プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

ただ 決まった用語――神ですが――を定義づけそれに沿って用いればよいだけでしょう。

もし別の定義が必要になる場合は その場合の条件を明らかにして用いるようにすればよい。



やれば出来るはずです。出来ないほうがおかしい。


いったいどうなっているんでしょう?

質問者からの補足コメント

  • №28つづき

    ★ これもまた、個を受けとる能力てな事柄
    ☆ これには ① 見解を受け取って判断を伝えるのと ② その人〔の事情やそこに潜む問題〕を引き受ける場合とがあると思います。

    ★ ~~~
    個を受けとる能力てなことがらって
    突き詰めると、神論などを受けとる能力なんてなのにも繋がって行くとは思えたりもしますね

    個を受けとるからこそ
    ケンカ腰になってしまう

    受けとりたくないなら
    ケンカなんてしないで、スルーするのが世の常ですもんね
    ~~~
    ☆ まったくそのようですね。

    No.28の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/06/29 04:12

A 回答 (34件中31~34件)

ちょいと質疑応答を読んでて思いついたのですが!



神は居ないと
神は必要ないから居ない

ここら辺の違いって

小さいようで大きいですね

無なのか空なのか

無であるなら空は存在しなかっただろうとはおもうけど

空だから、色んな神様がそそがれてしまって

現代の価値観に引き継がれてしまったのかも?

( ̄~ ̄;)

突拍子もない回答で人( ̄ω ̄;)スミマセン

ある派とない派の例えに引き寄せられて
回答してしまいましたよ

(  ̄▽ ̄)にっこり
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この回答へのお礼

★ ~~~
神は居ないと
神は必要ないから居ない

ここら辺の違いって

小さいようで大きいですね
~~~~
☆ これは 一般絶対性と特殊絶対性との違いです。

一般絶対性の神は 非知なる普遍神であり 《相対的な有るか無いかを超えている》ので 個別にこの神を信じるときには 分かりやすく《有る神》か《無い神》かのいづれか一方で受け取っているということです。

《無い神》派は 《神は居ない》と思っているはずです。



ところが いま《神は必要かどうか》という問いをめぐっては 個人個人の個性のおもむくままに考えその答えを出せばよいわけです。

一般絶対性の神に何ら矛盾することなく いかようにも自由に《神は必要だ》とか《神は要らない》とかと言えるということです。


★ 神は必要ないから居ない
☆ の《居ない》を付け加えるのは 余分ですけれど。




つまりこうです。《無い神》派は たとえば《わたしには 〈無い神〉という神が必要なんだ》という場合があり得ます。

また 《有る神》派は 《わたくしには 〈普遍神がある〉と分かり切っているから いちいちもう〈神が必要だなんてことはないんだ〉》という場合があり得ます。

個人それぞれに〔絶対性についての〕特殊な趣味嗜好として 時と場合におうじて 要るか要らないかをえらべばよいとなります。

《信じている》ことに変わりはないのです。


こんどあたらしく 次の質問を掲げました。
【Q:生活を微分したら 信仰のイメージがついて来た!?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12438788.html

☆ここで 有神論派と無神論派とのちょっとした違いをさぐってみました。


神は有る派は――もし霊性の庭から思考の緑野に降りて来た場合としては―― 自由という理念がふさわしい。それに対して 神は無い派は 平等なる理念にかたむくのではないかと考えてみました。

どうでしょう。





★ ~~~~
無なのか空なのか

無であるなら空は存在しなかっただろうとはおもうけど

空だから、色んな神様がそそがれてしまって

現代の価値観に引き継がれてしまったのかも?
~~~
☆ ここ よく分かんなかったです。無と空とは同じなように見えます。

お礼日時:2021/07/02 13:14

無い神が必要ってのは



Σ(゜Д゜)言えてますね

さらに言えば

無心てな言葉を当てはめると、
信じるの信の方がしっくるくるかな?

信じてる人も、信じてない人も
神の手のひらの上てな意味合いでとらえると

bragelloneさんの言わんとすることは
(  ̄▽ ̄)にっこりしますね


無と空の違いは

無なら、神の手のひらすら存在しなさそうなんですけどね

空って、ジュースを呑んでる時に、ジュースを飲み干したら
ペットボトルが空になった
なんてな言葉を使うけど

ペットボトルのなかのジュースが空であって

ペットボトルの中には空気や目に見えない湿気や水分って、存在してますもんね

知覚や西紀出来ない状態が空だと
個人的には思ってますよ

この世に神様の存在てのが、知覚や認識出来ない状態みたいな感じなので

先ほどのペットボトルのジュースが飲み干されたあとに
ヤカンで沸かした。麦茶をそそぎ込む感じでとらえてますよ

変な例えなんですけどね

思い付いたので書かせてもらいました

(  ̄▽ ̄)にっこり

新しい質問の方は
また、後程お伺いさせてもらいますね
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この回答へのお礼

★ ~~~
無い神が必要ってのは

Σ(゜Д゜)言えてますね
~~~
☆ 必要と言いますか 《非知》から必然的にその可能性が出て来たんですけれど。


★ ~~~
さらに言えば

無心てな言葉を当てはめると、
信じるの信の方がしっくるくるかな?
~~~
☆ つまり《無》と言っていても 《有るもの・ハタラキをしているもの》が存在すると言いますか。



