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お釈迦様はご自分が立っている大地が夜空にまばたく星と同類のものだとお気づきになっていたのでしょうか? さもないと阿弥陀仏の立ち位置が危うくなります。

A 回答 (4件)

> 執着によって起こる様々な事象は「苦」ではなくて「執着」に分類されると思います。



苦の中にも 執着は含まれることがあると思います。
 ~~~ 怨憎するものに曾ふは苦なり、愛するものと別離するは苦なり、求めて得ざるは苦なり、~~~
愛するものとの離別を苦とするのは、執着であり我欲でしょう。
怨憎するのも、その前の状態を続けようという我欲が満たされないことで生じるもので、不健康をもたらす、自分自身や他人にも悪影響を起こし、苦をさらに悪化させるものですが、根本的には我欲が不適切にものでしょう。
《欲・執着が原因で、苦は結果》だから、別の分類にするのが適当という思考も出来るのですが、用語の使用法は一通りではないです。
 ~~~~ 生は苦なり、老は苦なり、病は苦なり、死は苦なり ~~~
このような用法もあるのです。「生は苦の母なり、老は苦の母なり、病は苦の母なり、死は苦の母なり、失業・落第・失恋・怪我・高熱は苦の母なり」と原因と影響とを分けても良いのですが、因果は分けずに、因果の果だけで表現するのはごく一般的です。ミカン・リンゴ・柿で、樹木の種類名だったり、果実名だったりします。 因果を明確に分けて表現することを大前提にすると、欲も愛も恨みも何かの結果でしょうし、そのような面倒なことは考えずに、「生は苦である」という表現で充分とされ、「生=愛憎離苦」であったり、「それは、苦の中で求不得苦に該当する」と言ったりもするのです。 
分類はその時々で変わるもので、一意に決まるものではないです。

> お釈迦様が、瞑想の修行をすることで何を変えるように説いたのでしょうか。

釈迦が説いたことに「瞑想の修行」があるのかどうかは、「瞑想・冥想」をどのように考えるのかにもよって、変わると思います。 「心を落ち着ける」「思考を極めようという努力を止める」というような意味での冥想・瞑想を釈迦がといているとは思えないです。懸命に多面的に、他人の説や現状、見聞きした経験や論理と推論を重ねて、そして理解を深めるように修行し、それをするにあたって心身を健全に保つためにヨガやストレッチイングのようなことも併せて実行すること、休養・安居も重視することも推奨していました。
何を変えるのかというと、(世評や常識、自分の経験、特定人物の教説だけから結論をだして悟ったような思考、固定観念や思い込み、心思知の貪・欲・瞋・痴あるいは慢心に得々としているの)を抜け出でより深く正しい認識が出来るようにすること、その前提になる身体の健全な状況を造り維持することで、《平穏で正しい知・理・気・健》を獲得することでしょう。

> 阿弥陀仏がお釈迦様とは無縁であることがはっきりしました。ことの発端は「阿弥陀仏がお釈迦様の先生」の言葉を見て「お釈迦様を侮辱するな!」の思いでした。お釈迦様が従ったのは梵天の教示だけだと思っています。素直に質問すれば良かったです。

歴史的事実関係の認識と、物語的事実関係の認識とがあります。
後代に阿弥陀を創作した人は、釈迦も多くの仏も阿弥陀と無関係とはしていません。 現在も無関係ではないという物語の世界を重視している人は大勢います。 その人たちは釈迦を侮辱などしてないと思っています。 密教系で大日の物語を創作した人やその物語上の信仰や行事を大事にしている人たちも、阿弥陀や釈迦を侮辱などしていません。 家康を偉人のように思っている人も後陽成、後水尾などの天皇や秀吉、信長を侮辱していることは滅多にないです。 通常、「AはBの先生」という場合には、BよりAがその分野で先行しているか、Aの生年がBよりも早いかです。 Bが死亡した後で生まれたり活躍するようになった場合には、「AはBの先生」とは言いません。 ところが、物語の世界で、例えば、無量寿のように想定し、Aは遙かな昔から現在も未来までも居続けるとしてしまえば、「AはBの先生」も可能です。 たぶん、阿弥陀の物語を創り、それを受け入れた人たちも、釈迦は無量寿ではなくて、ある時期に生まれてやがて入滅したという一時期の人(あるいは仏)なのですから、物語上では「阿弥陀が先生で、釈迦は後生まれ」にも出来ます。ただし、おそらく、大乗仏典にも「阿弥陀が釈迦を指導し教えた」などの物語を挿入した人はなかろうと思います。 仏典ではなく、文書の中で「三世十方の諸仏の本師本仏なれば」の文字を加えた人も、阿弥陀が至高・最高と表現するためだけの修辞(言葉を有効に使ってうまく美しく表現すること。レトリック)でしかないです。 釈迦を侮辱などする気は毛頭ないでしょう。
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この回答へのお礼

