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もし天正大地震が起きていなかったら、徳川家康は、豊臣秀吉に軍事的に制圧されていたという有力な説がありますが本当ですか?徳川家康は、運が良かったのですか?

A 回答 (5件)

本当です。


当時の秀吉は小牧長久手の頃とは全く違う。雑賀・根来という煩い鉄砲集団や四国の長曾我部を叩いて畿内を万全な体制とし、家康側に付いた北陸の佐々成政も鎮圧した。

また軍事力と財力の象徴としての史上空前の巨城・大坂城を完成させて諸国の大名を威圧し、秀吉の最大の弱点だった出自の低さも関白の位を得ることで完全に解消した。

そういう秀吉の大変身を直接目の当たりにしていたのは、徳川家中では対秀吉交渉役だった石川数正だけだった。長久手の快勝を根拠に徹底抗戦論が支配していた徳川家中にあって、数正だけは家康に臣従を進言したのは当然のことだっただろう。

史実では家康は秀吉に帰順し、臣従を拒否し続けた北条は秀吉の大軍に小田原城を囲まれ、その威容に屈服して自決・降伏している。
仮に家康が徹底抗戦を貫こうとすれば、秀吉は徳川を北条と同じように問答無用の大軍と物量作戦で攻め倒して家康を自決・降伏させ、それを見た北条は帰順していたことになったかもしれない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2023/09/08 23:25

地震があったのは、たまたま。


徳川の背後に、北条家があり、東北がまだ手付かず。
秀吉も、リスクを考えて軍事作戦には踏み切れなかったでしょう。
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歴史は事実ですから「たら」はありません


ただの嘘ニュースです
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運が良かったとは思いますね。



小牧長久手の戦いは、単なる局地戦ではなく、大きな戦争でしたから、最終的には物量の差は決め手です。それに家康側の大義名分だった織田信雄との講和に成功した時点で家康には勝利の道はありませんでした。

ただ、ここで痛打を与えることにより、家康を打倒するより臣下に引き入れた方がよいと秀吉に判断させたのが、後の天下取りにつながります。

大阪の人間としては「なんでここで家康をやってまえへんかったんや!」という思いもありますが。
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運も然り、万全でないと勝てない相手と秀吉に思われた家康の実力もある

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