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1.お酒を飲めば、顔が赤くなります。
2.冬になれば、スキーをしに行きましょう。
3.もし雪が降れば、何がしたいですか。
4.安いなら、買うつもりです。
5.現金がないときは、カードを使うならいいですよ。

私の感覚では、1〜4は微妙。5は完全に変だと思います。
正しいでしょうか。
また、それぞれ、なぜそう感じるのか
外国人説明できる理由を教えていただけませんでしょうか。

A 回答 (6件)

「ば」のはたらきについて、ざっくり説明すると…。


「ば」の前の内容が、「ば」の後の内容が成立する条件を表しています。

 お酒を飲めば、顔が赤くなります。の場合、「お酒を飲む」ことが「顔が赤くなる」ために必要な条件です。
 このとき、お酒に弱い人は、少量のお酒でも顔がすぐに赤くなりますから、「お酒を飲めば、(必ず)顔が赤くなります。」で、「ば」は"確定条件"を表します。
お酒に強い人であれば、「(もしも)たくさんのお酒を飲めば、顔が赤くなります。」で、「ば」は"仮定条件"を表します。


 「ば」が確定条件なのか、仮定条件なのか、恒常条件なのか、偶然条件なのかは前後の文脈で決まります。と、いってもネィティブ(日本人)はそんなことを意識せずに「ば」を使っています。
 1~5の文は、すべて「もしも」で始められるので、仮定条件だと考えてよいでしょう。なお、1はお酒が弱い人であれば確定条件で、2は冬にスキーをしに行くと決めている文脈であれば確定条件です。
5は、もしも現金がないときは、もしもカードを使って支払うならば○○してもいいですよ。と、仮定の意味が2個あります。たぶん、そこに違和感をお感じになったのだと思います。ネィティブ(日本人)は違和感を感じることなく使っている気がします。

 「ば」の用法の識別は、中学校の国文法で扱うのですが、文法用語にはふみこまず、もっとわかりやすい文で教えます。
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1.2は仮定法ではないのでは?、単なる条件の提示


4.「なら」→「つもりです」ではなく「(買い)ます」
  「(安)ければ」→「つもり・・・」。
5、仮定法うんうんの話ではないので変と言えば変ですが・・・
表現の方法がまずいだけです、現金がなくてもカードが使えるなら・・・
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私の感覚では、


《5.現金がないときは、カードを使うならいいですよ。》が妙なのは、後半のためだと感じます。 ⑤や❺は、妙には感じません。
《⑤.現金がないときは、カードを使えばいいですよ。》
《❺.現金がないときは、カードを使うのがいいですよ。》
なお、前半がなくて、後半だけでもいいように感じます。
《五.カードを使うならいいですよ。》

5の「カードを使うならいいですよ」の「なら」は、条件の提示で「条件下の選択を示す」のではなくて、「寛容・許諾・受諾を示す」言い回しだと感じます。
パッシブにしぶしぶ寛容・受諾するというよりも、ポジティブに賛同・受容・推奨的姿勢もあることを示す表現としても使います。
「あなたがいいなら、私もそれで」「楽しかったら(美味しかったら)いいじゃない」「合格したなら文句ないでしょう」 
「なら」以外の「ら・らば・ば・れば」でも
「無視したらいい」「告白したらいいじゃない」「別れればイイ」「休めばイイ」「チャレンジすればイイ」「捨てたらイイ」「使えばイイ」というようなのも、「いい」とセットで使うことが多いです。 仮定条件の提示、事実と異なることの表現ではなくて、過去でも、現在でも、今後でも、判断としてイイ・悪い・悪くない・推奨・非推奨を述べるときに、日本語では、「ら・らば・ば・れば」も使うし、「なら」も使うことが結構あるように思います。 意見や判断、あるいは適否・妥当・好ましくない・好悪に近いものを表現ときに、「なら・ら・らば・ば・れば」を使うこともあります。
もちろん、条件の提示のために「なら・ら・らば・ば・れば」を使うこともあります。 「なら・ら・らば・ば・れば」を使っているというだけでは、なんの用法なのかは判然とはしないのだと思います。

