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身体は感じる、だけなのだろうか?
精神は考える、だけなのだろうか?

身体には、感覚という表現を使い、精神には感情と表現して、その違いを踏まえて理論を組み立てる必要があるのではないか?

人の精神に記憶・知解・意志、としてしまったら、感情はどうするのか?

これでは「感情」は、徘徊してしまいます。

ご意見、ありますか?

A 回答 (4件)

汽笛さん あらためてです。




1. 
ひとの自然本性= 身と心 +α

2. 
身(身体):感じる
心(精神):考える
ーーーーーーーーーーーーー
+α:超自然(霊性):信じる   ☆――大心霊体ですよ。


3.
信じる:非思考の庭
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
考える:思考の緑野・・悟性(感覚を認識);理性(概念整理)
感じる:感性の原野・・五感


4.
信じる:非思考の庭・・良心;    ヒラメキ
ーーーーーーーーーーーー↓ーーーーーー↓ーーー
感じる:感性の原野・・ヤマシサ反応; 直感
考える:思考の緑野・・恥の意識;   直観



5.
《心(精神):考える》というのは 取りようによっては狭く限定しています。

《考える》は 固有には次の三つの行為能力のうち《知解》を言います。

心(精神):記憶・知解・意志なる三つの能力行為




6.
記憶:覚えるというよりは 精神の秩序作用。
   覚えるときにも 精神が情報をしかるべきフォルダー
    にファイルし整理している。

知解:悟性が知覚したことを認識に変える。
   (舌が喜んでいる⇒ 《うまい》という認識を得る)
   理性が認識内容を概念として整理し加工(編集)する。
   (うまいは 身体が喜ぶ。ただしうまいだけで 健康
    にそのまま結びつくかどうか。・・・)

意志:欲すること。またその実行。あるいは取捨選択の判断。
   対象(または相手)との関係は 正負の向きを持つ
    ヴェクトルとして成る。
   この二角関係は 一般に愛という概念で捉えられる。



7.
精神の三行為能力は 国家における三権の分立つまり 分業=協業に対応する。

人の精神:記憶・・・知解・・・意志
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
社会形態:司法・・・立法・・・行政


8.
政治――特に行政――は 意志の問題であり 愛である。
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この回答へのお礼

人の心に意思、感性、理性、という働きが有るという捉え方がある処に、記憶と云う働きにも理性や感性に“似た”働きが有る、と云う見立てに疑問があります。

記憶はあくまでも記録、ではないかと思うのです。
 
最近、私が質問した“記憶と云う精神の働き・能力は”への回答で№8、春閑さんが云っています。
記憶は劣化したり、理性・感性・意思によって改変・改編・改竄されたりすると。

「秩序作用」は、記憶と云う能力独自の働きではないと、思うのです。

お礼日時:2021/06/04 22:24

№1です。



コメントをいただきましたが 前回のご質問への補足回答と同じになると思います。

【Q:記憶、と云う精神の“働き・能力”は・・・】
回答№2&4&12&15です。



           *



特に記すとしますと:

★ (№1お礼欄) 記憶は劣化したり、理性・感性・意思によって改変・改編・改竄されたりする。
☆ について こう考えます。:

① 記憶には そういったハタラキはありません。整理して貯蔵している情報をそのまま提供するのみです。

② 知解のハタラキが その情報を受け取り そのあと思考のために加工します。よく編集する場合もあれば 片寄ったかたちに編集することもあります。

③ その編集のよしあしは――おっしゃるように―― 意志のハタラキの所為です。意志が欲するままに知解が作用します。



あるいはまた:
④ 記憶が劣化するとのことですが もしそうだとしても その劣化したなりに記憶した情報を忠実に提供するはずです。記憶に罪はないでしょう。

⑤ 記憶違いについては どうか? ――知解も 勘違いを起こします。意志は その自由度を十二分に発揮して よからぬことまで欲して 知解を曲げたり歪めたりします。

⑥ ウソ・イツハリは もっぱら意志の所為です。




★ 「秩序作用」は、記憶と云う能力独自の働きではないと、思うのです。
☆ 
⑦ 得た情報を収めておくハタラキには 《おぼえる》つまりその意味で収録しておく作用のほかに 整理整頓しておさめるという作用があると考えます。

⓼ 知解(ないし理性)が記憶から情報を引き出すとき 必要な情報が意識にのぼってくるのは 収録がきちんと整理されているからだと考えられます。

⑨ 静かに《われはわれなり》といった自己自身に還るとき――たとえば 《襟をただす》というように自省し自己還帰するとき――それは 意志を鎮めて知解(理性)をも休ませてむしろ記憶に立ち還るのだと思われる。そしてそれは精神の秩序を求めてのことだと思われます。
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この回答へのお礼

詳しい解説を有り難うございます。

これからも時々、考えてみる事になりそうです。

有り難うございました。

お礼日時:2021/06/05 12:05

ブラサンコーナーにも書いたことですが、


私の亡き母の生前昔話に
私の祖母・祖父・伯父・叔母は戦争中にアメリカの空襲で爆死と聞き、
母の死後に慰霊碑が立つと聞き、犠牲者名簿に
名前を記入してもらい、慰霊してもらいました。
時々、お参りに行きます。

まあ、記憶といえば叔父は戦争に行き、戦地でマラリアに羅患
帰国後に発病して
死んだと聞きます。

逢ったことないし、昔話で
どこかに載せておかねば、
私が死ねば消える話かな。叔父の墓は知らず。
まあ、個人情報となるので、
どうするか迷うが。

感情というなら、悲しいですね。
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感じるのも 結局は脳というか、心が感じてるのでは?



痛いというのも脳がそう思っているようですよ

感情も心でしょう。精神です。
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