痔になりやすい生活習慣とは?

こんにちわ。ふと、ゲームをやっていて気になったので質問します。
よろしくお願いします。

よく、アニメやゲームなどで、武将が先頭で敵陣に突っ込んでいくシーンを見かけるのですが、実際の戦闘方法というのは本当にあんな感じだったのでしょうか?

日本の戦国時代にしろ、中国の戦国時代にしても強い武将というのは、一人で100人を倒すみたいなイメージがありますが、本当にそのようなことをした場合すぐに死んでしまうと思うのですがどうでしょうか?

大の大人が10人も集まれば一人くらいやっつけられそうなものです。

やはり、ゲーム等にでてくる武力が強い武将というのは本人が強いではなく、その軍団が強いだけなんでしょうか?統率がとれているとかみんなが死ぬ気で戦っているとかそういう意味なのですか?

実際、武将達は一番後方で戦いを指揮して親衛隊に守ってもらっていたからなかなか武将は死なないのではないか?

そう思ったので質問してみました。

誰か戦国時代の戦闘方法を知っている人、ご教授よろしくお願いします。
一騎当千とか絶対嘘だと思うんです。

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A 回答 (5件)

これは時代によります。


日本でも戦国時代後期になれば、銃の普及により前線で武将が指揮を取る危険度が大幅に上がり、前線で華々しく戦うのは無理になっていきます。
しかし飛び道具が発達する前は、武将が前線で戦うのは重要な要素でした。
例えば有名な項羽は前線で激しく戦い、最後の戦いとなった垓下の戦いでは一日で漢の指揮官だけで60人あまりと交戦したという、ちょっと信じがたい記録が残っています。
当時の戦闘では雑兵の殆どは雇われ兵で「命をかけて戦う」理由は殆ど無いため、自分たちの指揮官が打ち負かされると、戦意をなくして逃げ出してしまうのが普通でした。
つまり「一騎当千」には誇張はあっても、決して嘘ではありません。
このため少数の兵でも指揮官の武勇次第で状況をひっくり返す事が可能であったために、項羽や呂布と言った剛勇名高い将の軍は強かったのです(ただし個人の武勇で得られるのは、あくまでも戦術的勝利です。彼らが最終的に敗れたのが個人の武勇の限界を示しています)。
ただ上述のように時代が下り、飛び道具が発達するとそのような個人の武勇によって戦場を支配することは困難となり、現代ではそれは遠い昔の話となりました。
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この回答へのお礼

飛び道具の普及によりそういった先陣を切ってみたいなことはないというのは想像できます。

しかし、昔のそういう人っていうのはかなり勇気のある人達ですね。
僕にはマネできません。
本当に一騎当千の武将達がいたってことは驚きです。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/11/27 22:59

戦国よりちょつと前は、まず鏑矢を放って、お互い名前をいって、一騎打ちをします。


供の者は後ろで待っておりまして手を出しません。それがひとつのルールでしたのでね。そこで決着が付きますと、一気に乱戦となります。元寇の時、日本のお侍さんは、いつものとおり、名乗りをして、前に出ましたが、モンゴルの者達は、一斉に取り囲んであなたのおっしゃるとおり、ボコボコにしてしまいました。
その組織された集団戦にびっくりしたそうです。以降日本も集団戦に移行していきます、ですから乱戦になりますと一気当千はなかなかですね。将が敵陣に突っ込むなんてことは、負け戦ですよ。
後ろで指揮を取るものですからね。度胸という問題なら、優劣はある程度つけられるでしょうが、基本的に死ぬということに、今思うほど恐怖はなかったようです。その死が家の興隆に結びつくと思えば平気ですからね。そういう意味では優劣はつけにくいでしょうがね。

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なんですが、肝が据わってなくてはね、目の前で何人もの死者やけが人が出て、負け戦になれば、もう帰るところがなくなるわけですから、
たくさんの人の生活を背負ってるんですからね、負ければ殺されるか捕虜になり、名のないものは、奴隷にされ、もっと下のものは、外国にも売り飛ばされるんですよ。ゲームのように勝った負けた、でリセットとはいきません。絶対にリセットできない条件でもし君がゲームをしてみたら分かりますよ、でも命まではとられない。
強いということは、相手を打ち倒すだけではなくて、負けないことを第一にして、みんなを守りきれるリーダーが、強いというか、名将とおもいますよ。
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指揮する部隊の規模によって、指揮官である武将の行動は変わって来るでしょう。

