよくないかな?
☆ そのとおりだと思います。

さらにげんみつに言うとすれば 《人の道に外れる・外れない》は 知性(思考)ないし意志の振る舞いであり 思考に非ざる信仰とは別です。

信じる:非思考の庭:霊性
ーーーーーーーーーーーー
考える:思考の緑野:知性
感じる:感性の原野:感性

☆ ですから 信仰を――普遍神とわれとのカカハリなる非思考の庭〔なる動態〕としての信仰を――知性において 《有る神》派か《無い神》派かで呼ぶのは まったく互いに同等であると考えられます。自由にひとがえらぶものと思われます。



★ 宗教家であっても
人の道に外れてなかったらそれでいいのでは?
☆ 宗教家は 非思考の庭において得られたヒラメキから《ころすなかれ(不殺生戒)や むさぼるなかれ(物を=不偸盗戒。異性を=不邪婬戒)》といった倫理規範を 知性において みちびきます。そして しばしばこの《オシへ》こそが神であるという錯覚に落ち入ります。知性が 霊性だという錯覚です。

そのまま宗教組織の中でこれをぜったい守るべきオシへだとして説くなら それは 精神錯乱です。人の道から逸れました。


★ 神って
人から認識されたいのか?
認識されなくても、人の道さえ外れてなかったら!怒らないのかな?
☆ 神は ほかの何ものにも依存することなく ひとり満ち足りているものです。


★ ~~~
無神論者で道を踏み外す人や
宗教に溺れて道を歩めない人など

沢山世の中には居てるけどね

神の認識と人の道

質問読んでて、そこら辺が浮かび上がったから
~~~
☆ つまりあとは それぞれの人の主観内面における問題だとなると思います。

ひとは 他のひとの《神とわれとの関係》のあいだに割って入ることは できない相談です。本人でも《思考を超えたところの非思考の庭》なんですから まして他人が――その人の信仰は正しいかどうかなどを――把握のしようがない。

宗教家のように 他人のふところ(非思考の庭)に手を突っ込んで おまえの信仰はまちがっておるぞなどと 言えるわけがない。信教・良心の自由は かんぜんな自由です。


神とわれとは タテの関係。主観内面のみ。
われ(人)とわれ(人)とは ヨコの関係。内面につながる外面。

お礼日時:2021/02/05 10:45

人って集団に成らざるをえない生き物だから



( ̄~ ̄;)宗教家に厳しすぎるのではないかな?

宗教といえども
時代において移り行くから
ある程度は認めてあげる方が
bragelloneさんじたいの生き方も楽になるようには思いますよ
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この回答へのお礼

そうですね。この質問は こうです。
○ 神について人は 自由にいかようにも忖度しうる。けれども 明確にそうしてはいけない忖度もある。そういう場合 世に存続しているのはおかしいではないか。



★ 人って集団に成らざるをえない生き物だから
( ̄~ ̄;)宗教家に厳しすぎるのではないかな?
☆ おっしゃる内容は 次のように受け取ることができると思います。

☆☆ (№4お礼欄) 
神とわれとは タテの関係。主観内面のみ。
われ(人)とわれ(人)とは ヨコの関係。内面につながる外面。

☆ つまり ここで タテの関係は 信仰です。主観内面のみゆえ あくまで個人の個人としての問題だというものです。

ヨコの関係に 思想などをまじえた生活全般があります。

このとき 社会生活としてのヨコの関係つまりは広く構造的にもつながった人間関係にあっては――個人の心の問題としての信仰とは違って・またそれとは一たん別とするかたちで――思想や価値観の衝突によって 秩序の問題が生じ身の安全が 課題となって来ます。

これについては ふつう一般に 慣習や法律による共同自治によって対処しますが ほかに道徳だとかその種のオシへを説く宗教もが 顔を出してくるがそれは当然ではないか? と受け取られます。



議論を端折りますが どう神について忖度したかで良し悪しが出て来ます。
たとえば:
☆☆ 1-1. 同じひとつと普遍神について 《有る神》派と《無い神》派とが 互いに対等な立ち場でしたがって平和裏に共存する。はずだ。
☆ という内容に合致する忖度〔なるオシへ〕でなくてはいけない。という趣旨で問うています。一般に組織宗教は 独り善がりで排他的なら アウトです。

そういう宗教は 百害あって一利なしです。自己解体すべきです。ほかに道はありません。――これほど愛に満ちたやさしい姿勢はないでしょう。




★ 宗教といえども
時代において移り行くから
ある程度は認めてあげる方が
bragelloneさんじたいの生き方も楽になるようには思いますよ
☆ その《ある程度》の内容を具体的に挙げてくれますか? 

わたしの条件は オシへを〔――神そのものであるとして説くなら 一発でぜんぶがアウトなのであり もしそうではなく――〕まなぶべき思想として取り扱うなら なんの問題もないと見ることです。

お礼日時:2021/02/07 05:15

他者に寛容であれば


宗教といえども理解はできる

てな意味かな?
bragelloneさんの仰有るように
宗教は横のつながりが顕著であるから

縦の繋がりにたいして
疑問すら、持たせないてのが
ありますもんね


そもそも論で
他者に寛容であれば
宗教として集団になる必要性がないはずなんだけど

他者に寛容でない現実に嫌気がさして
宗教による結び付きを求めてしまうのも

人の性ですもんね
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この回答へのお礼

★ 他者に寛容であれば
宗教といえども理解はできる
☆ 宗教かどうかを問わず ふつうに自然な人間性の問題です。

★ てな意味かな?
☆ ええ。


★ ~~~
bragelloneさんの仰有るように
宗教は横のつながりが顕著であるから

縦の繋がりにたいして
疑問すら、持たせないてのが
ありますもんね
~~~
☆ それが カネも集まるし 或る程度の数の《信者》を集めてデカい顔をしています。


★ ~~~
そもそも論で
他者に寛容であれば
宗教として集団になる必要性がないはずなんだけど
~~~
☆ ええことゆうなア。


★ ~~~
他者に寛容でない現実に嫌気がさして
宗教による結び付きを求めてしまうのも

人の性ですもんね
~~~
☆ 組織宗教をほうっておくからですよ。そのちょっとした気のゆるみが 命取り・・・!?

お礼日時:2021/02/07 05:51

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