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NHKテレビ 大河ドラマ 「天を衝け」 を観ているが、「尊王攘夷への思い」が立場立場によって
変わるんですが、また変化してゆくのもあるんでしょうが、どうも いまいち把握できない。
吉田松陰、渋沢栄一、当時の天皇、新選組、薩摩、長州、徳川幕府の一橋、徳川幕府の水戸、西郷隆盛榎本武揚はどの様に捉えていたのでしょうか、変化を含めてご教授ください。

A 回答 (9件)

人それぞれ。


同床異夢。

ですねッ!
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攘夷に関しては、幕府に対して攘夷をやれと圧力を加える。

から、幕府が弱腰だから、じぶんたちだけでもやる。に変化。
長州は、下関で決行。4か国連合艦隊相手に、馬関戦争をしました。
当時の天皇は、過激なまでに攘夷を唱えてましたが、なぜかタイミングよく病死し、後の明治天皇へ交代。
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NHKは、吉田松陰、渋沢栄一、当時の天皇、新選組、薩摩、長州、徳川幕府の一橋、徳川幕府の水戸、西郷隆盛榎本武揚らと、ただの一度も話し合って


いないので、大河ドラマ 「天を衝け」はハッタリドラマだからです。
時代劇はすべてフィクションです。西郷隆盛は司馬 遼
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そういう話をするには、戦国時代に遡らなければならない。


日本は鉄砲大国となり、世界最強の陸軍国となった。鉄砲の技術革新・戦術開発も進んだ。

ところが鎖国と鉄砲などの兵器開発を幕府が禁じたため、遅れていた海軍力の整備も出来ずに、鎖国中に海軍力はもちろん、陸軍力でも欧米列強に大差を付けられて幕末を迎えてしまった。
鎖国体制で海外貿易も大幅に制限したため、国際通貨レートに対応する知識・経験も育たなかった。

そういう情勢の中、長崎・出島を通じて細々ながらアヘン戦争の結末も入り、近代化して陸海軍力を急いで強化しなければ大変なことになるという認識が、一部の幕閣と九州の開明派君主に芽生え始めた。

そして黒船来航だ。幕閣は黒船が先進的大砲を搭載していることを知り、急ぎ東京湾に大砲陣地(台場)を造ったが、黒船とまともに戦っては、江戸城を含む江戸市中が火の海になることは確実。という程度の知識は持っていた。
ゆえに開国は已む無しと判断。むしろ欧米列強の軍艦を含む先進軍事兵器や関連する製造技術を購入し、再び欧米列強と互角以上に戦える軍事強国になることを目指した。幕府は後に明治維新政府がやろうとしたことを自分たちがやろうとしていたわけだ。(歴史的順番で云えば、幕府の構想を維新政府が引き継いだことになる)

しかし、現実は、大半の田舎武士はもちろん、幕府や佐幕派の中でも断固として攘夷を主張する無知な連中が多数を占めていた。ゆえに、開国を進める幕閣が安政の大獄を引き起こしたのは、ある意味当然の帰結だった。
井伊直弼は暗殺されたが、その後も幕府優勢は継続し、反幕府を鮮明化させつつ尊王攘夷の雄となった長州をも、第一次長州征伐を成功させて押さえ込みに成功させた。当時は薩摩も佐幕だった。

しかし、ここで幕府の大失政が明らかになる。日米修好通商条約での金銀交換レートが国際レートと大きく違っていたことを幕府が軽視するという大失敗だ。
このため、極めて短期間で黄金の国ジパングから大量の金が流出し、日本経済がガタガタとなり、庶民の暮らしにも凄まじい悪影響が及んだ。畿内で起こった「ええじゃないか」の大暴動もその影響だ。
これで幕府の権威・信用は完全に失墜してしまった。薩摩など多くの雄藩も幕府を見限ってしまった。
それで長州も息を吹き返し、第二次長州征伐となるが幕府は敗北し、大政奉還から戊辰戦争へと進んで、あっけなく幕府は倒されてしまった。

