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集団とはなんぞや

人の集まりを集団とは認識はするけど

その人の集まりに、まったく知識や面識が無かったら
単なる集団でしかない

日本だと、ほんの80年くらい前には
軍隊なんてな集団があって

現在の自衛隊とはまったくの別な人の集まりがあったのは歴史なんかを振りかえらなくても認識はできるとは思うんですが

海外の他国の人の認識からしたら
自衛隊も軍隊も同じだ!
なんてな意見も聞こえたりしますもんね

軍隊があった頃の日本なんかだと
軍部や軍閥てのがかなり力を持ってて
内閣なんかでもかなりの存在感はあったみたいで

現役の将軍でなければ大臣に成れない
からこそ
軍部や軍閥の意見を認めなければ
大臣を選出しないし、任命にも応じない

なんてな事もあったみたいで
かなり、軍部の発言力は強かったみたいですもんね

今の自衛隊なんかは、内閣に一任されてて!
政治とは無縁な集団なんだろうなぁ~
とはとは思うんですが

海外の人からしたら
軍隊も自衛隊も同じだと言い切ったりもしますもんね


集団とは、その集団を認識する人の知識や価値観によって

自衛隊であったり!
軍隊であったり!

軍視力を保有してるから軍隊である
なんてな認識で語られると

まぁ~そうだろうなぁ~
とはとは、わしやけども思ったりもするんですけどね

そこで、あらためて!集団とはなんぞや?
これを質問に掲げてみて

人の集まりであるなら
その集まりに、相性の良い人がいたり
相性の悪い人が居たり

好印象の人も居たら、不快な人も居たりと

集団てなのを細かくみてみると
単なる個人の集まりでしかないのは事実なんですけどね

色んな価値観を持った人が自由に集まる場合もあれば!

思想や価値観・目標や目的を持った
人の集まりもあって

集まる事で、ひとりでは出来ない事などを助け合ったりするのが

人の集まりであって集団てな事が言えますもんね

現代だと、個人主義とまでは行かなくても
それなりに、独りでも生きていける社会になってて

逆に、ひとりの方が気を使わなくていいとか!
言うなれば気楽で良いてな意見もあるのは事実ですもんね

ダラダラと質問をしてますが!

人はひとりでは生きてはいけないけど
現代だとそれなりにひとりでも生きていける

この言葉から、なら集団てのはほんまになんぞや?

わしやけどならではの質問ですか!

哲学カテゴリーの猛者と思われる方からの御回答

お待ちしてますよ!
(  ̄▽ ̄)にっこり

A 回答 (18件中1~10件)

★ (№16お礼欄) ~~~~~~~~~


この質問を問いかけるべき存在は
自分自身が自分自身に問いかけるべきでしかなくて

わしやけどってな他人から問いかけられても

選べない!てなるのは至極真っ当な回答になりますもんね
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ じつは そういう〔ひとつの〕結論を考えていました。

こういう表現で 初めから言っていればよかった・・・!?

〔ひとつの〕着地点をうまく言ってもらって よかった。



やり取りがこういう経過をたどるってのは たのしいもんですな。
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この回答へのお礼

言えてますね

(  ̄▽ ̄)にっこり

bragelloneさんの見てる世界観と
ワシの見てる世界観と

見合わせて、比べて
そこから産み出せるのは

bragelloneさんの導きがあればこそですよ!!!
(^人^)感謝です!

お礼日時:2022/01/21 13:09

★ (№15お礼欄)


基本的には個人の変化ってのが
求められる時代になるのかなぁ~

☆ 賛成です! 

眞子氏の乱も大きかった。

反動反応――話題化の自粛が求められた――も起きましたし。
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この回答へのお礼

個人の変化が求められる

これが、集団の変化になると
ウクライナとか、カザフスタンとかのような
西側につきたい!東側に残るべき!
みたいな大きなうねりになって

世界的な争いの火種にもなりますもんね!

