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私は宗教、道徳と科学とは偏りがあってはいけないと思います。しかし、現代において科学の進歩により宗教観が著しく廃退しているように思えます。皆様は宗教と科学の接渉の場で現代どんな問題が生じているとお考えでしょうか?ご貢献を賜れば幸いです。

A 回答 (9件)

 mfkopsd さんのご質問の趣旨に合うかどうか分かりませんが、ちょっと気になったので立ち寄らせていただきました。



 mfkopsd さんは「宗教、道徳と科学とは偏りがあってはいけないと思います」と言っておられます。しかし、そもそも偏りのない宗教等はあり得ないでしょうし、科学においても事情はそう変わらないと思います。水素をHと表し、酸素をOと表すのは、化学の約束に従っているだけで、客観的かどうかとは無関係でしょう。物理学や化学、生物学等は確かに厳密な概念と方法を駆使して客観的に現実を解明するように見えますが、それらは一定の価値観の上に「推論」し、「仮説」を立て、実験等によって「実証」するのであって、その過程全体の根底にある価値観自体の客観的正しさが実証できるわけではありません。科学的態度とは没価値的な態度のことであって、普遍的なあるいは客観的な態度ではないと思います。
 例えば、科学は人間を月に送り届けるロケットを作ることはできても、人間が月に行く事が正しいかどうか、どれほどの価値があるのか、それは科学的「客観性」や科学的「普遍性」によって答えることはできません。それは、科学以前の価値観によってしか答えられず、その根本的価値観が「偏った」ものでない保証はどこにあるのでしょうか。また、医学は人の人の生命の尊重を至上とする前提の上に発達したてきましたが、生命尊重という命題自体がどこまでも絶対的なのか、それはある地点で正しさを失うのかという問題が生じた時(例えば安楽死の問題、無意味な延命治療をどこまで認めるかと言う問題等)、問われているのは医学以前の人間観、価値観であって、医学の「客観性」「厳密性」はその問題に答える力を持たないでしょう。科学自体がどれほど客観的な装いを見せても、その全体が載っている土台は、科学と無縁な価値観に支えられているのではないでしょうか。
 また、「科学」それ自体の問題もあります。現在の自然科学はヨーロッパで発生、進歩した局地的なものであるにもかかわらず、現在は人類全体を支配しています(それであたかも客観的であるかのように見えてしまうのです)が、その過程で日本、中国、アジア、南米等の地域にあった自然観、価値観を抑圧し破壊することで世界を制覇したわけです。それは、西欧の科学が自然を対象化し、道具化し、目的化する(それ自体が一つの偏った考え方であり、偏った態度です)ことで、それを支配し征服する強い力を発揮したということであって、そのことが「偏りがない」ことを意味しないのではないでしょうか。
 人間は自分の頭の中で「自然」や「社会」、「人間」、「世界」といったものをイメージし、そのイメージに合わせて現実を解釈し、判断し、行動するしかありません。人はそれを自分の日常経験に照らして行いますが、科学も宗教も、人間にそのイメージを提供する手段の一つです。しかし、科学であれ、宗教であれ、どの解釈もすべて人の主観的な偏りを免れない点では同じです。本当に「普遍的」「客観的」にものを見、捉える能力を備えた存在として「神」を想定することは可能ですが、人間がそのような普遍的、客観的能力を備えることができるとは思えません。人間にとって、自分の目や感覚(五官)は空気のように自明で透明のものですから、それが「偏向」しているかどうかは、自分自身では分からないでしょう。むしろ、常に一面的で偏っているところに、人間の人間たる所以があるようにも思えます。
 宗教にしろ科学にしろ、何かの領域に立脚する事で偏向していない価値観に立てると考えることは、議論の前提として問題があるのではないでしょうか。

 議論の本筋とは離れているかもしれませんが、私にはこの前提が大事だと思えるので、ちょっと書かせていただきました。
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この回答へのお礼

例えば、科学は人間を月に送り届けるロケットを作ることはできても、人間が月に行く事が正しいかどうか、どれほどの価値があるのか、それは科学的「客観性」や科学的「普遍性」によって答えることはできません。それは、科学以前の価値観によってしか答えられず、その根本的価値観が「偏った」ものでない保証はどこにあるのでしょうか。また、医学は人の人の生命の尊重を至上とする前提の上に発達したてきましたが、生命尊重という命題自体がどこまでも絶対的なのか、それはある地点で正しさを失うのかという問題が生じた時(例えば安楽死の問題、無意味な延命治療をどこまで認めるかと言う問題等)、問われているのは医学以前の人間観、価値観であって、医学の「客観性」「厳密性」はその問題に答える力を持たないでしょう。>納得しました。ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/26 03:20