指揮官の挙動が末端でも把握できる、百人から数百人程度(近代軍で言う所の中隊から大隊レベル)では、指揮官が先頭に立って『我に続け』とやった方が素早く動ける事が多いでしょうし、指揮官が活躍すれば、直接部隊全体の士気に良い影響を及ぼすでしょう。これは、末端の兵にまで指揮官の姿が見えている場合の話です。
数千~万単位の部隊ともなりますと、末端の各部隊から総大将の姿などは殆ど見えませんので、太鼓や鉦などの鳴り物で合図を送るか、伝令を走らせて統制するしかありません。先頭で槍など振り回していては、こう言った行動は無理ですし、部隊全体の動きも把握できないでしょう。この場合の大将は、後方の本陣に腰を据えて、全体を見渡しているべきなのです。
武将が戦場で直接槍を振るった武勇伝と言うものは、先に挙げられている高橋紹運のように、大抵千人未満の小部隊を率いている際のものです。嘘や虚構では無いでしょうが、それは小部隊の指揮官のする事で、本当の大物はやらない、と言った認識で良いでしょう。
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戦国時代の武将高橋紹運は、島津軍2万を760人ほどで応戦し、17人の敵兵にきりつけていたそうです。


当然討ち死にですが。
同じく大友氏の武将で、毛利軍と戦いつづけた立花道雪は、勇猛な武将でしたが、下半身不随で、自分で立つこともできない武将でした。
関が原の戦いで活躍した大谷吉継は、ハンセン氏病のため、目が見えない状態で、軍を指揮したともいわれています。
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もちろんどんな強い武将でも一人で百人も倒すことはできません。


そういうのはお話の世界です。
だからといって武将が安全な後方から指揮していただけというわけではありません。
昔の戦争は現代のように通信機器や移動手段が発達していないので、基本的に指揮官は目に見えて声が届く範囲にいる限りの兵しか動かす事はできません。
(のろしや伝令を活用してある程度補えますが)
したがって時には指揮官自らが最前線におもむいて号令する必要が出てきます。
また大将がそのような姿を示す事が部下の士気を高めることにもつながりますし。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

漫画やゲームにでてくる果敢に大将自ら先頭に立つというのは実際本当にあったということですね。
勉強になりました。

お礼日時:2009/11/27 22:57

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Q三国志で「一騎当千」は本当か?

タイトルのとおりなんですが、一騎当千(一騎で千人もの敵を相手にできるほで強いこと)って本当
なのでしょうか?
と、言うのも最近「三国志」にハマリまして色んな本を読んでいます。その中で関羽や張飛、趙雲の
強さには目を見張るものがあります。
一騎で10万の敵陣を突破したとか、一騎で1000人の敵兵を倒したとか・・・・。

話的にはとても面白くて私も彼らのファンになってしまったのですが、でもこれって本当なんでしょうか?
現実に戦場で戦闘を行い、一騎で1000人の相手を打ち破る事など可能なのでしょうか?

私が想像するに、いくら強い武将がいたとしても弓矢で攻撃すればよけきれるものではないと思います。
物語の中では彼らはいとも簡単に弓矢をはじいていますが、四方から高速で飛んでくる弓矢をはらうのは
単純に考えれば至難の業だと思います。また、1000人もの相手と戦うとその疲労も相当のものだと
思います。

剣道や長刀(なぎなた)の試合を見ていて感じるのですが、例えばあれが真剣だと仮定した場合、
自分が攻撃を受けずに相手だけを倒すのは、ほぼ不可能のような気がします。まして、戦場で相手が
1000人、周りからは弓矢が飛んでくるとなると「一騎当千」という言葉は本当なのか、それとも話を
面白くするために後世の人たちが彼らの武勇伝を大きくしてしまったのか、それとも実は本当に1人で
1000人に値するほど強かったのか、と言う事が気になってしまいました。

