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乱捕りされ売り払われた人々は、奴隷としてどのように使われたのでしょうか?よく戦国時代の乱捕りの話は聞くのですが、売り払われたその後の状況はあまり聞かないもので。男は雑兵になるのでしょうか?女の人は略奪婚させられるのでしょうか?子どもは?ここでは、海外に売り払われた人々ではなく、日本国内で売買された人々についてお願いします。

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A 回答 (3件)

武士あるいは戦闘要員以外の人は乱捕りの対象になります 拉致された後は人以下の家畜のごとくつかわれたそうです ルイス フロイスの日本史のなかに 島津と大友の耳川の戦いの後の捕虜の扱いにたいして ひどいものだと書いています 以下がそのないようです (島津は自国での戦いではなく 他国ですからね)



(1) (薩摩軍が)実におびただしい数の人質、とりわけ婦人・少年・少女たちを拉致するのが目撃されたことである。これらの人質に対して、彼らは異常なばかりの残虐行為を(あえて)した。彼ら(被害者)のうちには大勢のキリシタンも混じっていた。
(2)薩摩軍が豊後で捕虜にした人々は、肥後の国に連行されて、売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態にあったから、買いとった連中まで養えるわけがなく、彼らをまるで家畜のように、高来(長崎県・島原半島)に連れて行って売り渡した。彼らは豊後の婦人や男女の子供を二束三文で売却した。(売られた)人々の数はおびただしかった。
(3)島津軍に捕虜となった人々は、薩摩や肥後に連行された後、羊の群のように、市場を歩かされ、売られていった。彼らの多くは1、2文の価で売却された
(4)当地方に渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国ヘ連行している。
(5)豊後の国に跳梁していた最悪の海賊や盗賊は、とりわけこれら仙石の家来や兵士たちにほかならなかったからである.彼らは、なんら恥とか慈悲といった人間的感情を持ち合わせていない輩であり、当不当を問わず、できうる限り盗み取ること以外に目がなかった。

フロイスをして 島津軍は豊後南部の地を焼き払い打ち壊して侵攻し、捕虜とした人質に対して異常なほどの残虐行為を行っているが、大友方の応援の豊臣秀吉の武将仙石秀久の軍勢によっても略奪・乱妨行為が行われていたと 敵ばかりでなく、味方の軍勢によっても略奪された。 
フロイスは 戦国期日本各地の戦場で繰り広げられた残虐・非道の行為は大同小異で見てきたでしょうが、捕虜を外国に売り飛ばすという暴挙の舞台となった豊後の悲惨さに立ち会って どう思ったでしょうか
秀吉はびっくりして すべてもとに返せ 外国への人身売買禁止を通達したそうです。




 
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男は金山、女や子供は宿場や遊廓に連行されました。


売春は世界最古の職業です。
縁起担ぎの略奪婚は身分の高い女性の場合ですね。
ほかには火薬輸入のため海外へ売却されたり。南蛮貿易のためキリスト教に改宗する大名も多かったようですね。
欧州と同様に。連行せず、親族が身代金を払えば開放したパターンもあったようです。

16.小岩嶽城落城  第二章 信玄の筑摩・安曇郡平定(8)
>男女は生け取りにされ、ことごとく甲州へ連行
>親類のある人は二貫、三貫、五貫、十貫というお金を払って請け戻し
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/shingen/16.html
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農業労働者


だっと記憶しております。
現在のような家内制農業が成立したのは江戸時代に入ってからしばらくしてであり、江戸時代初期は農業の生産単位には多くの作男や作女を必要としました。
http://www.maff.go.jp/chushi/a/kyoku/jigyou/suir …
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Q野武士はなんですか

野武士というは、盗賊とか、山賊とかという話しなら

いつも聞いてましたが、

その「野武士」とは、戦国時代で別に生活して活動しましたから

なんか、他の時代で活動した山賊や盗賊とは違うことがありませんか

Aベストアンサー

野武士とは特定の君主に仕官しない武士の集団と言う理解で良いと思います。

領地をもっている武士の場合には、なんらかしらの形で自身より強力な勢力の保護を必要としますが(保証してもらわなければ領地を奪われてしまいますから)、野武士の場合は大抵の場合領地からの年貢を経済的な基盤としていませんでした。また有力な大名の勢力が接する国境に拠点を構えていたようです。

