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僕な友達で何を言われても気にしない人がいます。
何故ですかね。
1人目は友達は少ないけど、誰からも嫌われてないどこに行っても最低限仲良い人を作りバイトや学校などを普通に問題なく過ごす人です。
その人は別に嫌われてもどうでもいい悪く思ってるんだから?と言う人です。別にバカにされようと嫌われようとどうでもいいみたいです。けど不思議なことに誰もバカにしないし嫌ってる人もいないし本当に世渡り上手で頭いいなって感じます。

2人目はぼっちでもいいとか思ってる人です。
その人は友達も多いですし人が集まってきますし世渡り上手くいってます。それで、その人は人を馬鹿にしたりとかもちょくちょくしてるけど、何故か友達がおります。

2人とも何を言われても気にしないし嫌われてもいい
友達いなくてもいいとか考えてる人なのに友達いますし、嫌われてません。
逆に嫌われたくない友達欲しいという寂しがり屋の人は友達がいなくみんな離れていってるイメージがあります。この違いってなんなんですかね?

A 回答 (3件)

因果関係が逆じゃないかと思います。



以下は長いので興味があればお読みください。

鍵は世渡り上手だけでしょう。そこだけポイントを抑えて置けば「自分の考えが何処にあろうとも」他の人は去って行きません。実体験でやれている人は安心感も持っているはずです。そんな人が「本気でボッチに成ることを恐れる」はずがないですよ。体感であり得ない未来だからです。

「俺はいつも通りしているだけ。でもいつも通りに鍵がある
 かもしれないって説は『あるかも』とは思っている」

逆に「世渡りが下手」と言う人は何を望もうとも人が去って行きます。そういう人は「さすがにこれ以上は友達に嫌われたくない」と思う様に成るはずです。不安感は激マシのはずです。

何処に気を付ければ良いのかという要素は「その人の考え」とは関係なく抽出されています。古代の中国では「王」と言う概念が生まれました。その時代では失敗する「豪族」と成功する「豪族」が目の前におり、謎だったんでしょう。そこで「カリスマ」に類する力が働いていると考えて「その謎」を解き明かそうとしたんです。これを儒教では「徳」と呼んでいます。「徳」は複数種類あります。ちょうどRPG等のステータス・パラメータみたいなものです。

ゲームの様にそれらを上げる事で「他人が一目置く」「その人から離れられなくなるほど好きになる」に成ります。なのである人が「異常な人気」を集めていないのなら「徳」を積んでいないと成ります。「人の見て居ないところで自己犠牲を払い良い事をする行為」と勘違いしている人が多いですね。

徳は人の本能を刺激する拘束力の高いものです。魔法の用に効果を発揮します。使わないと損だという事です。人間の仕組みとして成功が保障されているという事です。世渡り上手の人は無意識に活用しています。

「徳とは王に求められる資質」

現代風に言えば「他の人から好きだと思われる要素」です。また現代の書籍では似たような話が「7つの習慣」という本にまとめられ(ちょっと古いですけどね)ヒットしました。趣旨はほとんど同じです。

どちらも「大きな効果が無いと思って軽視しているあたりにご注意」としています。つまり「自分らしさ」の中に致命傷(徳とは逆の行動パターン)が混ざっているかもしれないという事です。私たちはそれを個性だとして捉えていますが「万一致命傷が混ざっていたら」何をしても上手くいかないわけです。チェックして「徳に反する部分」を消し込みませんと生きていても無駄だという事です。徐々に阻害されていく流れしかありません。

つまり「当たり個性」と「はずれ個性」があるわけです。これらはあるがままに習慣とすべきではなく、改造して戦力化しないと行けない訳です(7つの習慣という本はそういう内容。道徳の場合は要素を抽出して明確化している)。

対人競技があるゲームではガチ勢とエンジョイ勢に分かれますよね。ガチ勢はパラメータを見ただけでダメ出しをします。「ワンチャンある」のはこのラインを超えてないと行けないと目安を出します。つまり運以前の足切りラインを知っているわけです。しかしエンジョイ勢はその怖さを知らない訳です。これでは勝負になりません。

「他人が離れていくと悩んでいる人は道徳エンジョイ勢
 であったというだけ。注意されている部分を大した意
 味がないと侮っている事に原因がある」

つまり道徳ガチ勢は「どうすると自分が一番人気者になるか?」という競技のプロであり、ノウハウやメタを知らない人をカモに出来るという事です。人物を磨くと良く言います。これは「ガチ勢が抑えているポイント」を無意識に出来るくらいまで練習をすることです。格闘ゲームでコンボ技の練習をするのと同じです。この練習量を「徳を積む」と表現します。

では具体的にはどんなパラメータがあるのか?