★ ~~~~
信じてる人も、信じてない人も
神の手のひらの上てな意味合いでとらえると

bragelloneさんの言わんとすることは
(  ̄▽ ̄)にっこりしますね
~~~
☆ 孫悟空ですか。なるほど。




★ ~~~
無と空の違いは

無なら、神の手のひらすら存在しなさそうなんですけどね

空って、ジュースを呑んでる時に、ジュースを飲み干したら
ペットボトルが空になった
なんてな言葉を使うけど

ペットボトルのなかのジュースが空であって

ペットボトルの中には空気や目に見えない湿気や水分って、存在してますもんね
~~~
☆ うむ。込み入っていますね。

空は 神の無だと思っていました。

ゴータマ・ブッダは 既存の宗教であるブラフマニズムの梵我一如を否定しました。

無梵(ブラフマン神の否定)は言わず 無我(アン‐アートマン:無‐霊我)として。そしてこれが 空のことだと考えていました。

空について サンスクリットを調べたら まさに《空っぽ( empty )》という意味なんです。特にそこから派生的な意味があるのでもない。おどろきました。

もっとも インドでは例のゼロという空位記号を発明していますので それとの兼ね合いもあるかと思います。

《空と無》 ちょっといままだ保留ですね わたくし。




★ 知覚や生起出来ない状態が空だと
個人的には思ってますよ
☆ ううーん。でも それを無とも言い得るのでは?

★ この世に神様の存在てのが、知覚や認識出来ない状態みたいな感じなので
☆ いやぁ。神は 個人の主観としての神観にあって――特殊絶対性として―― 《おれは神を見たんだ》とか《わたしは神の声を聞いたよ》といった自己表現が〔主観の内部におけるかぎりで〕 ゆるされるんですよ。それを否定するのも ゆるされます。


保留してどう考えるかは分からないままですが。

お礼日時:2021/07/02 17:19

神論を学ぶ人や何かしらの信仰をしてる人にとっては



無いってな認識も神の手のひらの上であって当然ですもんね

ワシも色んな事を考える者だから
手のひらの上で転げ回ってるんですけど

神論や信仰などとは縁遠い人や
他に進むべき道を見定めてる人にとっては

手のひらの認識もなさそうだから

無であって当然だと思ったりもしますよ

ペットボトルでジュースを飲んだことがない人って

ペットボトルてな容器があることを知識として知ってることはあったりするけど

ペットボトルてな知識すらない人も
世の中には居てますもんね
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この回答へのお礼

やさしい主題から。


★ ペットボトルでジュースを飲んだことがない人って
☆ これは 瓶でもあるいはコップでも 同じだと思います。空っぽになる器は タトへですから 大きさによって話が違うということはないと思います。



★ ~~~
神論や信仰などとは縁遠い人や
他に進むべき道を見定めてる人にとっては

手のひらの認識もなさそうだから

無であって当然だと思ったりもしますよ
~~~ 
☆ 誤解があると思います。

神は無い・神は無だ・空だという表現をえらぶ人は そのような規定において 《神とわれとのカカハリ》をみとめているんです。

なぜなら 絶対性とわれとのカカハリは 絶対的に生起するからです。

そのとき 神は有る派と神は無い派とに 自由に対等に分かれます。


《神よ あなたは 無い》と神に向かって 話しかけているのです。

つまり 《信じる》という関係は すでに成っているのです。これが 絶対性なんです。

しかも 絶対性は われわれを決して一ミリでもわづらわせることはありません。

人知で捉えることは出来ない相談だからです。認識し得ていないのに わづらわせられることはありません。

お礼日時:2021/07/03 13:40

人の視点にたつと


神を意識する人や意識しない人
てな話になって

神の視点にたてるとするなら
どちらも人てなはなしですね
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この回答へのお礼

★ 人の視点にたつと
神を意識する人や意識しない人
てな話になって
☆ ねらいとしては うなづけるのですが 精確には 《神は 人知を超えており 意識するしないを超えている》です。

《神なんているもんか。意識などするわけがない》と言うばあい そういうカカハリとして――なぜなら相手は 絶対性ですから そこから逃れる逃れないを超えてカカハリがあって―― 神とわれとのタテの関係が成り立っています。

意識を超えて成り立っています。わづらわしいことはありません。




★ 神の視点にたてるとするなら
どちらも人てなはなしですね
☆ 神の視点に立てたとするなら 神は こう言っていると思います。:
人よ われ(=神)から自由に羽ばたいて行け。

われを意識するもよし。しないもよし。

そのまま受け容れるもよし。はねつけるもよし。

信じるもよし。信じないもよし。

渇きをおぼえたなら われのもとに来るもよし。その渇きの原因は じつは おまえ(=神)だろうと言って われ(=神)から遠ざかっていくのもよし。

目いっぱいあまえるもよい。ののしって去るのも自由だ。

・・・真理は きみたちを自由にする。――と言われて しゃらくせえと言って自由になるとよい。

お礼日時:2021/07/03 22:35
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