戦時は隣接の大名の傭兵として稼ぎ、平時は国境という大名の勢力が及びにくい街道や水運の要衝において通行料を徴収したり(かわりに野武士の勢力圏での安全を保証していました)、富裕な村落を略奪したりして生活していました。ただし、「略奪」は野武士に限らず、当時の武士においては軍事演習と実益が得られる一挙両得の行動で、武士として「やましさ」を感じるような行為ではなかったようです。

交通の要衝で通行料を徴収し安全を保証する活動を通して、水運業者や馬借などの陸運業者との繋がりの深い野武士も多く、室町時代初期の「悪党」と呼ばれた武士と共通点が多いように思います(「悪党」には同族的な要素が強いのですが、「野武士」の集団では血縁関係は必ずしも重要な要素ではなかったイメージがあります)。

野武士とは特定の君主に仕官しない武士の集団と言う理解で良いと思います。

領地をもっている武士の場合には、なんらかしらの形で自身より強力な勢力の保護を必要としますが(保証してもらわなければ領地を奪われてしまいますから)、野武士の場合は大抵の場合領地からの年貢を経済的な基盤としていませんでした。また有力な大名の勢力が接する国境に拠点を構えていたようです。

戦時は隣接の大名の傭兵として稼ぎ、平時は国境という大名の勢力が及びにくい街道や水運の要衝において通行料を徴収したり(か...続きを読む

Q戦国時代における戦での遺体の取り扱いって?

近年の戦争の映画で戦死者の遺体を棺に収め、国旗などでくるんで本国に移送するという場面を見たことがあるのですが、日本の戦国時代はどうしていたのでしょうか?
大きな戦では大量の遺体が発生すると思うのですが、そのまま放置されたのでしょうか?それとも組織的に回収されたのでしょうか?
また、海外(中世の欧州など)でどうだったのかも分かれば教えてほしいです。

ご存知の方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、通行するクルマ以外に邪魔者はいません。効率よく死体処理(カラス等の食事)が進むでしょう。

ご質問ですが、戦国時代の戦いでの戦死者の遺体は、下記の経過を辿ったと思われます。

1. 戦死者は、首を取られた状態で戦場に残されている。
よほど大きな合戦、例えば武田信玄が徳川家康を完敗させた三方ヶ原の合戦でも、徳川軍の戦死者は1000人行かない計算のようですから、そんなに大きな数ではありません。普通の合戦なら「戦死者10人」とかの単位です。

2. 戦闘が終わって両軍が引き上げると、既に回答されているように農民たちが「戦場狩り」を行います。これは、「田畑を荒らしたことに対する補償」の意味も含まれていたようです。
この際は、我々の眼から見て価値がある鎧、刀、槍などはもちろん、着ているものもフンドシに至るまで全て剥ぎ取られます。戦国時代の日本は、今の北朝鮮のような「使えるものは全て使う」社会ですから、例えば「戦死者がつけていた、血に染まったフンドシ」でも洗えば価値があるので剥ぎ取られました。地位のある武士が着ていた服は、農民から見れば「超豪華な織物」ですから、血や泥を落として分解すれば高値で売れました。(和服は、縫った部分をほどけば長い反物に戻ります)

3. 農民が徹底的に戦場狩りを行った後、戦死体は、全て丸裸になったでしょう。即ち、冒頭で説明した「クルマに轢かれたタヌキ」と同じ状態です。この状態であれば、後は野生動物が死体を処理してくれたと想像できます。実際、合戦の後の戦場をカラスが徘徊している様子が、当時の手紙か何かで描写されている例があったと思います。

4. 現在も痕跡が残るように、地元の僧侶が穴を掘って死体を埋め、供養したと言う例もあったでしょう。これは、「戦場狩りで大儲けした農民たちが、罪滅ぼしの気持ちで供養を依頼」ということが多かったのではと思われます。

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、...続きを読む

Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
...続きを読む

Q最強の戦国武将は?