>人間の規範となるようなすばらしい宗教があれば世界は少しでも平和にちかづくとも思います。



人間の規範となるものって存在するんですか。
決定できるものなのでしょうか。

日本人のほとんどは宗教を信仰していないと思います。
日本は規範となる宗教 いや 宗教が無いことでやがて近い将来滅ぶのですか?
戦後天皇は神では無いってなり神を失いました。
日本は滅びましたか。
どっかの国を乗っ取りましたか。
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この回答へのお礼

滅ぶかどうかは分かりませんが、宗教心、道徳のなさが、この日本にも今現在顕著に現れているとは思いませんか?また戦時中の天皇の独裁が正しい宗教ではないでしょう?ここらへんは個々の考え方の違いです。
kigurumiさんの考えも私の中にしっかりとインプットされましたよ^^そういった考えかたもあると学べることができ感謝しています。ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/26 12:47

Mfkopsdさん、こんにちは。



結論から先に
●科学は宗教より普遍的である

宗教は多様性に満ちています。それは「根拠の無いもの」を信じているからだと思います。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、「同じ神」を信仰していることはご存知でしょうか。「この土地は神が我々に与えた」「私は神の子だ」「私のみが神の声を聴くものである」云々。「同じ神」を信じるもの同士でさえ争いが絶えません。多くの戦争には、直接間接を問わず宗教が関わっています。

(ポパー的反証性を有する限り)科学は宗教より普遍的です。それは「根拠のあるもの」を信じているからだと思います。根拠があるということは、極論すれば「普遍的」であるということです。

イギリス国教会の牧師の90%以上が、聖書の「天地創造」の話はフィクションであると考えています。宗教が廃頽すれば、少なくとも「フィクションに基づく諍い」は無くなるのではないでしょうか。そして「科学の進歩により」宗教が廃頽するのであれば、科学の進歩は寿ぐべきことではないでしょうか。

このような理由で私は宗教の復権を望みません。

Mfkopsdさんは「宗教・道徳」とセットにされていますが(というより道徳の方に重きを置いておられるようにお見受けします)、道徳が宗教にのみ依拠すれば、異なる倫理観が並立することになります。異教徒を排斥殺戮することが正しい道徳である、そういう人たちもいます。道徳観の中央には「科学的事実」があるべきだと思います。

じつは私は「敬虔でない」クリスチャンなのですが(イギリス国教会と同じ宗派です)、宗教がone of themであろうとしないのなら、廃れても構わないと思っています。

ただ
●科学とは「科学的手法」に対する信仰である
とも言えますが。

質問の趣旨に合っていますでしょうか?
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この回答へのお礼

科学というものは信じるものなんですか?信じるというよりも私は疑うことのように捉えていました。哲学的な面でいう懐疑から生まれたもののような。。。。でも、確かに宗教とは違う普遍的なものであるというのは分かります。とても勉強になりました。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/26 03:30

宗教と科学の関係が問題にされる際に、いつも気になることが何点かあります。


ひとつは、「宗教」という言葉の定義がひどく曖昧なこと。それからもうひとつは、「宗教」に否定的な啓蒙主義的態度についてです。

まず「宗教」という言葉の問題ですが、大抵の人はこれを定義せずに漠然と使っています。多いのは、“何々教”や“○×宗”という具体的な姿を念頭においた、「宗教教団」という意味での用法でしょう。しかしこの意味だとすると、そもそも問題のたて方からしておかしなことになります。「宗教教団」と「科学」とを同列にして対置的に扱えるわけはないからです。

例えば「いのち」という言葉には、形のない「生命力」という意味もあれば、それが具体化した個別の「生命体」という存在を指す場合もあります。「宗教」という言葉についても同じように、人間の持つ「宗教的感覚や態度一般」と、その顕現の社会的形態である「宗教教団」などを峻別してかからないと、何かほかの概念と比較検討するようなことはおぼつかなくなるのではないでしょうか。もちろん、ご質問の場合は前者が問題になるわけでしょう。

私自身の考え方は以前にも回答していますが、広く世界を意味づけする行為のなかに「宗教的な態度」も「科学的な態度」もともに存在するのではないか、と思っています。両者の棲み分けは、後者が「自分」を除外して限定的・客観的に世界にアプローチしようとするのに対して、前者は「自分」を含めた世界の意味づけを行おうとする、ということです。

http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=266052 「宗教ー哲学ー科学・どう違うんでしょう?」