この辺について詳しくご存知の方、もしくはご自分の持論や推論をお持ちの方がおれれましたら
色んな意見をお聞かせいただければと思います。

タイトルのとおりなんですが、一騎当千(一騎で千人もの敵を相手にできるほで強いこと)って本当
なのでしょうか?
と、言うのも最近「三国志」にハマリまして色んな本を読んでいます。その中で関羽や張飛、趙雲の
強さには目を見張るものがあります。
一騎で10万の敵陣を突破したとか、一騎で1000人の敵兵を倒したとか・・・・。

話的にはとても面白くて私も彼らのファンになってしまったのですが、でもこれって本当なんでしょうか?
現実に戦場で戦闘を行い、一騎で1000人の相手を打ち破る事...続きを読む

Aベストアンサー

まず、一人が1000人を倒す場合。飛び道具は現実的ではありません。
刀の場合ですが、日本刀ならせいぜい10人も切れば、
刀身に脂が回ったり、骨や甲冑で刃こぼれがするなどして、
使い物にならなくなるといいます。ですから、戦国時代の武将は、
換えの刀を何本も持ち歩いたそうですが、1000人を切るほどの
刀を持ち歩けるとも思えませんね。普通は毎日戦いの終わった後、
自分でせっせと研いで、次の日に備えたはずです。
ただ、中国の刀は青銅器とか鋳鉄で、
切るというよりは殴るといったほうが適当な代物かもしれませんけど、
この場合はねばさに欠ける(折れやすい)ので、
1000人を殴り殺すというのも至難の業でしょう。

逆に1000人が一人を倒す場合。飛び道具でないと面倒ですね。とはいえ、
鉄砲弓矢の場合、有効な力を持つ距離がそんなに長いわけではありませんし、
狙いがそれてしまえば、甲冑を付けていればあまりたいしたことはないでしょう。
仮に1000人が一人の回りをぐるりと囲んでいっせいに撃ったとして、
その円の半径は100mは超えるでしょう。近代の兵器でもない限り、
このぐらいの距離になってしまうと殺傷能力は期待できません。
密集したとしても、同士討ちの危険もあるので、
同時に攻撃できるのはすぐそばにいる10~20人くらいがいいところではないですかね。
この程度なら槍でもできます。島津豊久が関が原の退却戦で、
同時に十数本の槍に突き上げられて討たれたなどという逸話もあります。

それにしても、騎乗で防具を付けて武器を振り回すというのは
相当なテクニックを要する重労働ですから、
そんなに長い時間戦えるものではありません。
日本の戦国時代の合戦でも、
半日も続いたようなケースは少ないのではないでしょうか。

というわけで、

> 話を面白くするために後世の人たちが彼らの武勇伝を大きくしてしまったのか、

ってところが正解なのかな、と思います。
1対1だって戦って勝つのはたいへんなのですから、
冷静に考えれば1対10ならすごいことだと思うのですが、
そこはそれ、素人相手に面白く語るのが講釈師というものです。
1対10ならそこらの村の力自慢や法螺吹きの守備範囲に見えそうですからね。

なお、1000人を倒すのではなく、1000人の軍を突破するのなら、
それほど難しい話ではありません。上に書いた理由で、
1000人が一度に一人に当たることはまずできないのですから。
それでも備えているところに突っ込んでいけば難しいでしょうけど、
不意をうって、対応する暇を与えずに行けるのなら可能性はあります。

まず、一人が1000人を倒す場合。飛び道具は現実的ではありません。
刀の場合ですが、日本刀ならせいぜい10人も切れば、
刀身に脂が回ったり、骨や甲冑で刃こぼれがするなどして、
使い物にならなくなるといいます。ですから、戦国時代の武将は、
換えの刀を何本も持ち歩いたそうですが、1000人を切るほどの
刀を持ち歩けるとも思えませんね。普通は毎日戦いの終わった後、
自分でせっせと研いで、次の日に備えたはずです。
ただ、中国の刀は青銅器とか鋳鉄で、
切るというよりは殴るといったほうが適当な...続きを読む