最強の戦国武将は誰だと思いますか?皆さんのご意見を聞かせてください。戦略的にではなく戦術的に強い武将でお願いします。ちなみに私は上杉謙信だと思います。

Aベストアンサー

織田信長ではないかと思います。
「大軍をもって寡兵を破る」というのが彼の真骨頂で、敵の数倍の兵を集めて、弱い敵を討ち漏らさないのは、当たり前のようでなかなか出来ることではありません。
十分なリサーチをし、勝てるような算段をして、万一の準備をしてから戦に臨み、確実に勝ちを拾う。
信長が世に出たきっかけは桶狭間の戦いですが、人間若いうちに成功するとなかなかそのやり方を否定することが出来ません。
彼の場合、これ以降は余程でなければ相手より少ない兵力で戦をすることは無く、やる場合も損害が少ないように上手に逃げます。
信長の大失敗で知られる越前攻めですが、部下を全て見捨てて自分だけ逃げ帰るような事はなかなか出来ることではありません。
途中で名も無き土民に首を獲られれば末代までの恥ですし、リーダーが逃げ出せば軍団は壊滅し、裏切り者が出て岐阜に反転し、自分の妻子すらどうなるか判らない。
私なら落城した金ケ崎城に兵を入れて浅井軍を牽制し、全力で木の芽峠を越えて朝倉を攻撃します。
運がよければ朝倉を壊滅させて浅井と対峙できますし、運悪く命を落としても武士の名誉は守れ、悲運の名将という名が残ります。
それがあんなにも大胆に逃げたのは、将に天才的な名将と言えるかと思います。
途中の朽木も、それを見越したからこそ恩を売るつもりで朽木谷を通したのではないでしょうか。

上杉謙信は結局人間の心理が読めない武将と思います。
この時代の武士はドライなもので、恩とか義理とかは余り考えていません。
実質の無い関東管領を名乗り、見入りの無い信州に介入し、部下の心は離れ、関東の諸将は冷ややかに彼を見つめ、同盟していた北条もメリットが無いとして同盟を破棄します。
戦に出ても勝ちを拾えず、砂上の楼閣のような物を得て引上げる、しかも田植えが済んでごく短期間だけちょろっと戦をして引上げる。
上杉謙信、武田信玄などは所詮はアマチュア武将であり、嘗て清原・桑田を擁したPL学園が阪神タイガースより強いのではないかと幻想を抱かせましたが、実際にはプロとアマとの間には大きな差があるように考えます。
短期の戦ではアマチュアがプロを抑える事は出来ても、決定的に破ることは出来ませんし、やがて破れていく。

上杉は運良く謙信が死んだので幕末まで残りましたが、生きていれば、北陸道を進む柴田軍と信州から進入する信忠軍、伊那から徳川軍などが進軍し、じりじり春日山に迫られ自刃したかと思います。

歴史的にも徳川家には武田の生き残りが多く仕え、彼らにとって武田信玄は神のような武将で、それに5分に渡り合った謙信は神に準じる武将と祭り上げられ、逆に家康が臣従した今川家と織田家は低い評価が付きますので、そこは割り引いて考えてもよいのでは。

最強というからには、やはり兼業武士(アマチュア)ではなく専業の武士(プロ)で競うべきで、信長を除けば、蒲生氏郷、結城秀康、柴田勝家、加藤清正などかと思います。

私の独断と偏見で。

織田信長ではないかと思います。
「大軍をもって寡兵を破る」というのが彼の真骨頂で、敵の数倍の兵を集めて、弱い敵を討ち漏らさないのは、当たり前のようでなかなか出来ることではありません。
十分なリサーチをし、勝てるような算段をして、万一の準備をしてから戦に臨み、確実に勝ちを拾う。
信長が世に出たきっかけは桶狭間の戦いですが、人間若いうちに成功するとなかなかそのやり方を否定することが出来ません。
彼の場合、これ以降は余程でなければ相手より少ない兵力で戦をすることは無く、やる場合...続きを読む

Q北朝鮮からミサイルが飛んできたら

 北朝鮮から核ミサイルが飛んで来て、永田町に落ちたとすると、被害はどのくらい広がりますか? 即死のみならず、疾病による死亡や後遺症も含めて。

よろしくおねがいします。

Aベストアンサー

■他サイトで同じような質問に答えているのですが、解りやすく新たなデータを追加したため長文となってしまいました。

 北朝鮮が保有する弾道ミサイルで、日本への発射が懸念される物にノドン2号とテポドン1号ミサイルがあります。
 ノドン2号は旧ソ連が開発したスカッドの亜種で、1,300kmの射程を持つと言われています。一方テポドンは1段目にノドンを使い、2段目にスカッドの弾体を結合して作った2段式弾道ミサイルで、射程も1,700km~2,200kmと見積もられています(射程および発射速度から中距離弾頭ミサイルとする記述もあります。が正直、どの数値が正しいという確証がないため、かなり曖昧な分類となっていることは確かなようです)。

