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ナポレオンはスモレンスク、ボロディノで決定的勝利を掴めず
モスクワを占領するもロシア側が屈することはなく、
冬の訪れと共に悲惨な撤退行を開始。結果壊滅的打撃を被った…が
ロシア遠征のよくある記述です。
しかし、よく読むと「ロシア遠征開始時(1812年6月24日)の兵力42万強。
10日間の休息を取ったヴィテブスク到着時(同7月28日)の兵力17万5千」とあります。
この間(少なくとも記録に残るような)戦闘は無く、ただ1か月ロシアの平原を行進しただけですが
それで総兵力の60%近くが消滅したことになります。

1.その時点で消えた24.5万はどうなったのでしょうか?
2.60%近くもの兵力を無くした段階でどうにかすべきだったと素人目にも思いますが
  A.何故遠征軍は何事も無かったのように進軍した(できた)のでしょうか?
  B.何故それだけの兵士の逃亡/脱落を見過ごしたのでしょうか?
  C.上記が「元々期待してたのはフランス軍だけ、それ以外の部隊の脱落は織り込み済み」
    だからであれば42万を集める意味あったのでしょうか?
    戦う前から兵力の半分以上を無くす司令官なんて嘲弄されるだけで
    メリット何も無いと思うので。

この辺りの話は中々出てこないので、どなたかご教示ください。

A 回答 (3件)

だいたい大所帯で攻めらた。


無条件で何か合意でも出来ると思い込んだ
しかし、国土の広いロシアはへ~1つの農村なんて守ってないし
途中、食料が減るし病気は出る。やる気は出ないわ
そして、寒い。 寒さでしんじゃう~
冬対策してないので、やべ~撤退するわ~となった

ただの消耗戦て負けた
補充基地を設けて精鋭だけ良かったんだろうね
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2021/05/02 00:27

1.ヴィチェプスク到着時点で6割もの兵力が消滅したわけではありません。


10万人程度は病死と脱走兵により消滅しましたが、残りの減少分は殆どが後退時の退路や補給地点確保のために途中で前進部隊から切り離されたもので、兵力にカウントされていないだけの話です。物資が集積されているヴィルナやカウナス、7月8日に占領したミンスク、その他の中継補給地点などに、かなりの兵力を残しているのです。

2.現実にはヴィチェプスク到着(8月より前の)時点では60%も減少しておらず、病死と脱走兵合計で全軍の25%程度の減少だったからです。25%程度の損失ならナポレオンは戦えると判断したのでしょう。ヴィチェプスクに到着してから12日後の7月28日に、ナポレオンはミュラ元帥に「第一次ロシア遠征は終わった。1813年に我々はモスクワに、1814年にはサンクト・ペテルブルクにいるだろう。ロシア戦役は3年間の戦争だ」と述べています。

逃亡兵を見過ごしたのは、やむを得なかったものです。当時の軍隊は補給が足りなければ食糧などは現地調達でしたが、ロシア側が焦土戦術で撤退していったので、食糧調達ができなかったのです。
ロシア遠征時点のフランス兵は、徴兵でかき集められた若い兵士の割合が非常に高くなっていたので、以前の募兵による義勇兵が主体で徴兵された兵士の割合が少なかった頃ほど戦意は高くありません。召集逃れのために自分の肉体を傷つける(指を切り落としたり、前歯を折ったり、足の骨を折ったり、片目を潰したりする)ことや偽の死亡届を作ったりすることもあったくらいです。応召後も、ある程度の割合で軍から逃亡する兵士がいたのです。同盟軍に至っては、もっと戦意が低いわけです。食事が満足に出来ない飢餓状態の上、病気が蔓延して死者が大量に出たことで、脱走兵が増加したのは当然のことです。尚、病死はシラミが媒介する発疹チフスが主で赤痢は一部だったたようです。
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この回答へのお礼

なるほど、補給線が断ち切られないよう兵力を残置させていたとは思い至りませんでした。…その残置兵力がどうなったかは気になる所ですが。
実際の減少幅は3割弱だった、脱走は織り込み済み、も了解です。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2021/05/02 00:30

No2様に同意。



>1.その時点で消えた24.5万はどうなったのでしょうか?

回答1:コロモジラミによる発疹チフスに罹った。

ナポレオン軍は敵から身を守る為に、夜は塹壕を掘って密集して野営していた。
その間入浴をせず肌着も変えなかった。

当時は「衛生」という概念すらなかったので、戦場で病気が流行るのは頻繁にありました。
当時は戦争は戦士より病死が多く、それもあって兵の1/3が死ぬと言われていました。
ナポレオン自身も若い頃にマラリアに罹っています。


B→見過ごした と思う根拠は何ですか。
回答C:脱落者が出るのが確実なら、それ以上を集めるのは当たり前。
回答A:ある程度の覚悟はしていた→何事も無く進軍したわけではない。

しかし、ナポレオンはまだマシな指揮官だと思います。
ナポレオンは、新兵に種痘を施したり、知り合いのドミニク=ジャン・ラレー男爵を軍医長に登用しています。
(男爵は戦場を巡って負傷兵を治療する救急馬車の考案で医学史に記憶されています)
「ナポレオンのロシア遠征:前半部分の疑問」の回答画像3
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この回答へのお礼

病気の影響がそこまで大きいとは。勉強になりました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2021/05/02 00:32

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