丁寧なご指導をいただきありがとうございました。
勉強の仕方を教えて頂いた気がします。私は勉強とは書を読んで考え、さらに考えることことだと思っています。
ここで訂正させて頂きます。お釈迦様は呼吸が停止したが、既に「苦」を滅していたので彼岸に渡られました。
これまでのことで、私の弱点は断片的に情報を読んだ程度で勉強には程遠いものですし、体系的に指導を受けたこともありません。欠点は思い入れが強いことです。私の浅はかさにお怒りを覚えたことと思いますが、根気よくご指導くださいましてありがとうございました。あなた様からご指導いただいたことをもとに「佛遺教経」を読み込みます。
まだまだ教えて頂きたいことが沢山ありますが、いつまでも独占していては申し訳なく思います。
奥深いご指導に感謝申し上げます。
ここでベストアンサーにさせて頂きます。ありがとうございました。

お礼日時:2023/09/12 20:50

No.2の補足です。



「阿弥陀仏の立ち位置」の意味を、再考してください。
「あるときを過ぎて、現在都合がよくないような事情を感じたときに、事態を改善する目的で、新しい構想を立て、それを説明し、周囲に説いて、理解や協力、支援を求め、多数の人々の力を集める」ということがあります。 その場合に、その構想の大事なことは新構想のポイントになることを素晴らしいことのように描きだすことは多いのです。 最近だとマイナンバー制度のようなものです。 https://www.soumu.go.jp/kojinbango_card/01.html
阿弥陀を構想した人たちは、それを最高位のものに位置づけたかったのです。 なので、阿弥陀の立ち位置を至高の確固としたものに描いています。 釈迦が何をどう考え思っていたのかという事実は、その構想にとっては考慮にも値しないことです。まして釈迦が大地や夜空、星をどう思っていたのかなど全く気にする必要もないです。
ともかくも、阿弥陀を至高の仏に仕立て位置づけるために阿弥陀経をこさえて、これは有名な釈迦が説いたという物語にしているんですから、その範囲では、釈迦も阿弥陀を位置づけられているのです。

浄土真宗の蓮如という人が日本で、15世紀後半に、①「それ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、むなしくみな十方三世の諸仏の悲願にもれて、すてはてられたるわれらごときの凡夫なり」、②「ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏として、いまのごときの諸仏にすてられたる末代不善の凡夫、五障・三従の女人をば、弥陀にかぎりてわれひとりたすけんといふ超世の大願をおこして、われら一切衆生を平等にすくはんと誓ひたまひて、無上の誓願をおこして、すでに阿弥陀仏と成りましましけり」、③「この如来をひとすぢにたのみたてまつらずは、末代の凡夫、極楽に往生するみち、ふたつもみつもあるべからざるものなり 」というような文章を書いて、それを人々に示します。 三段論法のようなもので、❶(凡人や色々の障害を感じている人や女の人)は、多くの仏様に期待しても効果はないでしょう、❷でも阿弥陀という仏様は、自分一人でも、(凡人や色々の障害を感じている人や女の人)を救おうと願って仏になったんです、❸この阿弥陀に期待するしかないです ということを書いています。 
この文の中の②"ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば"の部分を、曲解して、あるいは、故意にねじ曲げて、最近になって、阿弥陀が釈迦の先生であるのように言ったり書いたりする浄土真宗の人が出現したのです。

阿弥陀経などを歯牙にもかけないとか、大日経を重視するとかでも、阿弥陀の立ち位置が危ういということはないです。
神道や修験道、禅宗、キリスト教、統一教会の人が、阿弥陀を重視しないのに遭遇しても、単に、阿弥陀が至高と思い込んでいる人が不快に思うて程度です。
どのような立場にたって見るにしても、阿弥陀の立ち位置が危うくなるということはないですよ。
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この回答へのお礼

