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1945年の8月15日、日本は無条件降伏しました。結果において、当時の戦争指導者は愚かでした。しかし、当時のアメリカ大陸で、先住民に対して行われていた事を考えれば、日本が果敢に白人国家と戦った事は、必ずしも間違いではなかったと思うのは私だけですか?
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遺体は“1000人以上” 暴行、レイプ…先住民の子どもを大規模虐待~カナダ寄宿学校の闇〜

質問者からの補足コメント

  • しかし、私がアメリカの先住民なら、日本がアメリカに宣戦布告したと聞いて「そうか、我々と同じ肌の色をした日本人が、我々の仇を取ってくれるのか」と、涙を流して喜んだと思いますよ。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/08/15 12:06
  • ジョージ・ワシントン 初代アメリカ大統領。

    1779年、ワシントンはこう命じている。

    インディアンの村落すべてを破壊し、根絶やしにするように。単に制圧するだけでなく、絶滅させるのだ。

    この年、ワシントンはインディアンを狼と比較して、嫌悪も露わにこう発言している。“Indian’s and wolves are both beasts of prey, tho’ they differ in shape.” 「姿こそ違えど、インディアンは狼と同様の猛獣である。」

    ワシントンが軍を指揮していた間、インディアンを絶滅させる方針は一貫していて、ワシントンの軍隊はブーツトップやレギンスを作るためにイロコイ族の尻の皮を剥いだ。

    エリー湖畔からモホーク川にかけて、30を数えたセネカ族の集落のうち、ワシントンの直接命令によって、5年未満の間で28の町村が破壊し尽くされた。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/08/15 12:43
  • ジョージ・ワシントン 初代アメリカ大統領。

    1779年、ワシントンはこう命じている。

    インディアンの村落すべてを破壊し、根絶やしにするように。単に制圧するだけでなく、絶滅させるのだ。

    この年、ワシントンはインディアンを狼と比較して、嫌悪も露わにこう発言している。“Indian’s and wolves are both beasts of prey, tho’ they differ in shape.” 「姿こそ違えど、インディアンは狼と同様の猛獣である。」

    ワシントンが軍を指揮していた間、インディアンを絶滅させる方針は一貫していて、ワシントンの軍隊はブーツトップやレギンスを作るためにイロコイ族の尻の皮を剥いだ。

    エリー湖畔からモホーク川にかけて、30を数えたセネカ族の集落のうち、ワシントンの直接命令によって、5年未満の間で28の町村が破壊し尽くされた。

      補足日時:2022/08/15 12:46
  • 米比戦争は、1899年2月から1902年7月にかけて、アメリカ合衆国とフィリピンの間で発生した戦争である。

    実質的なフィリピンの植民地総督となったのが、アーサー・マッカーサー・ジュニアである。(彼の三男がダグラス・マッカーサーである)

    アメリカ軍は1902年までの4年間で20万人を殺害した。

    戦闘を指揮した将軍30人のうち26人は、インディアン戦争においてジェノサイドに手を染めた者であった。

    フィリピン軍が山に逃げ込むとマッカーサーは、彼らとその協力者を逮捕拷問、殺害した。

    1901年9月28日、サマール島で米軍が待ち伏せされ、半数の38人が殺された。

    マッカーサーは報復にサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じた。少なくとも10万人は殺されたと推定されている。

    マッカーサーはアギナルド軍兵士の出身者が多い地域の掃討を命じ、家も畑も家畜も焼き払い、餓死する者多数と報告された。

    「日本が果敢に白人国家と戦った事は、必ずし」の補足画像4
    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/08/15 16:42
  • 日本人とインドネシア独立戦争

    また、日本の敗戦後、インドネシア側の武装勢力に身を投じて独立戦争に参加した日本人がいた[注釈 11]。

    彼らが独立戦争に参加した動機はさまざまである。戦前・戦中、日本が大東亜共栄圏、東亜新秩序を打ち出していたことから、欧米からのインドネシア解放・独立の為にインドネシアの独立戦争に参加し、インドネシア人と「共に生き、共に死す」を誓いあった者

    独立戦争で命を落とした元日本兵は、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ、各地の英雄墓地に葬られ、戦後生き残った元日本兵も、インドネシア国籍を与えられたインドネシア人として、これらの墓地に埋葬される予定である。

    1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表し、独立戦争で特に貢献した市来龍夫と吉住留五郎に対し感謝の言葉を送った。