こう考えると、宗教のフィールドはきわめて広くなります。例えば、「人間、死ねば単なるゴミ(物体)となる」という言説があります。さも科学的態度のように言われることがありますが、これは本来科学が語りえない事柄について、現在の「私」がある価値観を投影した結果ですから、この言説自体も、一見すると反宗教的でありながら、実は非常に「宗教的」な態度としてみなし得ることになります。(これは別に極論ではありません。現実にそういう立場をとる宗教学者は非常にたくさんいるのです)

それから、そういう視点をもう少し進めると、果たして我々の生活のあり方は、厳密に「科学」や「宗教」といった切り口で分解できるのか、という疑問も生まれます。
ひとつの参考ですが、社会学や文化人類学には「全体的社会的事実」という言葉があります。デュルケームやモースといった人たちが使った術語ですが、ある社会現象のなかに、非常に多様な制度群が分かちがたく混ざっていて、ひとつの角度からのアプローチを許さない、そういう社会のありようをいうための言葉です。

モースはこれを、人々が相互に義務的な贈与をくり返す(いわゆる)未開社会の現実を表すために使いました。自分のものを他人にあげるという人間同士の贈与関係が、彼らの社会のなかでは経済制度でもあると同時に道徳規範でもあり、政治体制でもあるし、神々との関係を含んだ宗教体系でもあるし、審美的な基準の体系でもある・・・といった具合に、非常に根の深いシステムであって、どれかひとつだけを切り出せないことに驚いたのです。今現在モースが再評価されるのは、社会のあり方を全体としてとらえる、いわば人間学的アプローチを行った点なのですが。

一般に、このような見方は啓蒙主義的あるいは進歩主義的な人々からは忌避されます。宗教など一切の不合理(あるいは迷妄!)から解放されることで、人間はより自由かつ有意義な存在になれる、という論理です。つまり未開であるがゆえに社会のあり方が混然としているのだ、というわけで、現在でも宗教を否定する人たちの心情は、およそこの考え方のヴァリエーションの範囲にあります。

しかし、モースなどの言説の本旨は、一見不合理や非科学的と見えるもろもろのものが、実は個人や社会に意味を与えている当のものだということで、それをいくら啓蒙によって剥ぎとったところで、あとに人間の本質など残らないのではないか、という点にあります。
歴史的に見ても、例えばファシズムなどは、啓蒙主義的思想が社会を漂白した後に生まれた社会の「意味の空白」を埋めるための、いわば「意味の怒涛」であったと見ることもできます。また、そのような人間解放の結果、宗教的な原理主義がより強まっているのではないか、また、社会規範の解体が加速させた現在の経済至上主義は、よく言われるようにそれ自体が貨幣をフェティッシュとした宗教のひとつの形態になっているのではないか・・・。

「全体的社会的事実」というとらえ方をしないといけないのは、現代の我々についても事情はさほど変わらないのであって、意識しようとしまいと、たとえご飯を食べることや経済的活動を行うことすらも、「私」が世界と向き合うという意味では宗教的な行為としてアプローチしえるのです。極論すれば、「科学」というのも、宗教的存在たる人間の行う行為のなかの、ごく限定的な態度のあり方をさして言う言葉だ、とすら言えるでしょう。

「宗教教団」ではなくて、広い意味の「宗教」を考えることは、社会全体を考えることに他ならないのです。こういう掲示板では、「宗教はダメだ」と言っておきさえすればそれで済みますが、社会と宗教の関係は、そんなに単純に切って捨てられるものではないと思います。

長文ご容赦ください。ちょっとご質問の趣旨からははずれましたので、必要なければ無視してくださって結構です。
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この回答へのお礼

広く世界を意味づけする行為のなかに「宗教的な態度」も「科学的な態度」もともに存在するのではないか、と思っています。両者の棲み分けは、後者が「自分」を除外して限定的・客観的に世界にアプローチしようとするのに対して、前者は「自分」を含めた世界の意味づけを行おうとする、ということです。>確かにそのように感じます。その他にも納得のいく部分が多々ありました。長文本当に有難うございました。

お礼日時:2005/02/26 03:33

んー



北朝鮮って一種の宗教団体のように思います。
それよりもっと脅威を感じる宗教があります。
科学兵器を使って一瞬にしてターゲットを数日で破壊するのでたまったもんじゃありません。
これを目の当たりにしたとき、宗教は怖い!!って思いました。