 弾頭を搭載する2段目スカッド・ミサイルの弾体直径は0.9m弱で、弾頭を搭載するスペースが非常に小さく、核運搬兵器としては戦術ミサイルと呼ぶべき種類の物でしか在りません。
 同サイズのミサイルの弾体重量も最高で0.8tを下回り、最大重量を搭載すれば当然ながら最大射程まで飛ばすことはできず、目標距離を計算した搭載重量に低減させられることになります。

 核専用ミサイルとして新規設計するならともかく、化学・生物兵器弾をも搭載可能な柔軟性設計とするのが一般的な考え方であり、弾頭重量を500kgとした場合、そこに搭載される核弾頭は20~50kt程度と見積もることが出来ます。

▼弾頭の威力と被害予想に関する書籍やサイトを調べたのですが、詳しく述べている物を見つけられませんでした。

 現在、北朝鮮は20kt級核爆弾を7~8発製造可能なプルトニウムを抽出していると観られています。
 広島は投下されたLittle Boyは13kt(ウラン235)により20万人の犠牲者をだし、長崎もFatmanが22kt(プルトニウム)によりは7万4千人が数箇月の間に亡くなり、その後の調査で死亡者数が15万人にも達しました。平坦な広島に対して山間部による起伏が被害を減少させたのです。
 しかし、都会の場合、破壊された建造物が市街地を埋め尽くし、瓦礫と化した廃墟街を車輛で移動することは非常に困難であり、そのような地を人が歩くことも容易くはないでしょう。人口1200万(平日であれば都郊外からの近県から、多くの労働者が都心へと集まるため、被害想定人口はかなり高いと見るべきでしょう)の中心で核爆発が発生したシミュレーションをまだ目にしたことがないので解らないというのが本音です。

 ただ爆発後の死亡と放射能汚染による傷病認定が懸念されるかも知れませんが、他国からの攻撃であることを考慮するなら、政府も寛大に攻撃による疾病患者であることを認めるはずです。
 さらに大都市が核汚染に見舞われた場合、救援する側が対核防御服を身につけていなければ活動できないことです。日本ではこの手の状況対応能力が(ちいさな自衛隊部隊以外)ほとんどゼロであると言う事実です。つまり、救援したくても救援する側に被害が出るため救援活動が行なえず、放置された数日の間に助かる多くの命が失われるでしょう。

 個人的にはその数を500万~700万と見積もるのが妥当かと思っています。

■他サイトで同じような質問に答えているのですが、解りやすく新たなデータを追加したため長文となってしまいました。

 北朝鮮が保有する弾道ミサイルで、日本への発射が懸念される物にノドン2号とテポドン1号ミサイルがあります。
 ノドン2号は旧ソ連が開発したスカッドの亜種で、1,300kmの射程を持つと言われています。一方テポドンは1段目にノドンを使い、2段目にスカッドの弾体を結合して作った2段式弾道ミサイルで、射程も1,700km~2,200kmと見積もられています(射程および発射速度から中距離弾頭ミサイ...続きを読む

Q「すいません」と「すみません」どちらが正しい?

 タイトルにあるとおり、素朴な疑問になりますが、「すいません」と「すみません」ではどちらが日本語として正しいのでしょうか。分かる方ぜひ教えてください。

Aベストアンサー

もともとは「すみません」ですが、「すいません」と発音しやすく変えたものもたくさん使います。
話す時はどちらでもいいですよ。

ただ、私個人の語感で言うと、公式的な場では「すみません」の方がいいような気もします。「すいません」はちょっとくだけた感じかな。でも、これはあくまで私個人の語感。人によって、あるいは地方によっても感じ方は違うだろうと思います。

書くときはもちろん「すみません」にしましょう。

発音しやすく変化した発音の他の例としては
手術(しゅじゅつ→しじつ)
洗濯機(せんたくき→せんたっき)
などがあります。これも、話す時にはどちらでもいいです。「しじつ」「せんたっき」と書いてはいけませんが。

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

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 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q実際の殺陣はどうだったんでしょうか?

よくテレビや映画などで侍や武士同士が刀を使って切りあってやる殺陣シーンがありますが、チャンバラといわれるようなあんな格好いい戦い方だったんでしょうか?僕だったら怖くて隙を見つけて突くと思います。実際、剣道の有段者と剣道をして籠手をして突きました。戦国時代から江戸時代まで侍同士の戦い方は実際はどんな刀さばきだったんでしょうか?また一人で何人も相手して勝てるものなんでしょうか?また、鎧を着た武士は切られずにいられたのでしょうか?あまりにも映像が想像できないのでよろしくお願いします。また、実際の侍の殺陣の映像ってありますか?

