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江藤新平はもともと新政府に貢献した人だと思われるが、どうして新政府に殺されなければならなかったのか。人間の平等 はいいことだと思うが 歴史書読んでみると 昔の士族達がいわゆる 様々な
特権がなくなるということで不満を持っていたというが、それはそれでわかるが 江藤はそれを覚悟で
新政府でいろんな仕事をしていたのではないのか。それが郷土にかえってころりと心が変わってしまって政府に反抗するということになったのでしょうか。

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A 回答 (4件)

全く 事情に疎いのですが、wikiでは、「江藤が 長州閥の恨みを買った」と書かれています。



江藤が司法のトップとして、取り締まりを強行すれば、当初は江藤の起用・重用を勧めていた井上馨にしても、木戸など長州閥、その長州勢力と組んでいた岩倉具視、大久保利通らも、三権分立・司法の独立などよりは、行政重視の邪魔をする江藤は、排除すべき人物になったのではないでしょうか。


明治5年(1872年)4月25日、江藤は左院から初代・司法卿に任ぜられる。江藤の就任には、大蔵大輔・井上馨の強力な推薦と、部下である権中判事・島本仲道や同・河野敏鎌の推薦があり、調整型の大輔・佐々木高行に代わり、『見治条例』や『司法職務定制』、司法省による全国の裁判事務の統一、司法省裁判所(一等裁判所)を設置する等次々に改革を進めた。8月5日には、神奈川・埼玉・入間の3県で裁判所を開設させたのを皮切りに、全国に裁判所を増設。「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。次いで、フランス司法制度調査の傍ら、ボアソナードを政府の法律顧問に雇い入れた。この司法省の下級官僚からは、明治を代表する法制家であり大日本帝国憲法の素地を作った井上毅、福岡孝弟、岸良兼養、楠田英世、鷲津宣光、鶴田皓、川路利良、沼間守一、名村泰蔵、益田克徳などが育った。

外務卿・副島種臣からパリで豪遊していた山城屋和助の報告を受け、江藤は大検事・島本仲道に山城屋の捜査を命じる(山城屋事件)。窮地に陥った山城屋が陸軍省応接室で割腹自殺し、陸軍大輔・山縣有朋は辛うじて政治生命を繋ぐことが出来たが、次いで大蔵省の事務を取り仕切っていた大蔵大輔・井上馨と小輔・渋沢栄一の専横を追求した事で長州閥から逆恨みを買うきっかけとなる。

明治6年(1873年)1月24日に、司法省予算削減に抗議して部下の福岡孝弟、楠田英世等と共に司法卿を辞任。4月19日に政府から請われ参議に就任。5月3日に予算編成権が大蔵省から正院に引き上げられて大蔵大輔・井上馨が辞表を提出して野に下り、尾去沢銅山事件や小野組転籍事件、三谷三九郎事件を江藤は厳しく追及。木戸孝允が盟友・井上馨の救済に乗り出す始末となり、江藤はついに長州藩閥の恨みを買う事となる。
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明治維新そのものは、薩長を中心とした新政府という形になったが、そこから、武士階級、武士の特権を剥奪する方針が決定。

各地で旧武士集団の反乱が発生し、それを鎮圧することで、新政府の力を強めた。江藤新平も、その犠牲者の一人。あまり学校の教室では教えない黒歴史。
士族たちの特権をそのままにしたら、新政府の財政が大幅に不足する。早めに没収するのは必然だったでしょう。
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倒幕の共通の目標が有るので纏まっているが、目標達成後には、


それぞれの立場や利害が違うので新たな争いが生まれるのです。
フランス革命、ロシア革命など歴史が物語っています。
映画「アラビアのロレンス」を観ると、良く解ります。

チェ・ゲバラはカストロの元を離れ、他国に渡り、革命活動を
継続しました、特別な御方です。
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『どうして新政府に殺されなければならなかったのか』


武装闘争に転じたから
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