てっきりそのリーダーは落選すると思いました。
そんなこと人類の倫理からいって許されるはずなどないと思っていました。
ところがその宗教の信者達が強力なバックアップをして再選させちゃいました。
さらにより兵力拡大のため予算が組まれ日本の金もそっちに流れるようになると思います。
とても恐ろしいです。
宗教が科学を使って人類を殺していく未来へとばく進していきます。
オウムなんてかわいいものです。
愛と平和となにより科学兵器により世界を牛耳ろうとするその宗教。
それを強力に支援する信者達。
この信者達が洗脳されて恐怖心を煽られ盲目になり協力さえしなければ成立しない政権なんですよ。


表向きは愛、その手には人殺しの兵器。
にっまりわらいながら日本人の胸元に銃口をつきつけ、「あなたに神の祝福がありますように 祝福(利益)を受けたかったら元手金さっさと出せ」


>宗教と科学の接渉の場で現代どんな問題が生じているとお考えでしょうか?

宗教団体が科学使って征服をしようとしているというのが問題なんですよね。
だから科学の発達によって宗教の勢力が弱まったのではなく、宗教と科学と別々なのでもなく、一体化したからこそそれぞれは弱くなったけど、一体化したものは脅威になったわけで。

その変異を果たした団体を潰すにはそのリーダーを拘束して、権力からはずすしかないですが、なんせそのリーダーのやることで利益を得ている信者たちが黙ってはいないと思います。
宿主を失いたくないでしょうし。
そのパラサイトした人たちの手に他人の血がこびりついているという認識はとっくにしていると思います。
神より金。
神より自分。
それにパラサイトされていると気づかない無知な信者達。


昨日皇太子がスピーチしているなかにドロシー・ロー ノルトの言葉が紹介されていました。
すごい!
トンデモ本では日本の天皇が血筋を引いているとかいないとか。
そんなことはどうでもいい。
愛と平和を望む真の一族だ。
なんて思いました。
私単純かしら。
でも感動的な言葉だったし、人を滅ぼそうする邪悪に立ち向かえる言葉だと思った。

マッカーサーに一族皆殺しにされなかったことで、まだ人類に救いはあるんじゃないかって思いました。

宗教なんていらない。
他人を生かす道を模索する。
そうすれば自分も死なない。
これが人類が滅亡しないことだって思った。
皇太子には強いリーダーの素質ありって思いました。

暴力による利潤追求=今の世界。
無暴力による平和追求=日本

でもポチが・・・苦笑
でもポチ以外日本をひっぱっていけない。

誰か言ってました 『無知は罪です』
自分も含め早く罪から開放されるよう模索するしかないかしら。

結局 人類が今自己利益追及に目が向いているから宗教もなにもあったもんじゃないと思います。
平和を願うとき 宗教なんていらない みんなで願えば宗教がなくても平和になる。
願わず自分の事しか考えていないから こんな世界にしかならない。
子どもでもわかる当たり前の事なんですよね。
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この回答へのお礼

結局 人類が今自己利益追及に目が向いているから宗教もなにもあったもんじゃないと思います。
平和を願うとき 宗教なんていらない みんなで願えば宗教がなくても平和になる。
願わず自分の事しか考えていないから こんな世界にしかならない。
子どもでもわかる当たり前の事なんですよね>私もそう思いますが、宗教がなくなれば平和になるわけではないですし、人間の規範となるようなすばらしい宗教があれば世界は少しでも平和にちかづくとも思います。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/26 03:37

すいません、補足要求です。



>宗教と科学の接渉の場
の意味がよく分かりません。
まず「接渉」は「折衝」の間違いでしょうか?

とりあえず折衝の意だったとして、「宗教と科学の折衝の場」を
私は「創造論と進化論の論争」のようなことだと思ったのですが
間違いないでしょうか?

仮に「創造論と進化論の論争」だったとして
その問題を考える「科学哲学」という専門分野がありますが
そこで議論されている内容では
mfkopsdさんのご質問の主旨に沿わないのでしょうか?