Q戦国時代の戦は実際に互いの軍の兵士や武将たちがワーワー叫びながらだだっ

戦国時代の戦は実際に互いの軍の兵士や武将たちがワーワー叫びながらだだっ広いようなところで敵味方混ざりながら戦っていたんですか?
戦国時代がかかれた映画とかゲームとか見るとそんな感じでかかれていますが

Aベストアンサー

何とも言えませんが・・・そうですね、自然に考えれば戦闘の際は現在の科学戦法と違い、真っ向勝負が基本だった事が「何々合戦図屏風」なんかを見れば、分かります。敵味方入り乱れて背中に自分の軍である幟を背負い目印にし、ワーワーやっていたんだろうという事は想像に難くありません。大声を上げるのは「自分を鼓舞」するのと「相手を威圧」する効果があるので、「おりゃ~」「きさま~」「死ね~」「お前らの負けじゃ~」とか言いながら戦闘してたんでは無いですかねぇ。それが入り混じれば、ワーワーとしか聴こえないので、12noname34さんが疑問に思っている事は正しいと思いますよ。

Q戦国時代でまさに知将と言えるすごい武将を教えて下さい

戦国時代でまさに知将と言えるすごい武将を教えて下さい
できればその理由なども書いて頂けたら嬉しいです

Aベストアンサー

一般的に「知将」というと戦上手な武将を指すと思うのですが、「頭がいい」というような意味合いもあると思うので、インテリというか知識人的な意味で明智光秀を挙げたいと思います。

明智光秀という人はなかなか謎が多い人物で、来歴がよくわからないのですが元々は足利義昭の家臣でした。将軍家の家臣ですから天皇家や公家ともかなり太いパイプを持っていたらしく、信長に重用されました。義昭が追放されるまでは信長の家臣であり、義昭の家臣でもありました。そういうのが認められていたのはいかな戦国時代とはいえ異例だと思います。
信長の家臣の中で、最も早く「一国一城の主」となったのが他ならぬ光秀です。京都に程近い坂本城が与えられました。光秀は秀吉より柴田勝家より新参の家臣で、その抜擢ぶりも極めて異例です。いかに信長が重用していたかが分かります。
合戦で活躍したイメージはないですが、参加した合戦でこれといった負け戦も特になく、信長の野望を始めゲームでの武力値などのレートはどれもかなり高いですね。丹波国を平定してその治世は大変な善政だったらしく、今でもあの辺りでは「光秀公は名将、信長は悪者」なんだそうです。何より、他ならぬ本能寺の変を起こすときに彼の家臣から裏切り者は誰も出ず、彼の直卒の家臣は全員最後まで光秀についていきました。あの「人たらしの天才」秀吉の切り崩し工作に崩された家臣は誰もいなかったのです。
公家や天皇家、将軍家との関係も深かったので知識人でもあったでしょう。ああいうところは様々なしきたりやなんやが何かとうるさいところで、その辺りの事情に疎い(当時からすると)田舎侍だった織田家ではありがたい存在だったと思います。

光秀の人となりを知らせるあるエピソードがあります。彼の奥さんになる人は結婚の直前に疱瘡だかなんだかにかかり、顔の左側に痕が残ってしまったそうです。父親は醜い娘を嫁にやるのは失礼だと思い、妹を嫁におくったそうです。光秀は最初それを知らなかったのですが、事情を知ると「自分の妻になる女性は姉のはずだ」と妹を送り返し姉を妻にしたそうです。奥さんはそれを感謝して光秀のそばにいるときは醜い顔を見せないようにいつも左側にいたんだとか。誰ですか、姉妹丼で羨ましいなどといったのは。

一般的に「知将」というと戦上手な武将を指すと思うのですが、「頭がいい」というような意味合いもあると思うので、インテリというか知識人的な意味で明智光秀を挙げたいと思います。

明智光秀という人はなかなか謎が多い人物で、来歴がよくわからないのですが元々は足利義昭の家臣でした。将軍家の家臣ですから天皇家や公家ともかなり太いパイプを持っていたらしく、信長に重用されました。義昭が追放されるまでは信長の家臣であり、義昭の家臣でもありました。そういうのが認められていたのはいかな戦国時代と...続きを読む

Q実際の殺陣はどうだったんでしょうか?

