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『会議は5時に始まります』


A.この文における格助詞「に」は、会議の始まりを5時と時間的に位置付ける認識を表している。(アスナロウ)

という定義がありますが、「に」の本質的意義を捉えるためには、

B.この文における格助詞「に」は、会議の始まりを5時という着点に時間的に位置付ける認識を表している。(hakobulu)

と考えるのが妥当と思います。
A を否定するわけではなく、さらに正確に定義づけたいということです。
ここで「着点」とは何を意味するのか?
という(尤もな)疑問が生じると思いますので、それを解説しつつ、みなさんのご見解を伺いたいと思います。

まず「に」に関する辞書語釈を見るたび、すべての用法において「動作・作用が落ち着いて止まる先を表わす」という共通点があるように以前から感じていました。
杉村泰氏『イメージで教える日本語の格助詞』で「着点」という発想に触れ、まさに「に」の本質的意義を喝破していると感じ、意を強くした次第。
曰く、
《 一般に格助詞「に」には多くの意味役割が付与されている。しかし、これら
は全て〈着点〉という一つのプロトタイプ的意味に還元することができる。》
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/sosho/1/sug …
実は内容を精査しているわけではないので、このサイトの内容とは異なる記述になるかもしれませんが、その点は先にお断りしておきます。

また学研国語大辞典では、「に」の本質を、
《動作・作用が存在し、成立し、由来し、おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定し、連用修飾句を作るのに用いる。》
のように解説していますが、数ある辞典の中では、もっとも優れた語釈と思います。
「おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)」=「着点」であることは明白でしょう。

「着点」という概念の理解にネックとなるのは、「始まる」のになぜ「着点」なのか?
という疑問ではないかと思われます。
『会議は5時に終わります』を例文としなかった理由もそこにあります。
「着点」という概念を、
《動作の発生し成立(する・した・しそうな・・・etc.)現場として指定された静止点》
のように考えてみてください。
動作には必ず動きが伴いますが、その動きが発生し成立する現場を静止点として指定する。

『会議は5時に始まります』には、始まるという動作の発生し成立する時間的現場を「5時」という静止点として指定する(話者の)意図があるわけです。
似たような表現として、
『会議は5時から始まります』があります。
こちらの場合「動作の起点となる現場」を「5時」と指定している。
『会議は5時に始まります』の場合「5時」は起点ではないのですから、たとえ「始まる」という動作であっても、5時が着点であることとは別に矛盾していないことがお分かりになると思います。

「始まる」という《動作の発生し成立するであろう時間的現場として指定された静止点》が「5時」であるという話者の認識を表わしている。

ということ。
これを簡潔に述べると、

B.この文における格助詞「に」は、会議の始まりを5時という着点に時間的に位置付ける認識を表している。

となる。


このように「着点」に拘るのは、

A.この文における格助詞「に」は、会議の始まりを5時と時間的に位置付ける認識を表している。(アスナロウ)

という定義の仕方の曖昧性にあります。
端的な例で、
『会議は5時から始まります』
の場合にしても、

(A-1).この文における格助詞「から」は、会議の始まりを5時と時間的に位置付ける認識を表している。

と解釈できなくはない、ということ。
つまり、本質的意義としても、

(ア)格助詞「に」は空間的・時間的な位置付けの認識を表わす。(アスナロウ)

では(間違いではないが)不十分ではないか、ということです。
日本語学習者の方は、おそらく迷うと思われます。
もうひとつ

a. 東京に住む。
b. 東京で住む。
を比較してみます。

b. の「で」は、「動作が為される状況(環境)や成立条件を表わす」という用法(手段という用法でも構いませんが)の格助詞ですが、

(A-2).この文における格助詞「で」は、住むという動作を東京に空間的に位置付ける認識を表している。

と解釈できなくはないでしょう。
以上、お示ししたように、たとえば「から」や「で」と「に」の違いを明確にするためには、「着点(静止点)」という概念が必須ではないかと思う次第です。

みなさんのご見解をお聞かせいただければ有難いと思います。

質問者からの補足コメント

  • >ここに、具体的な動詞について何か何か触れていますか?

    「規範」を述べている箇所ですから具体的な動詞について触れているはずはないですよね???

    『格助詞「に」自信の意義に動詞は関係ありません』とおっしゃいますが、
    《格助詞「に」は(動作・作用などの)空間的・時間的な位置付けの認識を表わす。》のだから、「動詞は関係ありません」ということはありませんよね?

    とお尋ねしていることぐらい理解してくださいよ。
    《格助詞「に」は(動作・作用などの)空間的・時間的な位置付けの認識を表わす。》は規範じゃないんですか???

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/02/10 00:26
  • 若干修正です。

    ×
    これのどこが、『客体の具体的な運動を持ち出す』ことになるのですか?
    ぜひ教えてください。


    このように規範も示しているのに、『客体の具体的な運動を持ち出す』ことのみを取り上げて批判するのは、どういうつもりですか?
    ぜひ教えてください。


    因みに、新規質問も立てましたのでお時間のあるときにでも覗いてみてください。
    色々難しいことはご存じなのかもしれませんが、少なくとも現状では、あちらこちらに対する批判の根拠が明らかに曖昧であり矛盾だらけです。
    論点、特に相手の言った内容ですね、これを明記した上で論理的に批判なさることをお勧めします。まあ、こちらの表現力が乏しいせいでご迷惑をおかけしている面もあるのでしょうが、その点はご寛恕のほどを。
    因みに、難しそうな用語や決まり文句を使ってのコケ脅しは私には通用しませんので悪しからずご了承ください。

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/02/12 01:35

A 回答 (13件中11~13件)

>>どのような点が誤りなのか?