個人の変化が緩やかに行われていって
その、緩やかな変化が他人に変化を連鎖して行くべきなんですけど

他人に連鎖しだすと、緩やかな変化も急激な変化にかわってしまう

日本なんかは、幸いな事に島国であって

個人の緩やかな変化が集団に連鎖反応を起こしたからといっても

暴動やデモにならない

急激な変化って、望む民族性ではないですもんね

ネット全盛の現代だと、緩やかな変化よりも!過激な急激な変化を求める書き込みなんかも見掛けるけど

変化じたいは、あくまでも個人の意思から起きるべきであって

先ほどのbragelloneさんの説かれた

良い考えこそ本質である

良い考えなら、個人の変化から、集団に連鎖したところで
急激な変化がおこる訳でもなく

時代に合わせた、環境や状況に応じた集団の変化を期待は出来そうですね

陸続きだと、どうしても大国の思惑なんか絡んできて

ウクライナにしても、カザフスタンにしても

世界を巻き込むような変化になってきてますもんね

カザフスタン情勢が落ち着いたら
ウクライナはさらに加熱してて

そういった国際情勢の荒波のなかだと

個人の尊厳なんて!
( ; ゜Д゜)忘れさられてそうですもんね

お礼日時:2022/01/21 13:06

★ 集団とは何ぞや?



☆ いま仮りに創造主で宇宙を支配する神というものを持ち出して考えます。

人類をあわれみ そのむしろ食い扶持を調整するために人びとをして戦争を起こさしめたり あるいは ときにはパンデミックをあたえるのだという珍説をも持ち出します。

これは――このままお付き合い願えればさいわいですが―― 言うなれば個人よりも集団を優先させている。と言えますよね。


ということは 二者択一があるのかどうか。


あるとしたら そのような集団優先説に対して いやいや ひとはそのいのちが例外なく誰もが互いにひとしくとうといという個人優先説が来ると思います。


       *


つまり 神は 多少の犠牲を出しても 人類としての存続が大事だと説き 人間は 個人の――無条件の――尊厳を言って抵抗する。ってな構図なんでしょうか? いったいどうなっているのか。


じんるいといった集団ってのは いったい何なんでしょうね。



日本という集団にとって 自衛隊という武力は――武は 止めるんですからその存在するだけでも―― 必要なんですよね?

ほかの集団は 何を考えてるんでしょうか。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってm(__)m申し訳ないです!

神様ってな人類を見据える存在として置いた場合には

確かに、個人の尊厳なんてものよりも
人類てな集団を大事にしてる可能性はありますもんね

これは奥深い!!!Σ(゜Д゜)

それとは相対して
個人の尊厳をもちだし、人類てな集団よりも個人の生き方を尊ぶ考え方もあり!

そうかと思えば
温暖化やコロナウイルスなどなど、人類が滅亡するなんてな可能性を持ち出して、個人よりも集団てな意識を植え込んではいますもんね

集団があるから個人がある

個人があるから集団がある

どちらかを選べと神様が物申すことってのは、bragelloneさんの考察通りだと思えますので!

この質問を問いかけるべき存在は
自分自身が自分自身に問いかけるべきでしかなくて

わしやけどってな他人から問いかけられても

選べない!てなるのは至極真っ当な回答になりますもんね

お礼日時:2022/01/21 12:54

★ (№14お礼欄) ~~~~~~~


しこりって表現したのは

宗教や思想てな集団にたいしての不信感ではなく

良い考え方ってのが、システム化や法案化・制度として組み込まれたときに

環境や状況の変化に対する対応が遅れたり!システムや制度を変化するときに足枷たとなったりたして

しこりがのこる
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 信長による比叡山焼き討ちは――そもそも人殺しが 人間性に反する不法行為ですが―― 仏教勢力の側も僧兵をととのえ政治力をも発揮していたからには あたらしい人間関係(社会)を作り出すには 必要悪であったかも知れない。