よくテレビや映画などで侍や武士同士が刀を使って切りあってやる殺陣シーンがありますが、チャンバラといわれるようなあんな格好いい戦い方だったんでしょうか?僕だったら怖くて隙を見つけて突くと思います。実際、剣道の有段者と剣道をして籠手をして突きました。戦国時代から江戸時代まで侍同士の戦い方は実際はどんな刀さばきだったんでしょうか?また一人で何人も相手して勝てるものなんでしょうか?また、鎧を着た武士は切られずにいられたのでしょうか?あまりにも映像が想像できないのでよろしくお願いします。また、実際の侍の殺陣の映像ってありますか?

Aベストアンサー

実際の剣術とTVや映画での剣の動きはまったく違います。殺陣(西洋ではステージコンバットといいます)は常に観客の目(あるいはカメラ)を意識し動きを大きく、派手にします。たとえばシュワルツネッガーの「コナン」ですが大きな剣を大きく振りかぶり派手にうごかします。しかし、剣術ではそのような動きをすると相手に攻撃のタイミングが読まれてしまいます。私の師は「コナンは下手なケンジュツ、スグコロサレマース」といつもいいます。特に突きの場合、剣先は小さく動かすのが大切で、相手の体の幅から出てしまったら危険な状態です。
西洋では日本より接近戦が多かったようです。ばら戦争当時の戦死者をまとめて埋めた墓地が発掘されたとき、戦死者のほとんどがスパイクや斧状武器によるもので、平均4~5個の骨に達する傷がありました。
(内臓に達する傷は残っていないので確認できません)この時代は鎧が発達し多くの兵士も鎧を着ていました。これを見ると一撃で人はなかなか死なないようですね。ちなみに日本の場合、もっとも致命傷として多かったのは石であり、次に矢、そして槍でした。

鎧を着た相手には甲冑剣術というのがあり、西洋では剣を棒術のように使い足や腕に絡めたり、脇の下や股間を狙いました。特に後期のプレートアーマーは強靭でしたから、ターゲットはそこしかないので非常に特殊でユニークな剣術になりました。

実際の剣術とTVや映画での剣の動きはまったく違います。殺陣(西洋ではステージコンバットといいます)は常に観客の目(あるいはカメラ)を意識し動きを大きく、派手にします。たとえばシュワルツネッガーの「コナン」ですが大きな剣を大きく振りかぶり派手にうごかします。しかし、剣術ではそのような動きをすると相手に攻撃のタイミングが読まれてしまいます。私の師は「コナンは下手なケンジュツ、スグコロサレマース」といつもいいます。特に突きの場合、剣先は小さく動かすのが大切で、相手の体の幅から出て...続きを読む

Q戦国時代における戦での遺体の取り扱いって?

近年の戦争の映画で戦死者の遺体を棺に収め、国旗などでくるんで本国に移送するという場面を見たことがあるのですが、日本の戦国時代はどうしていたのでしょうか?
大きな戦では大量の遺体が発生すると思うのですが、そのまま放置されたのでしょうか?それとも組織的に回収されたのでしょうか?
また、海外(中世の欧州など)でどうだったのかも分かれば教えてほしいです。

ご存知の方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、通行するクルマ以外に邪魔者はいません。効率よく死体処理(カラス等の食事)が進むでしょう。

ご質問ですが、戦国時代の戦いでの戦死者の遺体は、下記の経過を辿ったと思われます。

1. 戦死者は、首を取られた状態で戦場に残されている。
よほど大きな合戦、例えば武田信玄が徳川家康を完敗させた三方ヶ原の合戦でも、徳川軍の戦死者は1000人行かない計算のようですから、そんなに大きな数ではありません。普通の合戦なら「戦死者10人」とかの単位です。

2. 戦闘が終わって両軍が引き上げると、既に回答されているように農民たちが「戦場狩り」を行います。これは、「田畑を荒らしたことに対する補償」の意味も含まれていたようです。
この際は、我々の眼から見て価値がある鎧、刀、槍などはもちろん、着ているものもフンドシに至るまで全て剥ぎ取られます。戦国時代の日本は、今の北朝鮮のような「使えるものは全て使う」社会ですから、例えば「戦死者がつけていた、血に染まったフンドシ」でも洗えば価値があるので剥ぎ取られました。地位のある武士が着ていた服は、農民から見れば「超豪華な織物」ですから、血や泥を落として分解すれば高値で売れました。(和服は、縫った部分をほどけば長い反物に戻ります)