Aベストアンサー

実際の剣術とTVや映画での剣の動きはまったく違います。殺陣(西洋ではステージコンバットといいます)は常に観客の目(あるいはカメラ)を意識し動きを大きく、派手にします。たとえばシュワルツネッガーの「コナン」ですが大きな剣を大きく振りかぶり派手にうごかします。しかし、剣術ではそのような動きをすると相手に攻撃のタイミングが読まれてしまいます。私の師は「コナンは下手なケンジュツ、スグコロサレマース」といつもいいます。特に突きの場合、剣先は小さく動かすのが大切で、相手の体の幅から出てしまったら危険な状態です。
西洋では日本より接近戦が多かったようです。ばら戦争当時の戦死者をまとめて埋めた墓地が発掘されたとき、戦死者のほとんどがスパイクや斧状武器によるもので、平均4~5個の骨に達する傷がありました。
(内臓に達する傷は残っていないので確認できません)この時代は鎧が発達し多くの兵士も鎧を着ていました。これを見ると一撃で人はなかなか死なないようですね。ちなみに日本の場合、もっとも致命傷として多かったのは石であり、次に矢、そして槍でした。

鎧を着た相手には甲冑剣術というのがあり、西洋では剣を棒術のように使い足や腕に絡めたり、脇の下や股間を狙いました。特に後期のプレートアーマーは強靭でしたから、ターゲットはそこしかないので非常に特殊でユニークな剣術になりました。

実際の剣術とTVや映画での剣の動きはまったく違います。殺陣(西洋ではステージコンバットといいます)は常に観客の目(あるいはカメラ)を意識し動きを大きく、派手にします。たとえばシュワルツネッガーの「コナン」ですが大きな剣を大きく振りかぶり派手にうごかします。しかし、剣術ではそのような動きをすると相手に攻撃のタイミングが読まれてしまいます。私の師は「コナンは下手なケンジュツ、スグコロサレマース」といつもいいます。特に突きの場合、剣先は小さく動かすのが大切で、相手の体の幅から出て...続きを読む

Q日本の歴史に奴隷制はあったのですか?

NHKの番組で大阪城夏の陣で
勝利した徳川軍の下級武士たちが
大阪の民衆を1000人連れ去り
奴隷としたとありました。

その中には、3歳の子供もいたそうです。
この子供をなんの役につかせるのかも疑問ですし?

日本の長い歴史の中で奴隷があったとは
知りませんでした(海外と違い民度の高い日本人には、
ないと思っていました)

過去に日本の歴史で奴隷の「制度」は
あったのでしょうか?

Aベストアンサー

確か、魏志倭人伝に「生口?十」と言う日本からの貢ぎ物があり、
生口とは奴隷のことであるからその頃からあったのでは。
 日本では戦闘員(武士)を殺しても、民衆を殺しません。
殊に戦国時代以降は戦闘員と生産員の区別がついていました。
生産員を殺しては、戦闘員は生きて行けません。
3才の子とはいえ、7年養えば十分な労働力となりますし、その母も、子を産む能力を実証した価値ある人です。家康の「子持ち好み」と言うのもこのへんから来ています。
なお、明治以前は「帳はずれ」(戸籍にのっていない)と言う人も多くいましたが、「納税義務がない」と言うことの様です。気楽だったようです。
 奴隷からぬける道も多々あり、これも民度の高い日本ならでは。

Q戦国時代の戦は実際に互いの軍の兵士や武将たちがワーワー叫びながらだだっ

戦国時代の戦は実際に互いの軍の兵士や武将たちがワーワー叫びながらだだっ広いようなところで敵味方混ざりながら戦っていたんですか?
戦国時代がかかれた映画とかゲームとか見るとそんな感じでかかれていますが

Aベストアンサー

何とも言えませんが・・・そうですね、自然に考えれば戦闘の際は現在の科学戦法と違い、真っ向勝負が基本だった事が「何々合戦図屏風」なんかを見れば、分かります。敵味方入り乱れて背中に自分の軍である幟を背負い目印にし、ワーワーやっていたんだろうという事は想像に難くありません。大声を上げるのは「自分を鼓舞」するのと「相手を威圧」する効果があるので、「おりゃ~」「きさま~」「死ね~」「お前らの負けじゃ~」とか言いながら戦闘してたんでは無いですかねぇ。それが入り混じれば、ワーワーとしか聴こえないので、12noname34さんが疑問に思っている事は正しいと思いますよ。


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