家康が 戦争の時代を終わらせたとした場合 ではそれは 信長の暴走・蛮策が無くても出来たか とは考えます。


つまり こういった問題としての《しこり》でしょうか。


会津藩出身と薩長出身とは いまでもいがみ合うというしこりが尾を引いているでしょうか。どうでしょうか。


言論の時代になったのかどうか。どうなんでしょうね。



平成の天皇の生前退位という事態は すでに話題からは消えたようですが 大きな進展があったのではないか。(自分の意志を おおやけに向けて発言することの無いはずのひとが 自由に自己表現しました)。


そのことは 眞子氏あるいはつまり秋篠宮家の乱で ほとんど同じ問題として社会に影響をあたえているとは思います。



名誉革命で あたらしく変わるといいですね。《集団》というものが そういう進化の過程をたどれるなら いいと思います。


赤穗と吉良とは 手を携えたと聞いています。
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この回答へのお礼

昔なら革命やクーデターが付き物で

変化を起こすのには必要悪だったのかも知れないですね

現代だと、暴力ではなく
言論や考え方での変化を求めるのが当然なんだけど

世の中って、金儲けが基本的な事柄になってきてて

( ̄~ ̄;)なんだろう~

命を助けるために経済が優先なんて言われてるけど

経済システムや社会システムからこぼれた人って
蛮行を起こしてますもんね

経済システムや社会システムを集団だと捉えてみると

零れ落ちた人は、蛮行を犯しただけの罪人で済ましてしまう

年々、飛散な事件が増えてるのは
経済システムや社会システムの変化なんかを考えるべき

なんてなはなしで
ベーシックインカムやMMT理論なんては議論も飛び交ってるけど

お金だけが総てではないはず
なんだけど
お金ばかりが議論されてて

これって、国際的な経済システムに組み込まれてるからですもんね

お金の話は野暮ったいのと
ワシの知識で経済を語るのは、それこそ無知の極みだから
上部だけ語らせてもらいましたよ

天皇陛下の生前退位

これは、bragelloneさんの仰有るように
言論から改革や革命を起こされた!

たしかな事ですね

改革ってな急激な変化よりも
時代に合わせた緩やかな変化

世の中も緩やかな変化をしてるはずなんだけど

基本的には個人の変化ってのが
求められる時代になるのかなぁ~
( ̄~ ̄;)難しいけどね
性差問題や人権問題・自由や平等

社会や世の中が急激に変化するよりも
緩やかな変化で、日本らしい時代の変化を、ワシの生きてる間に拝めるのか?拝めないのか?

おかまなんてな言葉から
ニューハーフやミスターレディー
てな時代をへて

おねえ!