以上のように、最初は開国派は少数だったが、幕閣が強力に開国を推し進めた結果、中盤までは、佐幕開国派が尊王攘夷派を圧倒していった。そして攘夷派の多くも開国已む無しと変化。
その結果、最後は佐幕系開国派と勤皇系開国派の主導権争いとなり、幕府の経済的大失政が決め手となって、最終的勝利は勤皇系開国派の手に渡った。
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そもそも「青天を衝け」(「青」が抜けています)なんて、ドラマです。


つまり小説と同じ、史実ではない。
  
随分なご高説を書いていらっしゃる方もありますが・・・
  
> どの様に捉えていたのでしょうか
直接本人に聞くことは出来ませんからね。
  
歴史は勝者によって作られるのですよ。自分たち(勝者)に都合のいいように書き換えられているのです。
  
時々、口角泡を飛ばすがごとく「史実はどうなのでしょうか?」という質問がありますが、本当の史実なんて伝わってはいない。
伝えられた書物も、それが真実である保証はない。
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公武合体論が出てきた頃から攘夷の中身が2とおりになる。


幕府側の人々は朝廷を開国派にしようとし、朝廷側の人々は幕府を攘夷派に引入れようとする。安政6年に横浜などが開港したことで朝廷は事実上幕府に負けた。このことで徹底攘夷派(攘夷過激派)は役たたずの天皇に見切りをつける。新たな天皇に夢見たのが南朝の後醍醐天皇。これを推進したのが長州の連中で、自分たちを後醍醐天皇のナンバーワンの家来だった楠木正成になぞらえ"楠公祭"を始める。これを聞いた孝明天皇は激怒したといわれる。ご存知のように孝明天皇は北朝系だから長州は朝廷にも宣戦したことに等しい。
楠公祭の考えは明治になって靖国神社に発展。天皇の系譜も南朝が正統となったのは明治末期に国会で論戦があったことによる。山縣有朋が推したらしい。

幕末の金(きん)の流出が経済混乱の原因という人もいるが、金は盗み出されたものではなく銀と交換されて持ち出されたもの。少なくとも日本国内の通貨の総量は変わっていないはずだからこれが混乱の大きな要因とは思えない。
しかし万延元年(1860年)2月に天保小判、安政小判などが増歩通用になっている。小判の額面はそれまで1両だったが天保小判は3両1分2朱(約3.3両)に、安政小判は2両2分3朱(約2.7両)になったのだ。当時国内でどの程度の小判が流通していたのか知らないが持っていた人たちは一夜にして約3倍もの大金持ちになったわけだ。貨幣の流通量が増したことになるから経済は大混乱になったことは想像に難くない。
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尊王攘夷自体は


「天皇を貴ぶ」「外国を打ち払う」
ということだけだから、
「じゃあ、どのような国を作ってそれを達成するか」
となると各自の思惑があった。

そこに「現実の力関係を考えれば、外国など打ち払えるわけがない」という認識が加わった。

吉田松陰はまだ下関戦争を知らないし彼は思想家で実践家でないから、
「とにかく天皇を尊び外国勢は打ち払え」
だった。

渋沢はあまりこの面に関心があったとは思えない。
資料がないから断定はできないが、経済面でしか名を残していないことがその傍証である。
(しかしこのままの人物にしてしまってはドラマの主人公として成立しない)

天皇は、孝明天皇は公武合体論者で幕府と仲良くやっていきたかった。
だから暗殺されたといううわさもある。
「攘夷」については彼もその立場だった。
明治天皇はあまり幕末の事績がない。