度々のご回答ありがとうございます。広範囲かつ高度なために私のレベルを超えています。阿弥陀仏がお釈迦様とは無縁であることがはっきりしました。ことの発端は「阿弥陀仏がお釈迦様の先生」の言葉を見て「お釈迦様を侮辱するな!」の思いでした。お釈迦様が従ったのは梵天の教示だけだと思っています。素直に質問すれば良かったです。「お釈迦様の先生」を「阿弥陀仏の立ち位置」と表現したのは不適切でした。
次に、お釈迦様が言う「苦」とは「生・病・老・死」だと思います。「佛遺教経」にお釈迦様ご自身の命が間もなく尽きると察知した時の光景が書かれています。お釈迦様でも「苦」を滅することができませんでした。私は医師の助けによって苦痛をやわらげながら素直に「苦」を受け入れようと思っています。お釈迦様の教えの中に「よきことをすれば天上の神々がいる所に行くことができる。よからぬことをすると地底の神々がいる所に行くことになる。よからぬことの筆頭は執着である。」とのことがあると書いたものを読んだことがあります。執着によって起こる様々な事象は「苦」ではなくて「執着」に分類されると思います。お釈迦様が、瞑想の修行をすることで何を変えるように説いたのでしょうか。私のレベルで理解できるように説明してください。よろしくお願いいたします。

お礼日時:2023/09/11 15:21

> 私は、お釈迦様の教えの基本は「生きることは苦である 苦から救ってくれる不思議な力は存在しない だから瞑想による修行によって苦と共存できる自分に変えろ」と認識しています。



そう受け取って納得する方もおられるのでしょう。
しかし、違う認識の方もいるのです。
一般的には、2世紀までの仏教団体や著名な僧で、"修行によって苦と共存できる自分に変えられる"のような主張・見解を示したものは知られていません。19世紀まで調べても、同じでしょう。 20世紀末や21世紀になってからですと、各個人が自分勝手に解釈したり、自分なりの説をたててしまうのが急激に増えて、もしかすると数十人、数百人と「苦と共存できる自分を瞑想による修行によって形成できる!」というような人が出ている可能性はあります。 しかし、数百年以上も以前にそのような発想を懐く人が、「仏教に熱心な人」のなかにいたとは想像もできません。
シャカのいたころ(原始仏教団)、初期仏教団、根本分裂後の上部座や大衆部の各部でも、人は元来苦と共存しているという理解にたって、苦を減じる、滅するなどに腐心しているのです。 修行や観相、瞑想、瞑想、冥想、ヨガや教説の勉強、理解、経を称えるなどは、その腐心の行為です。

> 送られて来た仏教関係の書物には「宇宙には無数の星が存在する。その一つひとつの星に地球のお釈迦様と同じような仏様がいる。その全ての仏様を統括しているのが阿弥陀仏です。だから阿弥陀仏はお釈迦様の先生です。」と書いてありました。その後、同様の文言を何度か見ました。