なんてな認識がひろまり

ネットの世界でも
ネカマなんて言われてた時代があったけど

今の時代だと
そういった時代とは、ちょっと認識が変化してますもんね

お礼日時:2022/01/19 05:57

このあたらしい質問には対応していないところがあるんですが。



そして 集団とは何ぞやというのならば そもそも社会が集団であるとなるとは思います。あと 組織立った集団あるいは法人格をもった集団といった分類が出来るかと。


★ (№13お礼欄) ~~~~~~
bragelloneさんの説かれた
【中身で勝負】

だからこそ、個人や集団にとらわれない

てな意味ですね
やっとわかった!Σ(゜Д゜)
~~~~~~~~~~~~~~

☆ そうですね。《個人か集団か》といった最初の質問にかんしては そういうことになるかと考えています。

★ 大事なのは考え方であって
集団でもなければ、個人でもない
☆ つまり 《個人も集団もであり 個人か集団かの二者択一にはとらわれない》ということになるかとは思います。


★ ( ̄~ ̄;)そうなると気持ち悪いようなしこりは残るけど
☆ しこり ですか? ここがちょっと分からなかったのですが。・・・

宗教組織だとかあるいは秘密結社のように集団〔の一員〕としての縛りがつよい場合なんかでしょうか。個人は 組織集団に従属せざるを得ないといったような情況には 中身で勝負は合わない・・・かもと。
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この回答へのお礼

しこりって表現したのは

宗教や思想てな集団にたいしての不信感ではなく

良い考え方ってのが、システム化や法案化・制度として組み込まれたときに

環境や状況の変化に対する対応が遅れたり!システムや制度を変化するときに足枷たとなったりたして

しこりがのこる

改憲論なんかでは、そのしこりがなり色濃くでてて

より良い考え方ってな話にすらならないで、現状の憲法での対応に悪戦苦闘してますもんね

ワシは改憲論者ではなく

改憲派と憲法解釈派とのやり取りを見てて、思ったりはするんですよね

お礼日時:2022/01/17 04:30

★ (№11お礼欄) ~~~~~~


自分自身が思う自分自身も
他人が評価する自分自身も

どちらも自分自身ではありますもんね
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ むろん 《他人の評価》を自己のさらなる判断のために活用しますが おかしい ちがうと思ったときには 一たんにでも抵抗してよいと考えます。


つまり 《他人の評価》がまちがっているのではないかと。



★ ~~~~~~~~~~~~~
自分自身と他人てな、個人と個人との
向き合いなら

そこには、人間の感性や感情が作用されるとはおもうんですけど

集団てな、複数の他人の評価ってのは
個人では作用するであろう感性や感情ってのが作用されてなくて

何かしらの意図や思惑を感じたりもしまもんね
~~~~~~~~~~~~~~
☆ いや たぶん いいえだと思います。

なぜって 集団としての評価は 個人個人の認識・評価の集まりであり積み重ねであり成り行きとしてでも一定の評価内容として落ち着いたものだと思うからです。


★ ~~~~~~~~~~~
自分自身が思う日本人てな考え方や

日本人てな集団が思い描く日本人てな考え方や

外国人てな集団がが思うであろう日本人てな考え方

差が生じるのも

個人対集団だと

個人を観るよりも、個人を含めた集団を観る傾向がつよくて


日本人ってひと括りに言葉にしても
いろんな日本人が居てて当然であって

集団が集団を観てる状態なんかだと

個人が見えてないとは思ったりもするんですよね
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ いやいや だいじょうぶです。要するに すべては 個人一人ひとりによる主観たる認識・評価から始まっているからには お化けのような議論は出て来ないのだと思います。

個人のみか 集団のみか 両方を含むか といった区別による成り立ちにこだわらなくてもよいと考えます。

出て来た議論についてそのまま こちらも自己表現としての見解をのべればよい・・・だけだと思うんですが。


★ ~~~~~~~~~~~~~~
bragelloneさんが例にだされた
集団の評価から自分自身の自己評価を判断して修正するってのは
確かな話ではあるけど

集団すべての評価に身を委ねるよりも

集団の中に居てる、信頼をおける他人の評価なんかを優先したりは、しないでしょうか?

