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網野善彦は対話において、次のように語っています。

中世の年貢について、全国のわかる676の荘園で調べると
米が38%・繊維が30%だそうです。

私は、昔は日本の主幹産業は稲作と思っていましたので、年貢はほとんどが米によるものとばかり思っていました。

質問は、荘園の年貢が米によるものが38%しかないというのは、(自分の不勉強は等閑し、網野に無礼ですが)本当ですか?

A 回答 (5件)

米が安定して作れるようになるのは江戸中期以降です。

用水路が普及するなど、水が安定して利用できるようになってからです。米と麦の二毛作もこの頃から。麦は水を嫌うので受水、排水が短期間に完璧に行なえる田圃でないと二毛作はできません。それでも全国的に概観すれば穀物の年間総生産量は米、麦、雑穀が1/3ずつといったところでしょう。
関東地方はあまり高くない山が続きますね。田圃は作りにくいです。つまり畑作中心の地域です。関東に限らず日本は全国的に山が多いですから古くから畑作中心の農業だったと言えます。
「中世の年貢は米が38%」だったそうですが、収穫量から言えばずい分多いのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。

ご回答によれば、荘園時代の稲作の生産性は、粗っぽくいうと、38人の百姓が100人分の米を供給できた、ということですね。

お礼日時:2023/03/12 11:13

何度も失礼します。



いまさら何を、と言われそうですが、実はよくわかりません。
一般に「江戸時代の百姓は大貧乏」と言われていますね。これに疑問を感じて江戸時代の農業について調べています。少しばかりわかってきたことから中世を推定したのが前回の解答です。
日本の農業史の資料を捜したのですが見つかりません。不思議なことにないのです。江戸時代は貧乏百姓というのが定着しているためか、実際の生産量について研究した資料がないらしいです。尤も当時は百姓も為政者も統計のような記録はとっていませんから、仕方ないのでしょうけど。
それを今になって書くとなると農産物の育て方を知っていなくてはならないし、収穫量を数値として推定しなくてはなりません。史家(文系)の仕事というより理系(農家)の仕事になるためではないでしょうか。

関東地方は原始時代から畑作です。この頃は西日本より人口は多かったようです。
山裾での米作は天水に頼る事になります。水量が安定しません。雪解け水は量はありますが冷たいのでその対策に一苦労。
平地では冬でも水が抜けない所がたくさんありました。有名なのは新潟平野で、泳ぐようにして稲刈りをしてました。
https://suido-ishizue.jp/daichi/part2/03/13.html
↑ 一番下の写真。


下はやっと見つけた農業史の本。
『近世庶民の日常食』 有薗正一郎 2007年
中世に関するものではありませんが、貧乏百姓との常識をくつがえす本です。
もっと良い資料を御存知でしたら教えてください。
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この回答へのお礼

再三のご回答ありがとうございます。
<山裾での米作は天水に頼る事になります。水量が安定しません。雪解け水は量はありますが冷たい>のですね。
<江戸時代は貧乏百姓というのが定着>ですね。私も以前はそう思っていましたが、どうなんでしょうかね。
<史家(文系)の仕事というより理系(農家)の仕事になるため>ですね。ややもすれば史家は机上の仕事(文献にのみ)に満足しがちですね。

お礼日時:2023/03/14 08:35

No.3です。



> ご回答によれば、荘園時代の稲作の生産性は、粗っぽくいうと、38人の百姓が100人分の米を供給できた、ということですね。

中世の穀物生産は詳しく調べたことはありませんが、愚考ではもっともっと少なかったでしょう。人口が少なかったことを考慮しても米は必要量の1/10以下ではないでしょうか。麦はまだ生産が始まってなかったはずなので、9割は雑穀類だったと思います。
No.3に書いたのは江戸中期以降のことです。江戸中期でこんな具合なので荘園時代は、、、、。わかると思います。
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございます。
江戸時代<穀物の年間総生産量は米、麦、雑穀が1/3ずつ>ですね。
中世では<米は必要量の1/10以下>だったのですか。
私の認識とはずいぶん違っておりました。
“年貢が米”といっても、より正確には米「類」というべきなのですね。
(もちろん食料以外を米換算している分もありますが)
<日本は全国的に山が多いですから古くから畑作中心の農業>だったのですね。
わたしの認識では、稲作は山ではできません。山の麓では水の便が良いので米を作れた。
時代が進んで(中世から近世に)、平地(平野)で灌漑ができるようになると、給水も排水も便利になり
米作が盛んになった、と思っていました。

お礼日時:2023/03/13 12:43

全国同じように米が作れるわけではないし、全員が米作農民ではないでしょう。

漁師、猟師、木こり、職人などは米を納めることはできません。

古代の税制「租庸調」でも、諸国産物など34品目(絹・絁・糸・綿・鉄・塩・魚介類など)の物納や貨幣での納入が認められていました。
東京の「調布」や「田園調布」は調として布を納めていたことに因む地名です。

中世でも全員が米作農民でなかったのは同じことかと思います。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。

ご回答によれば、荘園時代の稲作の生産性は、粗っぽくいうと、38人の百姓が100人分の米を供給できた、ということですね。

お礼日時:2023/03/12 11:13

近世でも東北地方での米作はかなり厳しいです。

近世の石高は、土地の価値を米の取れ高に仮定したもので、実際にそれだけの米の収量が望めるわけではありません。
ましてや中世は貫高制で土地の価値を銭で換算したもの。実際に年貢の銭納は近世より普通でした。
さらに遡れば、古代でも租は米で納めますが、他の税は繊維製品での代納が可能でしたら。

質問者さんが仰られていることの出典を教えていただきたいです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。

ご回答によれば、荘園時代の稲作の生産性は、粗っぽくいうと、38人の百姓が100人分の米を供給できた、ということですね。

出典は、”網野善彦・対談集2・多様な日本列島社会の中の森浩一との対談・「関東学」の創造をめざして”からです。

お礼日時:2023/03/12 11:11

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