《4.安いなら、買うつもりです。》
これも、価格によって買う/買わないを決めるという「つもり」を表現していることもあります。 ですが、実は「買わないつもり」ということになっていて、英語でいう仮定法で、婉曲的に、買うつもりはないと表現しているのことも現実には多いのだと思います。 文型で言いたいことを判断するのは難しいという例に、4は好適だと思います。 「暇なら手伝ってよ」でも、通常は「手伝ってよ」がメッセージであって、「暇なら・暇ならば」は嫌みとか、強制じゃないけどというやや譲歩の余地を含んだ表現であることが多いように感じます。 「トランプ(プーチン・あいつ)ならやるだろう」のような場合の「なら」も、トランプ(プーチン・あいつ)であることは話し手にとって条件でもなく明確不動のことで、ただの主題の強調のようなものです。 「親なら親らしく」「愛があるなら」でも、その後では期待や、希望的予測を述べようとしているものです。 「別れたなら、私と付き合って下さい」 文型ではなく、どのような状況でだれが述べているかで判断することが多いです。

《3.もし雪が降れば、何がしたいですか。》
これは、条件を仮において、その状況下でのことを尋ねているのだろうと感じます。「雨が降ったら何して遊ぼう」「離職・起業しても上手くいかず、もしも借金が増えて返せなくなったらどうするの」も、今後のことについて仮定で条件を提示していることには違いがないです。 メッセージとしては、ただの質問であることもありますが、選択の適否についてネガティブな感想を述べていることも多いです。 これも、文型ではなくて、状況で判断するでしょう。

《2.冬になれば、スキーをしに行きましょう。》
発話者は、冬にならない可能性を想定してないです。「18歳になれば」「子が産まれれば」「当選すれば議員だ」は、条件提示のようにも思えますが、後半部がねらい・期待・目標のようなことを提示するように見せかけて、「~~れば」の「~~」が、当面の課題・必要なステップだったり、実は「早く~~になりたい、早く実現したい、なんとか達成したい」という待ち望んでいることや希望を述べていることも多いです。

《1.お酒を飲めば、顔が赤くなります。》
「水を電気分解すれば酸素と水素になる」「単価に数量をかければ合計になる」「洗濯すればきれいになる」「高度3000mにも上がれば気圧が下がる」「窓を開ければ風が通る」「山に上下で峠になる」のようなのは、条件提示でも、因果関係でもなく、シリアルに説明しているだけとも考えられます。 もちろん、条件と結果というように説明しているケースもあるのですが、話し手は「当然のことを説明しているだけ」という気持のことが多いでしょう。 会話や日常の文章では、「条件提示」というケースは少なくて、「既定・当然」のことを述べているケースが多いと感じます。 「あと1年も経てば、~~になるから」というような会話は多いですが、言い手も、聞き手も、条件提示とか、仮定のこととかは思っていないでしょう。 なお、「陽が昇れば朝になる⇔朝になれば陽が昇る」「この問題が解ければ理解できている⇔理解できていればこの問題は解ける」ように、前後ひっくり返しても通用するような、あたかも恒等式のような感覚で、「れば」や「ば」「たら」も使います。
「と」も、同じように使います。「酒を飲むと顔が」「電気分解すると」「掛けると」「洗濯すると」「上ると」「開けると」「1年も経つと」

外国人にどういうのかというよりも、日本人で日本語話者として育った人たちでも、文法的に説明するのは難しいのではないでしょうか。
接続助詞というのは、あまり個々の接続助詞にこだわらず、とにかく、いくつかの語や文をシリアルに並べるときに使うもので、名詞、述部、副詞、助動詞などの並んでいる状況で、コミュニケーションの全体で、記述者、発話者の意識を想定して理解する方が良いように思います。 日本語に馴れてくると、だいたいの接続で使える接続助詞の適当なものが数種あることが分かるけれど、どれを使うのかは限定的ではないし、実際の文の接続助詞の使い方からその文の構造や接続助詞の具体的役割を読み取ることは難しい、発話者や聞き手と具体的述語の意味、名詞の意味などを総合して見て漸くその個々のケースでの接続助詞の役割が理解できるのだと、私は感じます。
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なお、過去の助動詞「た」の場合も過去から現在への観念的な移行があり、そこに英語の仮定法過去の用法が生まれる根拠があります。