3. 農民が徹底的に戦場狩りを行った後、戦死体は、全て丸裸になったでしょう。即ち、冒頭で説明した「クルマに轢かれたタヌキ」と同じ状態です。この状態であれば、後は野生動物が死体を処理してくれたと想像できます。実際、合戦の後の戦場をカラスが徘徊している様子が、当時の手紙か何かで描写されている例があったと思います。

4. 現在も痕跡が残るように、地元の僧侶が穴を掘って死体を埋め、供養したと言う例もあったでしょう。これは、「戦場狩りで大儲けした農民たちが、罪滅ぼしの気持ちで供養を依頼」ということが多かったのではと思われます。

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、...続きを読む

Q三国志はどこまで本当ですか?

こんにちは。

三国志自体はおもしろいし好きなのですが、実際のところ、どこまで本当なのか気になり始めました。

(1)曹操は本人の才能もさることながら、漢の重臣の家柄出なのでその後の活躍ぶりは納得もできます。ただ、田舎で莚を編んで暮らしていた劉備が浮き沈みを経て立身出世していく様は本当かなと思ってしまいますが、どうなんでしょうか?

(2)関羽張飛など鬼のように強い武将がいますが、いくら強くても、遠くから弓矢で集中攻撃したり、槍ぶすまで応酬したりしたら倒せるような気がします。一騎打ちはともかく、乱戦状態で彼らは大活躍できていたのでしょうか?

(3)孔明に関してはやや神がかり過ぎな感じはしますが、軍師の策略や戦略や計略や外交に関してはある程度信じてもいいですか?


曹操や劉備関羽張飛孔明らが存在して、三国時代というものがあったということは確実でしょうが、一体どこまで本当なのか、実際のところはどうだったのか、皆様のお考えをきかせてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>劉備が浮き沈みを経て立身出世していく様は本当かなと思ってしまいますが、どうなんでしょうか?

人生で浮き沈みがあり、出世した!というのは本当です。
が、物語的に色々と脚色しているようです。
日本で言うところの、秀吉と同じです。

>一騎打ちはともかく、乱戦状態で彼らは大活躍できていたのでしょうか?

豪傑だったのは間違いないようです。
ただ、将の下には数百の雑兵・足軽が存在します。
戦闘に勝利しても、将の名前が武勇伝として残るのみで、実際の戦闘員の名前は残りません。
日露戦争でも、乃木大将の武勇伝は伝わっていますが、数十万の名もなき日本戦死者(一般兵)の氏名は伝わっていませんよね。
(靖国など一部で、記録があるだけです)

>軍師の策略や戦略や計略や外交に関してはある程度信じてもいいですか?

孔明の場合は、地理学・天文学を用いた戦略を立てています。
ある程度信用しても大丈夫でしよう。
事実、三国志の頃の気象状況(風向きが変わった・太陽が隠れたなど)が「孔明の行動」と合致しています。

>一体どこまで本当なのか、実際のところはどうだったのか

物語としての三国志と、歴史としての三国志は異なります。
伝わっているのは、物語としての三国志ですね。
よく例としてだされるのが、忠臣蔵です。
忠臣蔵は物語(戯曲)であって、史実ではありません。
「吉良の首を取って泉岳寺まで行進した。江戸市民は歓喜を持って迎えた」事に物語・忠臣蔵ではなっていますが、そんな事実はありません。
(忠臣蔵には、実在しない人物が多く登場しています)

三国志は、史実を元にした歴史小説と考えた方が良いです。
が、三顧の礼など諺の謂れが分かって面白いですよね。

>劉備が浮き沈みを経て立身出世していく様は本当かなと思ってしまいますが、どうなんでしょうか?

人生で浮き沈みがあり、出世した!というのは本当です。
が、物語的に色々と脚色しているようです。
日本で言うところの、秀吉と同じです。

>一騎打ちはともかく、乱戦状態で彼らは大活躍できていたのでしょうか?

