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日本にいたら、威張れない下層階級が、新天地を求めて、あっちなら日本人は特権階級で威張り散らせると思って、移住したんですかね?

だって変じゃないですか?
敗戦後、日本は、移住した人達に、国に戻って来ないで、向こうの土地に馴染んでくれ!と散々言ってるのに、日本が敗戦したら威張れなくなったからか、日本に戻ってきたんですから。

こういう人達のルサンチマンというのかな、行動原理って、自分が下だから、更に下を作ろうとしてるんですよね。

こういう人達の子供や孫が、イジメを起こすんじゃないでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 子供時代の考えられないような残酷ないじめ問題がとり立たされていたミュージシャンがいましたが。
    こういった残虐性は、先祖から受け継がれているのでしょうか?

      補足日時:2021/08/02 16:09
  • 戦後のイジメの傾向としては、虐める側がルサンチマン感情と暴力性を必ず持っています。今は身分制度もなくなり、彼らを諌める人間がいなくなり、格差も是正政策してますから、頑張れば、下が上に上がれる時代です。しかし、ルサンチマンというのは、いくら上になっても染み付いているので、なかなかこの暴力性は消えないんですね。そこを分かった上で、機会の平等を開くなら、ある程度、いじめ問題は仕方ないと割り切らざる得ません。彼らが持つ欲求や、暴力性は、止めることが出来ないからです。
    また制限なんてかければ、暴力革命を起こすかもしれません。

      補足日時:2021/08/02 16:25

A 回答 (2件)

こんばんは!



>日本にいたら、威張れない下層階級が、新天地を求めて、あっちなら日本人は特権階級で威張り散らせると思って、移住したんですかね?

そうですね…、戦前日本が移住した先で多かったのがハワイや米国(カリフォルニア)、ブラジルそして満洲でした。殆どが農業に従事して成功して現地人を雇用していました。南米はスペイン、ポルトガルなどの植民地で、搾取され続けた為、現地人に勤労意欲のある者がいなかった、その為勤勉な日本人入植者は開拓の許されたジャングルを開拓し、あっという間に成功者になっていますねぇ。

そして、満州に移住した人は、農業の傍らアヘン栽培もしていました。そのアヘンによって日本は外貨を稼ぎ、大陸にいた関東軍はその利権を握っていたので、政府のコントロールが効かず暴走した感があります。

戦後は、満州を放棄した為、毛沢東の共産党軍が山賊みたいに農村を襲い、治安が悪くなり日本軍の保護を受けられなくなった為、日本に戻るかそのまま南米に移住した人も多かったそうです。

別に農業をする人は、威張りたくて移住したわけではないと思います。しかし、満州のアヘン利権で儲けた人物には、CIAとの裏取引でA級戦犯を免れた、岸信介、児玉誉士夫、笹川良一など戦後日本を支配した人もいます。

>戦後のイジメの傾向としては、虐める側がルサンチマン感情と暴力性を必ず持っています。

この問題は、戦後GHQが日本人の精神性を破壊する為に、「修身」という人間性教育を真っ先に破棄させて、個人主義を徹底させた為です。
「修身」と言いと、古臭いイメージがあると思いますが、その中には家族愛、兄弟愛、郷土愛、人類愛(人種差別の撤廃)など人間としての愛情教育が含まれていました。しかし、それらを否定し、個人主義と自己愛を肯定し、利己的な人間を創り出した教育システムが、現在のイジメや暴力問題の根底にあります。愛の無い教育が現在の荒んだ状況を創り出しています!

育児放棄をしたネグレクトな母親は、最たるモノです!そのような親を持った子供は、周囲が適切な援助をしないと、大半はグレてドロップアウトしています。

人は、愛によって心を形成し、自己をコントロール出来るようになります。
愛を知らない人は、心が未成熟で自己の欲求と本能のままに生きていきます。(^_^;)
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
家族国家観を取り戻す必要がありますね。

お礼日時:2021/08/02 20:47

アメリカのウオール街で1929年に始まり、1930年代後半まで続いた経済大恐慌がありました。


日本もその影響を大きく受けて、東北地方では貧しい農家の少女たちが都会に売られていったのですね。
その惨状を目にして青年将校たちが決起したクーデターが1932年の5・15であり、1936年の2・26事件でした。

そして、不況から脱却しようと日本は海外に活路を求めたわけですね。
日本の国策、経済対策として、「(貧しい人たちよ!)海外に出て、新天地で一旗あげよう!」ということだったみたいです。

ちなみに、手元にある鉄道模型(MICRO ACE 満鉄パシナ981・あじあ号)の説明には、以下のように書かれています。

昭和9年11月1日には、特別急行列車「あじあ」号が大連-新京間の701.4kmを8時間30分でむすんだ。
機関車・客車ともに流線型で製作され、パシナは動輪径2.0m、全長25.6mという東洋一の大きさを誇り、最高速度は130kmだった。
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