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【宗教】空海は五重塔を建てました。

当時の人たちにとって五重塔はどういう意味合いがあったのでしょうか?

寺は戦国時代の武将が戦をするのに集合場所に使っていました。寺の五重塔は櫓(やぐら)の機能をして見張りを立てるためにものだったのですか?

A 回答 (1件)

> 寺の五重塔は櫓(やぐら)の機能をして見張りを立てるためにものだったのですか?



違うでしょう。 遠くから眺めて、「すごいなぁ」と感心したり、畏敬の念を見る人に生じさせる目的で、階層を重ねた建築をしたのでしょう。

> 当時の人たちにとって五重塔はどういう意味合いがあったのでしょうか?

人にもよるでしょう。 建築の用材を切り出したり、運搬する用役に狩り出される人にとっては、ロシアで徴兵させられる人と同じで、逃げ出したいということになっていたかもしれないです。
寺を建立させるのはこの当時、天皇とか、官のお偉いさんですから、東寺、西寺にしても、国家鎮護のために重要な国政の一部という意味を持っていたでしょう。  通常の貴族・公家・官人・庶民は、すげーことだと、新幹線や超高層ビルの風景を感じていたでしょう。

> 【宗教】空海は五重塔を建てました。

東寺の塔であれば、空海が建てたというのはあってないのかも知れません。
性霊集の巻9には、東寺、西寺の搭幢と書いているので、太い柱をシンボルで建てようとしたのかもしれませんが、この巻9は11世紀に創られた可能性があり、空海の存命中に塔を建てる計画があったのかも疑問です。
https://www.kyoto-arc.or.jp/News/s-kouza/kouza26 …
《 塔は造営が遅れ、元慶年中(877 ~ 885)に造営。=造営期間は約 90 年間 》 塔建築の着工そのものが9世紀後半で、落成に90年間も懸かったのなら、 835年に亡くなった空海の直接的関与はないのでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AF%BA
東西両寺の造立がいつ頃始まったかは定かではないが、『類聚国史』の延暦16年(797年)4月4日条に笠江人が造西寺次官として記載されているのが記録上の初見とされる。弘仁6年(815年)に造西寺司が任命されて以降、関連する人事記録は見られないため、これ以降に一応の完成をみたとされている。
嵯峨天皇の時の弘仁14年(823年)、東寺は空海、西寺は守敏に下賜されたとされるが、『高野春秋編年輯録』に記されたこの記録は伝説性が強いとされている。
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この回答へのお礼

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お礼日時:2022/09/30 10:09

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