以上が補足要求です。

以下、私の独断と偏見に満ちた意見です。
>しかし、現代において科学の進歩により
>宗教観が著しく廃退しているように思えます。
それは、科学の進歩以上に
宗教側の怠惰と欺瞞が原因なのではないかと思います。

この回答への補足

そういったことも含めての、科学と宗教の重なる部分といえばいいんでしょうか。。。

補足日時:2005/02/25 00:43
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科学は万能だといわれています。

確かに科学は万能だといえるでしょう。しかし、現在の地球の科学は発展途上の為、宗教の世界観について行くことが出来ていません。

また、それぞれの分野は敵対しがちですが、本来は同じものを語っているのではないでしょうか。

例えば、キリスト教の御父・御子・精霊は、東洋の太極・陽・陰に、科学では中性子(プラズマかも)・プラス・マイナスに、対応しています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。なるほどって思いました。

お礼日時:2005/02/26 03:39

 話を人文科学の中の経済学についてのことにさせていただきます。


 
 科学は目に見える事物の観測、再現性を基にしますから
 経済事象についてもある経済政策の可否を「科学的に」検証
 しようとすると、過去に事象としてデータ化されたものを
 よりどころとする傾向になります。
 つまり経済学が「科学的」なものであればあるほど
 もう確定され、静止した世界を前提とするのです。

 ところが考えてみてください。たとえば20年前の電話帳と
 現在の電話帳の企業欄を比べると、XXファクトリーや
 △△コンテンツ、○○コーポレーションなどのかたかな言葉の
 企業が大幅に増えていることが分かります。
 つまりこの世界は絶えず「新たなもの」が生み出される
 「動いていく」場なのです。
 
 それなのに「科学的」という誤った常識のもとに、たとえば
 「不景気対策」として公共投資を繰り返してきた結果が 今日の日本の破綻状況を生み出しているのです。
 
 もちろん銀行の融資姿勢もそうです。「生み出す力」に目を向けず
 「目に見えたもの」だけをよりどころとする「担保主義」「実績主義」が
 「目に見えたもの」同士の奪い合い → 過当競争 を生み、
 今日のような不良債権の山を築いているのです。

 
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この回答へのお礼

確かに分かるのですが、目に見えないものにお金を貸すことができるほどの余裕はもうこの日本には残っていないのでしょう。また過去を知らない人(国)が新しいものを作り出すこともできないでしょう。確かに未来を見据えることができたら良いのですが、そこまでの知識と知恵が今の政治家等(国民)にはないのでしょうね。。。。ご回答有難うございました。

お礼日時:2005/02/26 03:50

 科学は、客観的な観察・追実験による確認・考察による論証のできるものを信じます。

したがって、比較的正確であると期待できます。しかし、客観的な追実験が出来ないものや、考察による論証のできないものや、現代の科学を超える内容に対しては、無力です。
 一方、宗教は、そうしたもの、たとえば霊の世界を、信じていく傾向があります。
 もし、科学を信じる人が、科学で証明できないから、という理由だけで、たとえば霊の世界・UFOの存在といったものを否定してしまうなら、それは、本当は科学的な態度ではないでしょう。なぜなら、未知のものを探求する態度こそが、科学的な態度であるからです。
 しかし、多くの科学者は、そうしたことを探求するよりも、先に探求したい現実的なテーマを持っているので、そうしたつかみ所の無いことを研究しようとはしないでしょう。
 そして、本当のことは、考察して証明できるものではなくて、人間の頭では解明できないものである、と言っている人もいます。
 次に宗教ですが、宗教を信じている人、霊の世界の存在を信じている人も、深いところでは、自分を肉だと思っています。現実の世界、肉の世界で幸せになりたくて、あるいは、この世界で生きる自分の苦しみから逃れることを願って何かを信じているのです。そして、人間を超える大きな意識、神、仏、天使、そういったものに救いを求めて信仰しています。それは、自分が霊であると本当は信じていない行為であり、本当の自分を見くびり、自分を捨てているのです。その根本は欲心です。
それは盲信につながりやすく、自分で自分をがんじがらめに縛っていきます。宗教がなくならない限り、人間は幸せにはなりません、とまで言っている人もいます。
 人間とは何か、それを解明した人は、過去どこにもいませんでした。みんなみんな間違いだった、と気づいていって初めて、人間は新しいステージに進み出すのだと思います。
 質問者さんは、科学至上主義の中で、宗教が小さくされてきているのを危惧されているようですが、今、人間は間違いに気づいて帰っていこうとする、大きな意識の流れの中にあります。やがて出会う大きな出来事の中で、否が応でも気づかされていくでしょう。(というようなことを言っている人があります。) 
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この回答へのお礼

とても分かりやすく納得できました。
やがて出会う大きな出来事の中で、否が応でも気づかされていくでしょう>その前に気づいてほしいものですね。。。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/26 03:53

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