これ何て呼びますか

釈尊が『私は二十九(一説には十九)歳で、聖なるものを希求して家を出た。以来、五十年あまり、私は道理と心理の道を歩んできた』と。
釈尊の人生を見ればわかることだと思いますが、具体的に今におきかえてみれば、道理と真理の道とはどういった道でしょうか??

いろいろな方の、考えをききたいです。

A 回答 (9件)

 arakan です。


 念のために古典からひとつ引用します。
 孔子(論語)に
 
 君子は和して同ぜず(立派な人間は表面上の妥協やへつらいは
 しないが、本質的な友好関係は保つ)
 小人は同じて和せず(つまらない人間は表面上の妥協やへつらいに
 よってその場だけの人間関係は取り繕うが結局は真の信頼関係は
 得られない)

 というものがあります。
 とっくにご承知かも知れませんが蛇足ながら付け加えさせておきます。

 
 
 
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 arakan です。


 高級なテクニックとは相手の表面上の言葉に左右されず
 相手が発している「波長」「声なき声」に耳を傾けることです。
 
 たとえば相手Aがあなたに共通の友人Bの悪口を言っていると
 しましょう。
 表面の言葉だけを聞いているとあなたは
 
 1 Bについてあなたが擁護する → Aの見解が間違っている
  ことを諄諄と指摘する
 2 Aについて同意する → Bが間違っていることを
  言い募る
 
 というどちらかを取らざるを得ません。
 ところがこれはどちらを取ってもAかBのどちらかを
 敵に回すことになりますし、それどころかたとえば 2 の方法を取ったときにはAがBに対して、あなたがBの悪口を
 言っていたよと告げ口に行くことも十分考えられます。
 そうすると敵は二人に増えることになります。
 あなたもこうした経験が一回や二回はあられると推察します。
 
 そこで最初に言った「声なき声」「見えざる波長」を聞く方法が
 出てくるわけです。
 たとえばさっきのようにAがあなたにBの悪口を言ったような場合
 
 Aは本当はBの悪口など実はどうでもよくて
 ただ単にそれをきっかけとして一人でもいいから自分を心から
 支えてくれる友達を欲しているのかもしれないのです。
 その時あなたは「Bの悪口を言われた。でもBはそこまで
 悪いだろうか? そのことを今ここで正直に言うべきかどうか」
 などと思い悩む必要はなくなることになります。
 むしろ「Aさん、あなたも孤独なのね」という「心のあいづち」
 を打てばそれで十分なのです。

 Bに対しても同じことをします。
 
 そうすればいつか三人で一緒に会うような時にも、二人と
 あなたとの間には信頼感がありますから、
 仮にAとBとが本当に何らかのことで行き違いが生じていたとしても
 これまでとは比較にならないほど人間関係がスムーズなものに
 変わっているはずです。

 
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この回答へのお礼

なるほど、意味を理解しました。
釈尊を思わせられました。
これからそうしていこうとおもいます、とても助かりました。なにか希望が見えてきました、孔子の言葉、素晴らしいですね、確信を付いていて、改めて理解し、わかりやすかったです。
もっともっと学びたいと思いました。
ほんとうに心から感謝致します。

お礼日時:2005/03/08 22:34

 <一つ質問としては、非常に、最近悩まされている問題なんですが、


 嘘も方便、この方便という言葉、使いこなすと人生を歩きやすいですが、
 道理と真理の道を歩むという点ではどうなのか、>

 arakan です。
 嘘も方便の「方便」は中国語で「便利」という程度の意味です。
 たとえば子どもが薬をいやがって飲まないような場合、
 「これは甘いお菓子だよ」などという長期的に見て相手の
 ためになるような嘘をつくことは許されます。(長期的に見て
 あなたがその報いで苦しむことはありません)
 
 しかし、あなたが嘘をついて相手をあざむく、あるいはその場限りの
 利得を得ようとする場合は、その場はよくても長期的に見れば
 あなた自身がその報いに苦しむことになります。
 そこまでは分かりやすいと思います。

 問題は、つぎのような場合
 たとえば相手が明らかに間違ったことを言っており、
 あなたはその嘘を知っているが、それを言えばその場の
 雰囲気が壊れる、または相手が恥をかくというような場合。
 そんな時にどうするか?
 これになると少し高級なテクニックが必要になります。
 もしこうした事態で悩んでおられるようなら再度具体的な
 事例と共にご質問ください。