意味とは何かを明らかにできず、語の意義と意味の区別ができていないと指摘していますが?

>>「着点」という概念の理解にネックとなるのは、「始まる」のになぜ「着点」なのか?
という疑問ではないかと思われます。

いいえ。格助詞「に」自信の意義に動詞は関係ありません。それが関係するのは文としての意味の問題です。この点の理解が欠けています。

>>格助詞「に」の意義とは何か-機能主義言語論の混迷
は拝見した上での反論であることは、内容をご覧になればお分かりのはずでしょう。

いいえ。質問を見る限り全く理解されていません。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>格助詞「に」自信の意義に動詞は関係ありません。それが関係するのは文としての意味の問題です。この点の理解が欠けています。

驚きますね。
まったく理解していないようです。

格助詞「に」は空間的・時間的な位置付けの認識を表わす。(アスナロウ)

の意味を分かっているのですか?
これは、

格助詞「に」は(動作・作用などの)空間的・時間的な位置付けの認識を表わす。(アスナロウ)

という意味に決まってるじゃありませんか???
『格助詞「に」自信の意義に動詞は関係ありません』などとなぜ言えるのですか???
ちょっと頭を休めてから、また出直してください。
せっかく良い知見をお持ちなのですから、あとは、その提示の仕方だけ、少し考えていただきたいと思います。
素人だと思ってバカにしてるとしっぺ返しをくらいますぞ?(笑)

とりあえず、質問文を再読していただき、これこれの箇所が不合理である、といったように具体的に指摘した上で批判していただくと、非常に有難いと思います。

お礼日時:2021/02/09 22:53

なお、こうした誤った言語観に基づく教育が学習者にいかなる混乱を齎しているかについては、



岡田 美穂 / 林田 実
日本語学習者による格助詞の混同 : 存在場所の「に」と範囲限定の「で」
https://repository.ninjal.ac.jp/?action=pages_vi …

を参照下さい。ここでも、現状と問題提起に終わり、原因の解明には至っていません。そのために、杉村泰氏『イメージで教える日本語の格助詞』などが提起されていますが下記のような根本的な問題に気付いておらず問題の解決になっていないのが現状です。■
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この問題を明らかにするためには、語と文の相違、語の意義と文での意味の相違と関連を明らかにする必要があります。



残念ながら、質問者も、認知言語学に依拠する杉村泰氏『イメージで教える日本語の格助詞』でもこの区別ができていません。

これは、認知言語だけではなく、現在のソシュールパラダイム下の言語論が意味論を持たず、言語規範であるラングを言語本質とする言語観の誤りに起因しています。

質問者が、

A.この文における格助詞「に」は、会議の始まりを5時と時間的に位置付ける認識を表している。(アスナロウ)
という定義の仕方の曖昧性にあります。

というのは文の意味と「に」の語義を混同し、区別できていないためです。この文が、5時を始点として表しているのは、「会議」動詞「始まる」などの語との関係により決まるのであり、それは文での意味の問題です。

>A を否定するわけではなく、さらに正確に定義づけたいということです。

というのは、語の意義に意味を重ねようとしているもので、「会議」や動詞「始まる」という語とは直接関係のない「に」自身の語彙の意義に意味を持ち込むのは論理が逆転しています。

詳しくは、

格助詞「に」の意義とは何か-機能主義言語論の混迷
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9186 …

を参照下さい。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>これは、認知言語だけではなく、現在のソシュールパラダイム下の言語論が意味論を持たず、言語規範であるラングを言語本質とする言語観の誤りに起因しています。

どのような点が誤りなのか?
を探るために、色々論議してるわけですから、その点について言及しないと不毛ですね。

>A.この文における格助詞「に」は、会議の始まりを5時と時間的に位置付ける認識を表している。(アスナロウ)
という定義の仕方の曖昧性にあります。

というのは文の意味と「に」の語義を混同し、区別できていないためです。この文が、5時を始点として表しているのは、「会議」動詞「始まる」などの語との関係により決まるのであり、それは文での意味の問題です。

相変わらず他人の文をまじめに読んでませんね。(笑)
そういうことを言うと思って、

「着点」という概念の理解にネックとなるのは、「始まる」のになぜ「着点」なのか?
という疑問ではないかと思われます。
『会議は5時に終わります』を例文としなかった理由もそこにあります。

とちゃんと断っているじゃありませんか。
そのような疑問が湧くのも尤もですが・・・、と断った上で、そうじゃないという根拠を述べているのですから、その根拠の部分を読んで、反論があるなら、その中の箇所を指摘したうえで反論しないと論理的反論とは言えません。
大言壮語に陥ってしまっては、不毛地帯が広がるばかりかと。

格助詞「に」の意義とは何か-機能主義言語論の混迷
は拝見した上での反論であることは、内容をご覧になればお分かりのはずでしょう。
何が食い違っているかも先行質問で指摘させていただいている。
もう少し実質的な(=具体的箇所を指摘した上での)反論をお願いしますよ。

お礼日時:2021/02/09 22:26

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