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紀元2600年は嘘である。
推古天皇以前は架空である。
そういう風に多くの学者が唱えます。
だとすれば、なぜ、日本人の多くは
それをお祀りして、そのまま正史として唱える神社の神々を拝み、
そこで行われるお祭りに参加するのでしょう。
信じていないというなら、神様に嘘を
ついていることになりませんか。
それとも鵜吞みにしていますか。
また有識者も紀元2600年、世界最古と
唱えないで、すなおに
2000年に減らして唱えればいいと思うのですが、
だめなのはなぜでしょう。

A 回答 (7件)

国是ではないし宗教でもない。


ただの習俗だからです。

正月や初詣や七五三詣りをするのは昔からの習慣だから。
神様がなんだっていいんです。
天皇がいつからだっていいんです。
御利益が具体的でなくてもいいんです。

昔からのイベントを楽しんでるだけ。
楽しいから心が和むし幸せを感じる。
だからやってるのです。
幸せを感じる。
それが御利益です。

ちゃんと完結しています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2023/10/22 00:28

架空であるなら神自体も架空であり、架空の神に嘘をつくことも問題ないのでは。



フィクションとして楽しんではダメなのですか。

フィクションを楽しんだらダメと言うなら、ほとんどのエンターテインメントが楽しめなくなります。

ディズニーランドを楽しむ人は、ミッキーの中に人間が入っていることを知ったうえで楽しんでいますけど。
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この回答へのお礼

どう思う?

ディズニーは架空の娯楽と分かった上で楽しみますよね。
神社は神様に詣でて
祈祷して
どうぞ願いが叶いますようにと
頼む人居ますよね。
信じなければ、向こうに失礼ですね。
ということは変に見えませんか。
当たれば、ああ本当にいたのだと思う物ではないでしょうか。
おかげ詣りもあるよね。

お礼日時:2023/10/19 09:55

確認できているのが、2600年前ということで、、、。



現実には、それ以上あるのは当たり前です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2023/10/22 00:27

神話は神話、学術的な事実は事実、もそれはそれ、これはこれとして判断すりゃいいだけでしょう



旧約聖書のアダムとイブはでっち上げだ、キリストは蘇ったなんて新約聖書は噓つきだ、キリストが生まれたのは紀元前4世紀ごろだから、今の西暦表記も間違っているから変えるべきだ、なんてならんでしょう
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この回答へのお礼

Thank you

>紀元前4世紀ごろだから

4世紀は400年
ではなく、4年ではないか。

たしか4年とか8年ずれは聞く。
ただ一度決めたので、ずらすと混乱するから、そのままで行こう。

ということは日本の神武紀元も動かさぬ方がいいという
宮内庁見解で続行か。

お礼日時:2023/10/19 10:44

>また有識者も紀元2600年、世界最古と唱えないで…


>2000年に減らして唱えればいいと思う…

これはあなたの認識が間違っています。

少なくとも継体天皇からあと今上陛下まで、男系でつながっているのは事実です。
およそ 1500 年です。

世界中どこを探しても、1500 年以上続いている王朝国家はどこにもありません。

2600年は神話の世界、史実で確認できるのは 1500年、有識者ははっきりそう言っています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%99%E4%BD%93 …
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この回答へのお礼

Thank you

ありがとうございました。

お礼日時:2023/10/22 00:27

>紀元2600年は嘘である。


まあ、そうだと思います。ただし、古代の紀年法が2毛作で、作物ができるサイクルを1年としていたという説もあります。それだと通常の1年で2年分という倍の計算になりますので、100歳ぐらいまで生きた天皇の寿命は50代だったと推測できますし、そうすると2600年という数字は嘘とは言えなくなります。ただし西暦で見て紀元前660年にスタートした、というのは間違いですね。


>推古天皇以前は架空である。
 ちがいますね。「実在が確認できない」です。
それを「架空」だとする説もあれば「何らかの人々が実在した」という説もあります。

>そういう風に多くの学者が唱えます。
はい、学者は学術的な見識で物事を捉えますので、そのようになるでしょう。

でもそれが社会にとって「すべて正しい」ということにはならないです。そこがご質問への回答の核になります。

>日本人の多くはそれをお祀りして、そのまま正史として唱える神社の神々を拝み、そこで行われるお祭りに参加するのでしょう。

それ、って何を差していますか?日本の神社がお祀りしているのは、天皇ではありませんよ。天皇個人を直接祀っているのは日本全国で14社しかありません。

それ以外の神社は、土着神か勧請された神様で、日本人の信仰と天皇家は関連はあるものの、神社の神々やお祭りとは基本的には関係ありません。

>信じていないというなら、神様に嘘をついていることになりませんか。

キリスト教やイスラム教の信者は、本当に神が居て、キリストやムハンマドに啓示したと信じていると思いますか?
 もちろんそういう人もいて、原理主義者と呼ばれますが、わざわざ「真面目に信仰している人達」を原理主義と呼ぶぐらい、実際はほとんどの人が「まあフィクションだろうけど、聖書やコーランに書いてあることは社会規範や道徳でもあるから従います」という程度です。