新選組はちょっと複雑。
まず間違いなく「攘夷」だった。
彼らが浪士組に参加し京都を目指したのも、外国勢を退けたかったからである。
その後転変を経て京都の治安維持部隊になってしまったが、池田屋の前後、近藤は多摩の友人に
「浪士組に志願したのは、市中見回りなどをするためではなかったはずだ」
と苦衷を訴えている。
「このままでは国が亡びる」
とも書いている。
しかし幕府にはそれを実行する意思がない。
会津お抱えの分際では意見をすることすらできない。
「佐幕」を続けていても攘夷は果たせない、その事実の受け取り方から、近藤と隊員との間に溝ができていったと思われる。

薩摩に思想的な行動はない。
長州と手を結んだのも、幕府を見限ったからに過ぎない。
当時は「いかに日本を植民地化させないか」が第一の課題であり、幕府に日本を守る力がないと見たから長州と手を結んだのである。
薩長同盟は、幕府の第二次長州征伐の失敗のあとである。

水戸はイデオロギー的には尊王攘夷、というより尊王攘夷の本家本元。
しかしそれだけである。
行動はほとんど伴わなかった。
池田屋事件の前後、筑波山のふもとで天狗党の乱が起こっているが、水戸はそれを鎮圧している。

西郷の思想もよく分からない。
彼は戊辰戦争では活躍したがその後はパッとしない。
征韓論をぶち上げたり西南戦争に走ったり。
どうも大局をみる人物ではなかったような気がする。
大久保や高杉がいて初めて輝ける人物だったのかもしれない。

榎本は思想を残していないし佐幕派としてしか行動していないから、尊王攘夷について述べることはあまりない。
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この回答へのお礼

有難うございました。、分かり易かったです、他にジョン万次郎の伝記を読んで彼が孤島から助けられ アメリカにいったら彼ら(異国での)の日本の評判がすこぶる悪い、聞くところによれば 難破した日本の船の乗組員を助けて返しに行くと いきなり大砲を撃ってくる国だという一節がある、これを聞いて ある意味 日本は鎖国だ 攘夷だとある意味過剰な恐怖 神経体質になってゐたのかもしれませんね、致し方ない面もあるが。勉強になりました。

お礼日時:2021/05/31 15:29

元々「尊王」に対抗する考え方は「佐幕」ですし「攘夷」に対抗する考え方は「開国」です。

つまり江戸末期は「尊王攘夷」以外に「尊王開国」・「佐幕攘夷」・「佐幕開国」と言った思想が入り乱れており、しかも「孝明天皇」は世間知らずだし、雄藩内部でも勝手なことを言う人が多数いました。明治の世になって新聞記者が、伊藤博文に「長州藩は攘夷だったと思いますが」ときいたところ「そのことは訊いてくれるな」と言って笑ったという話が伝わっています。事の真偽はともかく、みんな、その時その時を必死に生きていたのだと思います。ですから、現代の解釈で「これが正解だ」と押し付けるより、それぞれの解釈を楽しみながら見ればよいと思います。
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攘夷は幕府も含めて日本の国論が一致するところ。


しかし、海外の情報を多く掴んでいた幕府の幹部は、早々に現実を悟り、来航した外国船へ無闇に砲撃はせずに、話を聞くだけ聞いて曖昧な返事をし、食料と水を与えて帰ってもらう政策に転換しています。
しかし、ペリーは幕府のやり方をよく研究していたので、直接江戸湾に押しかけて年限をきって返答を求めて次の年にまた来ました。現実を直視した幕府は開国し、欧米の技術を取り入れる事で国力をつけて欧米に対抗しようとします。
これを現実を知らない薩長みたいなクソ田舎の無知蒙昧な輩は、「裏切りだ!外人を駆除しろ!」と外国人殺害テロを繰り返しました。
これに怒った欧米が、艦隊を派遣すると、鎧袖一触、瞬殺されてコテンコテンの大敗北を喫します。薩長の山猿も、鞭で叩かれてようやく外人に手を出すと数百倍の罰が与えられることを脳細胞に刻みこまれ、攻撃対象を外国人から幕府に変えたのです。
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