豪傑だったのは間違いないようです。
ただ、将の下には数百の雑兵・足軽が存在します。
戦闘に勝利しても、将の名前が武勇伝として残るのみで、実際の戦闘員の名前は残りません。
日...続きを読む

Qなぜ越後兵は戦国最強だった?

以前、戦国時代に書かれた書物を本で読んだことがあります(現代訳で)。
それによると戦国時代、一番強い兵隊は越後の上杉兵だそうです。
ちなみに2番目が甲斐の武田兵、3番目が相模の北条兵と三河の徳川兵らしいです。
武田兵は騎馬隊があるのであるので強いのは分かりますが、なんで越後兵はそれより強かったんでしょうか?

Aベストアンサー

合戦には戦略というものがあり、目先の勝敗はどちらでもよいのです。
例えば徳川家康は「桶狭間の合戦」で大将の今川義元が首を打たれたため三河に敗走、越前攻めでは主将の織田信長が逃亡したので敗走、三方が原では武田信玄に敗れて浜松に逃げ込み、本能寺の変でもやっとの思いで三河に脱出、とどちらかというと負け戦の多い武将です。
中国でも漢を建てた劉邦はライバルの項羽にやられて逃げ回りますが、最終的には勝利を拾います。
「尾張兵は弱兵」といわれ、その理由として尾張は肥沃な濃尾平野に恵まれ、津島の海運により商業が発達して豊かなため、命を惜しむからといわれてきました。
それに対して隣国の三河は今川に富を吸い上げられ、貧しいので命がけで戦うため強いとか。
越後も雪国ですから、人間的には我慢強い気質の方が多いため、「強兵」といわれると思いますが、それと本当に強いかどうかはまた別と思います。
幾ら個々の資質が高くても越後の兵はアマチュアですから、尾張のプロの兵士に勝てるかどうか。
柴田勝家が手取川の合戦で散々敗れますが、あれも主君の信長が、越後兵はこれ以上南下しないと読みきっての戦略で、上杉にとっては余り実のある勝利とは思えません。
兵の強弱は江戸期に甲斐の軍略家がまとめますから(武田家滅亡後、徳川に多くが仕えた)、どうしても武田家を持ち上げる傾向があり、武田信玄が梃子摺った越後兵は強いとなったと考えます。

合戦には戦略というものがあり、目先の勝敗はどちらでもよいのです。
例えば徳川家康は「桶狭間の合戦」で大将の今川義元が首を打たれたため三河に敗走、越前攻めでは主将の織田信長が逃亡したので敗走、三方が原では武田信玄に敗れて浜松に逃げ込み、本能寺の変でもやっとの思いで三河に脱出、とどちらかというと負け戦の多い武将です。
中国でも漢を建てた劉邦はライバルの項羽にやられて逃げ回りますが、最終的には勝利を拾います。
「尾張兵は弱兵」といわれ、その理由として尾張は肥沃な濃尾平野に恵まれ...続きを読む

Q武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。

武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。
徳川家康は三方原の戦いでなくなっていたのではないでしょうか。
信玄が天下統一をできたとは思えませんが、戦で信長には負けなかったと思っています。皆さんどう思われますか?

Aベストアンサー

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。

信玄があと5年生きていれば、
(1):徳川家が史実のような形で存続できた可能性は低い。
(2):武田家の世代交代も違う形になっている。
(3):1582年3月織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田家は滅亡したが、(1)(2)であれば、違う形になっている。
(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
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Q本能寺の変 信長の「是非も無し・・・」とはどんな意味?

本能寺の変で、謀反が明智だと知らされた信長は
是非もなし
と言ったと伝えられていますよね。
これって、どういう意味でしょうか?
・しかたない
という意味なのでしょうか?

Aベストアンサー

 「是非もなし」でも「是非に及ばず」でも同じなのですが、日本語としては「良し悪しを論じても意味が無い(実力行使しかない)」という意味です。

 ちなみに、「直江状」でも家康の言いがかりに対して「是非に及ばず候」と言っていますね。「やるなら受けて立つ」と言っているわけです。

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html


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