「た」を過去の助動詞と呼んでいますが、

昨日、映画を見ました。

では、昨日で話者は観念的に過去に移行し「映画を見まし」と表現した後、現在に移行し「た」と言っており、「た」は現在の立場で述べられています。

英語時称の言語過程
―レールカメラ図による図示の試み―

http://elib.bliss.chubu.ac.jp/webopac/bdyview.do …
参照。■
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「たら」「れば」の相違ですね。



「たら」は話者がその仮定が実現したものとして観念的に移行し次の事態に進みます。「と」も同様です。

「右に曲がると郵便局があります。」
この場合、話者は観念的に右に曲がった場面に移行し郵便局を見ています。

「ば」は一旦観念的に仮定の場に進み、即現実に戻ります。
「お金があれば海外に行きたいのだが。」

「なら(ば)」は排他的な二者択一です。
「雨なら中止します。」
それ以外は挙行します。

これにより質問の例を検討すると次にようになります。

1.お酒を飲めば、顔が赤くなります。
「ば」の後、観念的な話者は既に現実に戻っているので、「顔が赤くなる」ことはなく、「顔が赤くことがあります」「顔が赤くなるのが普通です」のような客観的な表現が続かなければなりません。
「と」「たら」の場合は観念的に飲んだ場面に移行するので、
 *お酒を飲むと、顔が赤くなります。
 *お酒を飲んだら、顔が赤くなります。
になります。

2.冬になれば、スキーをしに行きましょう。
これも同様で、「ば」では冬の場面から戻るため、
 *冬になれば、スキーをします。
で、冬の場面に観念的に移行したままであれば、
 *冬になったら、スキーをしに行きましょう。
 *冬になると、スキーをしに行きます。
ということになります。。

3.もし雪が降れば、何がしたいですか。
これも、
 *もし雪が降ったら、何がしたいですか。
と雪の降る場面に観念的に移行しないと聞き手に対し質問の前提が成立しません。
 *もし雪が降れば、何がしたいと思いますか。
と現実に戻って現実の雪が降っていない場面の聞き手に仮定の質問をすることはできます。

4.安いなら、買うつもりです。
「なら」は二者択一で、「安いなら」買うのは当然なので、
 *安いなら買います。
です。現実の場面に戻り、
 *安ければ、買うつもりです。
ということになります。

5.現金がないときは、カードを使うならいいですよ。
これも、現実に戻り
 *現金がないときは、カードを使ってもかまいません。
 *現金がないときは、カードを使うことができます。
と許可、可能の表現が続かなければなりません。場面に移行すれば、
 *現金がなかったら、カードを使いましょう。
で、
 *現金がないなら、カードを使ってもかまいません。
ということになります。

このように、「と」「たら」と「ば」では仮定、予想で話者が一旦現実とは異なる場面へ観念的に移行しますが、その後その仮定の場面にとどまるか、即現実に戻るかの相違があります。聴き手もそれに同期するので用法を誤ると場面が不整合になりちぐはぐな表現になります。■
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日本語の文法では、「~したときは、・・・」の形式の文を「確定条件文」と言います。

印欧語の「仮定法」や「条件法」に似ていますが、日本語文法には「仮定法」や「条件法」という文法形式や用語はありません。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …

△ 1.お酒を飲むと、顔が赤くなります。
× 2.冬になったら、スキーをしに行きましょう。
× 3.もし雪が降ったら、何がしたいですか。
〇 4.安いなら、買うつもりです。
× 5.現金がないときは、カードを使うといいですよ。
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