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/08/15 19:20
  • 「義を見てせざるは勇無き成り」ここは、一つ、日本を例え滅亡に追い込む事に成ろうとも、我が身を犠牲にして、世界人類の為に、例え、負けると分かっていても、戦わねばならぬと思ったのかもしれません。

    大抵の人間は勝てない喧嘩はするなと言い、それが正しいのでしょうが、自らの良心に従って自らの命を捨てる事も尊い事です。これが我々が靖国を参拝しなければ成らない理由です。「義を見てせざるは勇無き成り」ここは、一つ、日本を例え滅亡に追い込む事に成ろうとも、我が身を犠牲にして、世界人類の為に、例え、負けると分かっていても、戦わねばならぬと思ったのかもしれません。

    大抵の人間は勝てない喧嘩はするなと言い、それが正しいのでしょうが、自らの良心に従って自らの命を捨てる事も尊い事です。これが我々が靖国を参拝しなければ成らない理由です。

    No.16の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/08/16 13:40
  • 言い訳が必要なのは、日本に原爆を落としたアメリカの方でしょう。

    No.21の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/08/16 22:35
  • 日本人で正義感の有る者は私だけという事はないでしょう。

    No.23の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/08/17 08:56

A 回答 (26件中11~20件)

アジア主義って訳でもないですけどね。

ドイツやイタリアとも手を結んだりスペインとも間接的に協力したり。中国をボコボコにしたり日本の国益も考えての行動ですしね。アメリカとはどーしても対立せざるを得なかった訳ですし日本は日露戦争後仮想敵国をアメリカにしてましたよ。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

「義を見てせざるは勇無き成り」ここは、一つ、日本を例え滅亡に追い込む事に成ろうとも、我が身を犠牲にして、世界人類の為に、例え、負けると分かっていても、戦わねばならぬと思ったのかもしれません。

大抵の人間は勝てない喧嘩はするなと言い、それが正しいのでしょうが、自らの良心に従って自らの命を捨てる事も尊い事です。これが我々が靖国を参拝しなければ成らない理由です。

お礼日時:2022/08/16 13:40



改めて玉音放送を聞こう。
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最後はこれで終わらずか。
今はまさにこれで建つべき世
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ただ単に中国を侵略しようとして、結果として米英を敵に回しただけであり、どこにも果敢な要素はありません。


当時の日本は黒人もインディアンも、南方民族もバカにしていました。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

日本人とインドネシア独立戦争

一方で、独立派が武器を奪っていくのを、現地日本人が見てみぬふりをする形で、穏便に解決すると同時に、旧日本軍が独立派に事実上武器を譲渡するような例もあった。

また、日本の敗戦後、インドネシア側の武装勢力に身を投じて独立戦争に参加した日本人がいた[注釈 11]。彼らが独立戦争に参加した動機はさまざまである。戦前・戦中、日本が大東亜共栄圏、東亜新秩序を打ち出していたことから、欧米からのインドネシア解放・独立の為にインドネシアの独立戦争に参加し、インドネシア人と「共に生き、共に死す」を誓いあった者や、日本に帰国したら戦犯として裁かれることを恐れたためにインドネシアに残留した者、また日本軍政期に各地で結成された郷土防衛義勇軍[注釈 12]の教官としてインドネシア人青年の訓練にあたった者の中には、その教え子たちに請われて武装組織に参加した者もいる[注釈 13]。

これらの「現地逃亡日本兵」の独立勢力への参加については、連合国側はきびしく禁じており、日本軍の現地指導部でも、在留日本人の引揚げに悪影響を与え、ひいては日本の国体護持や天皇の地位にまで悪影響を与えるとして、対応に苦慮した[注釈 14]。

インドネシアの独立達成後、1958年1月20日に日本とインドネシアの平和条約、賠償協定が締結され、1960年代に日本企業のインドネシア進出が本格化する頃、両国間の橋渡しの役割を果たしたのは、これらの元日本兵たちであった[26]。

独立戦争で命を落とした元日本兵は、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ、各地の英雄墓地に葬られ、戦後生き残った元日本兵も、インドネシア国籍を与えられたインドネシア人として、これらの墓地に埋葬される予定である。

1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表し、独立戦争で特に貢献した市来龍夫と吉住留五郎に対し感謝の言葉を送った。

お礼日時:2022/08/15 19:16

それでも 未だに、


白人にはオドオドして、
東南アジア人には上から目線・・・
島国根性は抜けないね。
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この回答へのお礼