その文面、文章の字義通りに見えるものを印刷し配布している団体や個人もあるのでしょう。
根本分裂(紀元前2~3世紀)以降対大衆部では多仏思想と多世界思想が結合し話しを誇大して行きますし、阿弥陀仏を登場させるので、その流れで、簡易にまとめて出版してもおかしくないです。 国語力アップ・四字熟語の勉強にも似たようなのが出てきてます。 https://kokugoryokuup.com/sannzennsekai/
ただし、「阿弥陀仏はお釈迦様の先生」は、浄土真宗の関係者が、ごく最近に言い出した、書き出したことで、たぶん、50年も前には言ってない、書いてないと思います。
https://1kara.tulip-k.jp/wakaru/201104324.html
これをみれば分かるとおり、理屈にもなってないです。
https://www.junshinji.org/osyakasamamonogatari.h …
  ~~~~  この一文は、妄想にしても、 無茶です ~~~~~
お釈迦さまは、さとりを開かれた35才のとき、「真実を伝えなければならない」という思いから説法の旅に出られました。
 ついに、阿弥陀さまのお呼び声「南無阿弥陀仏」を聞き、真実に触れられたお釈迦さまが、すべてのいのちが苦しみから解き放たれることを願い歩みだされたのです。 
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
だいたい、シャカの存命中に「阿弥陀」にあたる言葉がなかったと思われます。

> 私にはお釈迦様がコペルニクスを超える宇宙観を持っていたとは考えられません。

私もそのように思います。というよりは、お釈迦様・シャカが宇宙に関心を持っていたというようなこともなかったのではないかと、思います。

> お答えにあるご夫婦は家庭内離婚状態です。

{旦那さんが外で何をしていようと、何を誤解していようとも}のことを指して、これから想像しているのであれば、想像力に問題があります。これらのことは、ごく普通にしばしばあることであって、そのような状況でも、夫婦仲は普通、あるいはとても仲睦まじいということも、多いです。

> 多くの夫婦は同じ時刻を共有しています。

中には、同じ時刻に同じ場所に互いの状況を知っているという時間帯があるということもあるでしょうが、あったとしても「1日で数時間以上もそのような状態をもつ」ということはあまりないはずです。 夫婦でも「あの人は何をしている」さえも知らない時間は多いです。仕事や買物、旅行、遊興、スポーツ、交友関係、飲食などで、別の場所にいれば、まず何をしているかなどわかりません。 だから、中には、疑心暗鬼になる人も多いのです。 その疑心暗鬼が外れのことも多いでしょうし、疑いもしないでいても事実は異なることも多いです。

> お釈迦様の入滅後、7世紀も後に阿弥陀仏が創案されたのなら、お釈迦様が阿弥陀仏を知る由もありません。ましてや師弟関係にあるはずがありません。

それはその通りだと思います。

> 阿弥陀仏の立ち位置が崩壊しました。

"阿弥陀の立ち位置"の理解が、そもそもおかしい可能性を考えてください。
東京タワーよりもスカイツリーの方が作られたのは新しいですが、そのことはスカイツリーの立ち位置を危うくするものではないです。東京タワーがどこに建っているかを考慮の上でスカイツリーを建てて、それぞれの役割配分を決定しています。  阿弥陀を構想し説いた人も、釈迦の信仰上の功績や現実の権威を充分に考慮の上で、阿弥陀と釈迦、その他を再構想しています。それによって阿弥陀の立ち位置が確立されていったのです。
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お釈迦様がご自分が立っている大地が夜空にまばたく星と同類のものだとお気づきになっていなくも、阿弥陀仏の立ち位置が危うくなることなどないです。



旦那さんが外で何をしていようと、何を誤解していようとも、奥さんの立ち位置が危うくなる直接の原因になることもないのです。

阿弥陀仏に言及した経典の現存する最古の例は、後漢末期の西暦179年に西域僧の支婁迦讖によって漢訳された『仏説般舟三昧経』である。また西暦148年にはすでに安世高が『無量寿経』を漢訳したと伝えられるが、欠本となっており現存しない。 西暦2世紀末になってこれらの彫刻や文献が出現することから、阿弥陀仏の信仰と教義はクシャーナ朝前期の西暦1世紀から2世紀の間に発達したと推測される。

お釈迦様が紀元前5世紀よりも以前の方であるのなら、お釈迦様が何を知らなかろうが、西暦2世紀以降の阿弥陀様の立ち位置に関係ないです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
私は、お釈迦様の教えの基本は「生きることは苦である 苦から救ってくれる不思議な力は存在しない だから瞑想による修行によって苦と共存できる自分に変えろ」と認識しています。ところが、送られて来た仏教関係の書物には「宇宙には無数の星が存在する。その一つひとつの星に地球のお釈迦様と同じような仏様がいる。その全ての仏様を統括しているのが阿弥陀仏です。だから阿弥陀仏はお釈迦様の先生です。」と書いてありました。その後、同様の文言を何度か見ました。私にはお釈迦様がコペルニクスを超える宇宙観を持っていたとは考えられません。
お答えにあるご夫婦は家庭内離婚状態です。多くの夫婦は同じ時刻を共有しています。お釈迦様の入滅後、7世紀も後に阿弥陀仏が創案されたのなら、お釈迦様が阿弥陀仏を知る由もありません。ましてや師弟関係にあるはずがありません。阿弥陀仏の立ち位置が崩壊しました。しかし、お釈迦様の宇宙観についてお答えを頂いていませんので、ベストアンサーにはできません。
ごめんなさい。

お礼日時:2023/09/09 20:30

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