人生の先輩や!
心を許せる親友
~~~~~~~~~~~~~~
☆ 心情としてはそういうクセを誰もが持つと思います。

けれども基本の姿勢としては 中身で勝負です。だれの評価であるにしてもその中身について 自分の思うところを述べればよい・・・これです。


★ ~~~~~~~~~~~~~
bragelloneさんと日頃からの質疑応答を振り返ると!

集団よりも、bragelloneさんが認めた好敵手なんかの評価なんかで、集団からの評価の確認なんかをしそうですけどね

だからといって、集団が思う自分自身が!まったく出鱈目であるとはおもわなくて

集団が下す、自分自身の評価も自分自身の一部ではありますもんね
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そうなんですれど――もういっぺん言いますが まったくそうなんですけれど――それは 一般論なんです。

・ 個人の評価
・ 好敵手の評価
・ 集団の評価

☆ いづれにしても 中身で勝負なんです。その評価内容を取り上げて見解を述べる。これだけなんです。

信頼を寄せる人〔たち〕の評価を聞きたいしそれについて 人びとよ ようく耳をかたむけて欲しいと思っている自分がいるというクセは あります。

心情としては その方向にかたむきますが 基本の姿勢は 決まっています。

発言者が誰であるかから自由に 評価内容じたいについて自己の見解を寄せること。だと考えます。個人か集団かの問題を超えてゆくことができると。
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この回答へのお礼

bragelloneさんの説かれた
【中身で勝負】

だからこそ、個人や集団にとらわれない

てな意味ですね
やっとわかった!Σ(゜Д゜)

大事なのは考え方であって
集団でもなければ、個人でもない

( ̄~ ̄;)そうなると気持ち悪いようなしこりは残るけど

考え方を受け継いだり、さらに飛躍させたりする人類にとっては


重要な事柄でもありますもんね

bragelloneさん
この解釈でOKでしょうか?

お礼日時:2022/01/16 23:09

見方によってどんな複数の個体も集団と呼べてしまうので、質問自体が意味をなさない、かと。



もう少し分野を絞った具体的な対象性を示さないと、意味のある話が出来ませんよ。

話し手と利き手で言葉の意味、暗黙の前提を一致させないと何も掴めないでしょう。
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この回答へのお礼

>見方によってどんな複数の個体も集団と呼べてしまうので、質問自体が意味をなさない、かと。

まさしく!(  ̄▽ ̄)にっこり

個人の見えかたの違いを回答してもらいたいからこそ

言葉の前提を詰めないで進めてますよ

あつしさんのお陰で、理解されにくい問題点を言語化できたよ

(^人^)感謝

見えかたの違いこそ
感性や感情なのか
経験や知識なのか

集団とはなんぞや?

【見えかたの違い】

こちらの方が自衛隊や軍隊をださすに済みますね

お礼日時:2022/01/16 23:06

PC 故障していました。

遅くなりましたが。

★★ 【Q:質問です! 個人が大事なのか? 集団が大事なのか? どちらも大事ではあるけど どちらかの選択を迫られ】
(№23お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
進学して新しい環境や、就職して新しい環境なんかだと

集団にまったく認識されてなかったり
集団に、違った角度で認識されたり

自分自身を旨く表現できなかったりすると

集団の中の自分自身と、自分自身が思ってる自分自身との差について悩んだりしますもんね

そのときに、自分自身が思う自分自身を選択するのか!

集団が捉えてるであろう自分自身を選択するのか!

個人の認識と集団の認識

こういった事例なんかはどうでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 理論は 《〈わたしはわたである〉わたし》を選択します。

まわりの認識・評価とのあいだにギャップがあるなら 個々の具体的な相違点について一つづつ・また少しづつ溝を埋めて行きます。

むろん:
★ 集団が捉えてるであろう自分自身
☆ と《わたし》のあいだの溝です。自分にまちがいがあればそれも明らかに成って行きます。
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この回答へのお礼

bragelloneさん

わたしは私である

ワシやbragelloneさんなんかだと
唯我独尊てきな強さがあるから

間違いを含めてわたしは私である
になるんですけど!

間違いを含めれるからこそ、間違いは認められるってな感じもありますよ


自分自身が思う自分自身も
他人が評価する自分自身も

どちらも自分自身ではありますもんね

自分自身と他人てな、個人と個人との
向き合いなら

そこには、人間の感性や感情が作用されるとはおもうんですけど

集団てな、複数の他人の評価ってのは
個人では作用するであろう感性や感情ってのが作用されてなくて

何かしらの意図や思惑を感じたりもしまもんね