全ての日本人がそうではないです。

お礼日時:2022/08/15 19:17

あの戦争で、英国やフランスが疲弊し


インド、インドネシアが独立する
ことになりました。

特に、英国から独立したインドの影響は
大きかったです。

これに刺激され、世界中の植民地が
独立することになったのですから。

まさに歴史を変えた出来事でした。



さらに言えば東京裁判です。

あの裁判で、侵略戦争は悪、という
ことになりました。

それまでは、戦争は外交の一種であり
善悪は無いとされていたのです。

東京裁判では、日本を裁く口実として
侵略戦争を挙げたので、
これ以降、戦争は原則として悪である
ということになったのです。
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負けたと思ったが、


現実は終戦で
アジアは植民地支配脱出。
つまりアジアの植民地支配脱却
で勝ったということを
語る人が
いたなあ。
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負けてこういう世の中になったという認識はありますか。


大日本帝国崩壊
日本国憲法誕生
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この回答へのお礼

ジョージ・ワシントン 初代アメリカ大統領。

1779年、ワシントンはこう命じている。

インディアンの村落すべてを破壊し、根絶やしにするように。単に制圧するだけでなく、絶滅させるのだ。

この年、ワシントンはインディアンを狼と比較して、嫌悪も露わにこう発言している。“Indian’s and wolves are both beasts of prey, tho’ they differ in shape.” 「姿こそ違えど、インディアンは狼と同様の猛獣である。」

ワシントンが軍を指揮していた間、インディアンを絶滅させる方針は一貫していて、ワシントンの軍隊はブーツトップやレギンスを作るためにイロコイ族の尻の皮を剥いだ。

エリー湖畔からモホーク川にかけて、30を数えたセネカ族の集落のうち、ワシントンの直接命令によって、5年未満の間で28の町村が破壊し尽くされた。

またこのなかには、モホーク族、オノンダーガ族、カユーガ族のすべての町と集落が含まれていた。1792年に、ワシントンについてイロコイ族の一人が次のような言葉を残している[23]。

「今では、ワシントンの名を聞いただけで、我々の女たちは後じさりし、顔色が悪くなる。そして、我々の子供たちは母親の首にしがみつく」

お礼日時:2022/08/15 12:48

異議なし。

戦わなかったら日本有事に為っていた!
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今のロシアの先駆けを行ってしまっただけです。



フィリピン人はかなり抵抗してましたしね。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

米比戦争は、1899年2月から1902年7月にかけて、アメリカ合衆国とフィリピンの間で発生した戦争である。

実質的なフィリピンの植民地総督となったのが、アーサー・マッカーサー・ジュニアである。(彼の三男がダグラス・マッカーサーである)

アメリカはフィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルドに、勝利の暁に独立させると約束して背後からスペイン軍を襲わせた。

しかし、スペインの降伏後、アギナルド率いる独立軍1万8千人の掃討を始めた。上院に報告された数字では、アメリカ軍は1902年までの4年間で20万人を殺害した。

また、反帝国主義をとるアメリカ人の中には人種差別的な考え方で反対する者もいた。ベンジャミン・ティルマン上院議員は、フィリピン併合はフィリピン人移民の国内流入を招くことを恐れていた。アメリカ政府内で非白人の発言権が増大する懸念を指摘する者もいた[6]。

植民地化を開始したアメリカ軍では、1898年から1902年の間にフィリピンで戦闘を指揮した将軍30人のうち26人は、インディアン戦争においてジェノサイドに手を染めた者であった。反乱を鎮圧するために行われた虐殺や虐待が報じられるようになると、戦争への賛成意見は減少した。

ニューヨークジャーナルの風刺画。フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」と書かれている。

黒人兵のなかに「なぜ白人のためにニガーがニガーを殺すのか」という疑問が広まり、1899年11月にはデビッド・ファーゲン(英語版)ら9人が脱走し、アギナルド軍に加わった。ファーゲンは現地兵をよく統率してアメリカ軍に痛撃を与え、その功で現地軍の大尉に昇進してフィリピン人の妻も得た。

フィリピン軍が山に逃げ込むとマッカーサーは彼らを非正規軍と宣言し、彼らとその協力者を逮捕拷問、殺害した。

1901年9月28日、サマール島でバランギガの虐殺(英語版)が発生。小さな村でパトロール中の米軍二個小隊が待ち伏せされ、半数の38人が殺された。

アーサー・マッカーサーは報復にサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じた。少なくとも10万人は殺されたと推定されている。

またマッカーサーはアギナルド軍兵士の出身者が多いマニラ南部のバタンガスの掃討を命じ、家も畑も家畜も焼き払い、餓死する者多数と報告された。

お礼日時:2022/08/15 16:35

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