この回答への補足

なるほど、勉強になります。
>そこまでは分かりやすいと思います。
かなりわかりやすかったです。

私情ですが、昨日、このようなことで話し合いをすることがありました。
相手に誘われ、断る場合、正直に言うのがいいか?言わないほうがいいか?などです。
具体的に説明すると、ある知り合いから誘われました。しかし、個人的な理由もあり、断らざるえません。
ここでの、個人的な理由というのは、相手にそれを説明しても、理解出来る人もいれば、理解できない人もいるような理由です。

相手の話を聞くと、1人ではなく、多数の知り合いも今いるということです。
私自身、こういった場合、相手がこちらの都合を理解し、私がそれに対して断った理由を、理解ができない他の人達に、説明しざるえない状況になったときにでも、うまく切り抜ける(気がきく)ことが出来る人にしか、正直に言わないんです。
誘ってきた相手がそうではない場合、用事や、都合が悪いといった、断った理由として、どのような状況下でも成り立つ言い分をいいます(なんでなん?と、聞いてくるひともいますが、少しそういうときは正直困ります)
しかし、出来るだけ正直に言いたいのですが、こちらの都合を理解し、なおかつ、他に多数の人がいた場合でも、気がきく人は正直いません・・・自分はそうしてるんですが、せいぜい理解してくれる人がいたとしても、他の人に根回ししてくれるような人はあまりいません。
ですから、正直にいう機会があまりありません^^;
若いときは、なにも気にせず言ったものですが、年を重ねるに連れて、いろいろなことがあることを知り、こういった方法をとっているんですが、気が重くもあります。
自分自身も欺きたくない、相手も欺きたくない、この方法では両方欺いているような><
正直に言って、愚痴を言うような知り合いは、その程度の知り合いだから正直に言うというのもわかりますが、しかし、円滑な広い人脈、人間関係を築くには必要なのかとも思ったり、いろいろ考えさせられます、どうかアドバイス宜しくお願い致します。

補足日時:2005/03/07 21:38
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この回答へのお礼

>問題は、つぎのような場合、たとえば相手が明らかに間違ったことを言っており、あなたはその嘘を知っているが、それを言えばその場の雰囲気が壊れる、または相手が恥をかくというような場合。そんな時にどうするか?

非常に興味があります。
私自身、こういう時がよくありました。私は相手が明らかにおかしい考え方や、ウソをついているをわかっていても、いつもその場ではそれを言おうとはせず、その後も、真相を言おうとはしていません。後々、明らかに言った方がいい時はいいますが、そうではない場合はいいません。
高級なテクニックの、お聞かせ願いたいです。

こういう時もよくあります。
例えば、私をいれて、お互い友人の3人がいるとします。
Aという友人が、Bの友人の愚痴ばかりいっています、しかし、私はそのことについてBの友人には一切いいません(Aには注意します。Bから聞いたんですが、私自身の愚痴も言っています)
それを聞いても不愉快なだけだと思い、なおかつAのことも考えてそうしてるんですが、Aの友人は、私の前で友人のの愚痴はあまり言わなくなりましたが、ある友人から聞くと、私の愚痴は言っています。
今では、私の愚痴を言っていたとしても、私に教えないでくれ ということで、なにも変わらずですが、正直このままでいいのかと思っています。
Aに私の愚痴を言っているだろと言えれば、話が早いですが、なのぶん、その情報も友人から聞いたもので、もし私が知っていると言えば、誰がチクッたかということが明確になり、友人に迷惑をかけるような気もし、踏みとどまっていますが、なにか知恵があれば、すぐに実行したい心境です。
私の周りはそのことについて、言わない人間が多いので、結局、Aは私や友人の愚痴を言いっぱなしで、なにも変わりません。
どうすればいいでしょうか?いろいろと申し訳ありません、宜しくお願い致します。

お礼日時:2005/03/07 22:52

恐らく人生の空費であり、二度と同じ事をしないように


という先人の知恵でしょう。
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>道理と真理の道とはどういった道でしょうか??