自分自身が思う日本人てな考え方や

日本人てな集団が思い描く日本人てな考え方や

外国人てな集団がが思うであろう日本人てな考え方

差が生じるのも

個人対集団だと

個人を観るよりも、個人を含めた集団を観る傾向がつよくて


日本人ってひと括りに言葉にしても
いろんな日本人が居てて当然であって

集団が集団を観てる状態なんかだと

個人が見えてないとは思ったりもするんですよね


bragelloneさんが例にだされた
集団の評価から自分自身の自己評価を判断して修正するってのは
確かな話ではあるけど

集団すべての評価に身を委ねるよりも

集団の中に居てる、信頼をおける他人の評価なんかを優先したりは、しないでしょうか?

人生の先輩や!
心を許せる親友

bragelloneさんと日頃からの質疑応答を振り返ると!

集団よりも、bragelloneさんが認めた好敵手なんかの評価なんかで、集団からの評価の確認なんかをしそうですけどね

だからといって、集団が思う自分自身が!まったく出鱈目であるとはおもわなくて

集団が下す、自分自身の評価も自分自身の一部ではありますもんね

お礼日時:2022/01/16 18:46

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集団と個の問題ですか。

 僕も考えたことがありますねえ

集団に成ると人間は活性化するようですが

これがコントロールできないと 戦争とかストライキとか男社会とか

都会の孤独とか 集団のエゴのようなものもでてきますねえ

集団が好きな人はそれでいいのでしょうけど

集団に成るとどうしても圧力がかかったり 自由がなかったり

場合によっては過労死とか健康障害になっても「仕事」があるからと

働きすぎとか 逆にみんなでサボてしまったりとか

一部の個にとっては不本意どころか殺されかねません

お腹が痛いとか言ってたら兄弟から怒られます。

自分を犠牲にしてでも集団の決め事、ルール、習慣、習わし、雰囲気、空気

に沿わなければなりません

一人で抵抗すると「長いものには巻かれろ」とか「キジも鳴かずば・・・」とか

見ざる言わざる聞かざるとか 見て見ぬ振りとか シカトとかいじめとか

色々出てきます。

じゃあ一人の方が良いと言うと この文化・文明はなかった筈です

いわば集団の圧力に押されて無理矢理でも何でも働いたりお金儲けしたり

しなきゃ成らない訳です。

会社は給料を払うためには 社員をこき使って 駄目な社員は切らなければなりません。

集団について行ける人はいいけど 落ちこぼれる人にとってはダメージです

それも能力がないから切られるとは限りません

派閥や集団を飛び出す人も 出る杭は打たれます

私が大学中退である大きな職場の障害者の仕事をしてたら

みんな喜んでましたよ 一生懸命やればやるほど

喜んでいました。つまり上下が在るのでです 学歴社会で

それが病気で底辺の仕事をしてたので 若い人達からは厳しくされてましたが

僕が辞めても会社の人は通る度に手を降って「塾はどうですか~~~」

と言ってくれてました。

労働者で毎日同じ仕事をしてる人にとっては自由な仕事が喜ばしかったのでしょう

ありがたいことです。

その経験からすると人間は階級に拠って不満や差別は在るけど

個人個人は健康な心を持っているのですが

集団に成ると派閥や上下関係や競争や足の引っ張り合い、或いは憎しみさえ持ってしまいます。

集団で上に上がっていくには 競争や妬みの中で人を押しのけていかなければなりません

普通の地位ならと言っても何かとそういうストレスの中で大変です。

集団の為に個人が犠牲に成ることも よくある事かもしれません。
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この回答へのお礼

集団ってな認識から
階級や序列を作り出してしまう

社会に出る前の学校なんかで認識させられてしまう話ですね

クラスのいけてるグループとか
いけてないグループとかってな認識は確かに存在してて

ロールプレイングゲームなんかだと
数値化されてたりもしますもんね

現実はゲームの世界みたいに数値化されてるわけではなく

個人・個人の考えで生き抜く世界なんだけどね

社会や世間なんてなあやふやな階級や序列に支配されて生きながらえて

仮の話なんですが

いざ、目の前に人生の終点

死が目の前に迫ったときに

その階級や序列って!まったく意味の無いものであったとなるんじゃないかなぁ~

とはとは個人的には思ってますよ

壮大な勘違いをしたまんま
人生を過ごして、死んでいくよりは

集団とは別な個人の人生観

これを明確に獲得して、人生の終点にたどり着けるのかなぁ~

そんな意味も含んだ、集団とはなんぞや?

ハルさんの心に伝わるものがあったからこその御回答

誠にありがとうございます
(^人^)感謝

王様も奴隷も
金持ちも貧乏人も

死ぬときは、気持ちよく死ねるのか
悶々として死んでいくのか

集団から発生する考え方って
あの世に持っていく必要性は、まったく無いですもんね
( ^∀^)(笑)

お礼日時:2022/01/14 21:51

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