ではなぜ、日本でも世界でも「神を信じたふりをするのか?」というと、そのほうが個人に利益があるからです。キリスト教でもイスラム教でも「それを信じる人が大多数なら、集団の中で守られる」からです。

それはユダヤ教の歴史を見れば分かります。ユダヤ教を信じるユダヤ人はローマ時代のディアスポラ(拡散)以降、ユダヤ教を頑なに信仰したために様々な地域で排斥され続けました。

日本では「土着の神」と「勧請した神」があると書きましたが、土着の神は元々その地域を治めていた豪族や実力者が信仰する神であることがほとんどで、つまりその地域の守り神とされていたわけです。守り神を信じない人を地域に住まわせることは難しかったので、みんなそれなりに信じていた、といえます。

勧請神はもっと現実的で、たとえば日本で一番多い稲荷神社は農業の神で、五穀豊穣を祈るために農業地域に勧請されることがおおかったので、日本全国ほぼどこでもあるのですが、米がとれない北海道の北の方にはほとんどありません。

日本の場合多神教なので「自分達がお奉りしたい神を自分達で選んで祀る」ことができます。だから信じているし、遠くの神さまでも「御利益がある」と聞けばみんなその神社にお参りするわけです。

この日本の多神教の部分に天皇がどうかかわっているか、というと「天皇は日本のすべての神々を受け入れます」ということになります。
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この回答へのお礼

Thank you

ありがとうございました。

お礼日時:2023/10/22 00:27

推古天皇以前は架空というのではなく、確かに支配者がいたであろうがそれを象徴的に表現しているということで、全くでたらめではないです。


ただ、古代のことなので確証的に証明することがなかなか難しく、中国の古文書に記載されていることなどと照らし合わせながら、歴史的に推測するしかないということでしょう。
そして、何かの事実を象徴的な物語として日本書紀に表現している可能性も高いです。
このことは、旧約聖書のアダムとイブなど創世記の記述にも同様のことが言えると思います。

人は自分のアイデンティティを追求したい存在なのかもしれません。
自分がどこから生まれ、その祖先はどのように生きてきたのか、それを知りたくなり追及するのが人類なのでしょう。
当然、祖先をさかのぼっていくにも限界があり、人類誕生の物語を民族共通のものとして共有することで民族としての団結心も生まれるのでしょう(善し悪しを言っているのではありません)
ゆえに戦前の戦争で国民の団結心を高揚するために神話が使われたのです。
でも、それは「神話」自身が悪いのではなく、使われ方が悪かったのです。

だって、我々の先祖は「アフリカのジャングルにいた立派なお猿様だよ」といわれるより、日本書紀のような物語の方が気持ちに入りやすいのだと思います(これも人によると思いますが)。

また、神社へのお参りは「神を信じる」というより「神を信じたい」という気持ちが表れた行為だと考えます。
「神を信じる」ということと「神を信じたい」ということは異なります。

私自身は、「自分自身が謙虚におごらず、目標に向かって取り組んでいくので、必ず成就できるよう、どうかお守りください」という自分の目標へ向けて頑張る気持ちの宣言をする場が神社だと考えています。
その時は、神にお祈りすることを通じて、実は自分自身に目標達成を強く心に刷り込んでいる時間でもあるのです。

自分の努力で目標が成就した時に「自分が頑張ったからだとおごらずに、神様のお守りのおかげ」とすることで、人は自身の成功に対して謙虚になれるのだと考えます。

自分が一番ではなく、神という存在を自分の上にいただくことで、人は謙虚になれ、見通しのない挑戦にも一歩踏み出せるのではないでしょうか。

神に祈るということは、実は自分自身で自分に語り掛ける行為であると考えます。

宗教心に関することはひと言で断定的に語れるものではないため、上記のことがすべての人に当てはまるとは考えていません。
ただ、多くの国民が受け入れ、継承してきたという事実にこそ神社の存在意義があるのではないでしょうか。
こうしたことは理屈で説明しきれるものではなく、国柄、人の気持ちによるものです。
何でもかんでも理論武装し、説明責任を求められる現在、こうしたあいまいな部分があるのも許容できる社会こそが生きやすい社会だと思います。
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この回答へのお礼

解決しました

なるほど。

お礼日時:2023/10/19 10:59

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