道理も真理もそれが真理だとそう言いきる事は不可能だと思います。真理が例え確かに存在していたとしてもそれを立証できない、結局、あるけど完璧には手に入らないものです。
ではどうするか?
自分が、それが真理だと思えるように進んでいくしかありません。結局はどこまで行っても手には入らないのですがそれでも近づくと思うほうに進んでいくのでしょう。それが道理と真理の道を歩むということだと思います。
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この回答へのお礼

自分が道理と真理だと信じる道に進むことが大事。
なるほど、たしかにそうですね。
今の考えでは、釈尊の法華経を学ぶ、そして、そういった御書根本の宗教団体があるとすれば、そこでがんばろうと思いました、有難うございます^^

お礼日時:2005/03/07 06:31

真理は元々我々の内に内在しているものなのでしょうか.



それとも成長と共に我々が真理に近付いていくものなのでしょうか.
 
外界とのずれの感覚は何時何処で何故起こるのでしょう.

そしてそれは何故自分のほうが真理であると思うのでしょう.
 


 

この回答への補足

意味深いですね、勉強になります。
なにを言われようと、『これだ!』という確信ある人生を歩みたいと思いました。

補足日時:2005/03/07 06:31
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色々な方の…ということなので、書かせてください。


(無宗教者です)

「どういった道であるか」
恐らく釈尊もその様なことを考えたと思います。
自分の育った環境から様々なルールや理を学び、それでもまた関係を
持った人々からさらに多くのものを学ぶ。
きっと釈尊は歩かなければ分からないことに気づいて家を出て、
地方を巡ったのだと思います。
結果として「道理と心理の道を歩んできた」と言えるのであって
それは始めからあったものではないのでしょう。

時代を今に置き換えたり、自分に置き換えたりしても同じで、どの
ような道かは誰も「正解」として持ってないと思います。

かといってどうしようもないわけではなくて、自分のルールや
価値観から学び得た「自分の道理」や「心理」を意識して磨いて
いくことは可能です。そしてそれを可能にするのは多くの人との
出会い(価値観・世界観のぶつけ合い)なんだと思います。

偉そうに聞こえたらすみません。なんか最近そんなことを考え
てます。
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この回答へのお礼

いえいえ、素晴らしい回答だと思いました。
やはり、自分が信じる道を前進しつづけるしかないですね。
信じることがどれだけ偉大かということを、思い改めることが出来ました。

お礼日時:2005/03/07 06:35

真理はあなたのうちにすでに内在しています。


 たとえば世の中の事象にふれて「これは何かおかしい」「これは
 どこかが間違っているはずだ」という感じを持たれることが
 あるでしょう。その「感じ」をもたれることそのものがあなたの
 中に「真理」がすでにあることをそのまま証明しています。
 なぜならあなたのうちに「真理」が内在していなければ
 「現実」「現象」とのずれに違和感を覚えるはずがないからです。
 
 ではその「内的真理」「内的直観」にもとずいて。いかにして
 世の中の偏り、常識の嘘に相対していくか?

 「おかしいもの」を「おかしい」とする子どもの心を持つことです。
 童話の「裸の王様」を思い出してください。あれは単なる童話では
 なく、世の中のずれ=矛盾が、いかにして一人の直観的認識によって
 変わっていくかをたとえ話で説いたものなのです。
 
 もちろん「内的直観」「内的真理」と世間的常識の間の
 「ずれ」を是正していくにはこれまでの「常識」の本質を
 疑い、追及し、実践するというプロセスが必要です。
 そしてそのプロセスこそがあなたがあなたという「新たな存在」として
 この世界に再生している本当の理由です。

 分かりにくいところがあれば遠慮なくご指摘ください。


 
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この回答へのお礼

>「おかしいもの」を「おかしい」とする子どもの心を持つことです。童話の「裸の王様」を思い出してください。あれは単なる童話ではなく、世の中のずれ=矛盾が、いかにして一人の直観的認識によって、変わっていくかをたとえ話で説いたものなのです。

なるほど、素直な誠実な気持ちで世の中を歩む、真剣歩んでみようと思いました。

一つ質問としては、非常に、最近悩まされている問題なんですが、嘘も方便、この方便という言葉、使いこなすと人生を歩きやすいですが、道理と真理の道を歩むという点ではどうなのか、これについて、どういう見方を持っているのか、率直に聞きたいです。

お礼日時:2005/03/07 06:42

自身の心が宇宙の構造とフラクタルの様相で共鳴することだと思います


昔、孔子が70になったら、そんな風になるのがいいって言っていたと思います
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この回答へのお礼

これまた奥が深い。
宇宙の構造とフラクタルの様相で共鳴する・・・
非常に興味があります、更に教え頂けませんか?
宜しくお願い致します。

お礼日時:2005/03/07 06:46

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