アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

確固たる自己は存在しないのだとしたら、死後にカルマを引き受ける自己もいないのではないでしょうか

A 回答 (2件)

自己の存在は疑いようもない事実だ。


その自己の奥に、
本我、大我、超自我、現意識とか呼ばれる存在があるとしたら。小我から大我への、顕在から潜在、そして顕在への流れがあるとしたら。
カルマは100%の確率で自己が引き受ける事になる。
因果応報、自業自得は道理となり科学となり運命となります。

我と非我について、考察してみましょう
より善く生きるために必要だと思います。
    • good
    • 0

死後も、死前も、あんまり関係ないなさそうに思います。



確固たる自己が存在しなくても、業・カルマは確固ではない自分が受けても問題ないでしょう。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
仏典などの日本語での解釈では「業」という意味合いで使われる。サンスクリット語では「行為」、または行為の結果として蓄積される「宿命」と訳される。カルマは「過去(世)での行為は、良い行為にせよ、悪い行為にせよ、いずれ必ず自分に返ってくる。」という因果応報の法則のことであり、インド占星術の土台であるヴェーダ哲学の根底に流れる思想である。

業・業報・業力・応報は、カルマに由来し、行為・所作・意志による身心の活動、意志による身心の生活を意味する語である。
原義においては単なる行為(action)という意味であり、「良い/悪い」といった色はなく、暗いニュアンスもない。
インド哲学正統派および異端派の一部の説では、善または悪の業を作ると、因果の道理によってそれ相応の楽または苦の報い(果報)が生じるとされる。
業は果報と対になる語だが、業の果報そのものを業という場合もある。仏教はすべての結果について「偶然による事物の発生、(原因なく)事物が突然・生じること、神による創造」などを否定し、その原因を説くのである。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

酒に酔ってふらついても、階段で足を踏み外せば、転げたり落ちたり、与太つきます。 確固としてないことは、特に問題ではないです。

そもそも、確固としていようが、だらしなくふらつこうが、死後に自己があるかどうかは疑問です。 「死後の自分」てのは、なんです。 被服や持ち物、あるいは地位や肩書き、属性を、自己と観てしまう、拡張自己について考えれば、存命中に「死後の自分」を考えるようなことはあるんでしょうが、脳死状態になったり、心停止したり、火葬・水葬・土葬・解体した後には自己はないですよ。 自己を意識する主体もないです。
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す