いまは封建時代ではありませんから5つの徳を意識すれば良いと思います。これは五常と言って「仁義礼智信」になります。対等な関係の中で「自分が周囲の人にとって重要になっていく」流れを作りだせます。5つ同時に使うとほぼ一瞬で(自分が一番価値がある人物だと周囲が認知する)決まります。

仁は思いやり。義はあるべき姿(理想)。礼は存在そのものに感謝する気持ち。智は状況を分析し合理的な解決法を見出すこと。信は結果の是非に関係なく一緒に取り組む(付き合う)という行為です。

それぞれはファンタジー小説にある地水火風みたいな属性と同じで、場合によって効果がある時とない時があります。逆効果に成る事もあるわけです。この「使い所」を体験により学んでいく必要もあります。

大衆を扇動する場合は「大義」が無ければいけないと成ります。強い理想ですね。理屈で解決しないくらいこじれている関係には思いやりが効果を発揮します。頭が鈍いと思われると注目されなくなります。敵だと認知されないためには礼を失ってはいけません。誰かに勧誘されるためには「結果について煩く言わずに付き合ってくれる人」でなければ行けません。また約束を守らないなど信用を無くす行為も避けたいですね。

こうして並べると「礼」(次に智)がないと何も始まらないのが分かりますよね。なので第一メタは「失礼を働かない」となります。親しい間柄だから「失礼も許される」と言う人は不味いという訳です。

「誰かを弄って失礼な事を言う人の人気があったとする。
 しかしそれは他の徳が効いているだけである。
 道徳ガチ勢はそれを分析して他の徳も同等以上に出し、
 その上で礼をアピールするだろう。これにより追い落
 とされるだろう」

つまりゲームみたいなモノなわけです。隙がある人は一蹴される危険があるという事です。少し伸びたあたりでガチ勢に狙われて「支持層」を丸ごと奪われます(乗っ取られる)。それが目に見えているので「礼」は第一メタなんです。ここがいい加減な人は他人を育てる養分になるだけなんです。「礼」がなってない人は頑張るだけ無駄となります。

このサイトでも「お礼」をマメに書く板は伸びます。しかし「お礼で反論をしている」人はそのまま頭打ちになります。失礼だからです。名前を覚えられてエンドになるでしょう。それくらい厳しい法則が介在しています。回答者は「その人を避けて普通にお礼をする人」へ乗り換えていきます。この時に乗り換え先の人は「あれ?なんで俺に人気が?」と不思議に思うはずです。

その人は普通に今まで通りであるわけです。つまり「ライバルがやらかした」と分かりません。そして「俺のここが受けたんだ」と舞い上がってしまい「少しの失礼程度は許される」みたいに成っちゃうでしょう。そこでエンドです。集めた人気が別の人へ丸ごと移動するからです。

「道徳の基本は他人がやらかすのをあてにする」

人に見捨てられる人がいる。だから人が集まる人がいるわけです。自分以外に人気が集まるのは自分が他人を遠ざけているからです。

例えば、自分い人気があるからと言って「人気のない人との約束を破った人」がいたとします。この時にライバルがいなければ何も起きません。「この程度なら大丈夫なんだろう」と安心するでしょう。しかし道徳ガチ勢が来ますとアウトです。「こっちの方がなんか良くね?」と一斉に乗り換えるわけです。

そうなると「あれ?どうして急に過疎った?俺って何時もこうなる。悩むわあ」となるわけです。大丈夫そうだと隙を作ってはいけないんですよ。遅延攻撃になるので「やらかした自覚がない」まま負けます。

知識や智慧が無く皆に従っている人がいたとします。これも「智」の徳に反しています。なのでその時は大丈夫に見えても遅延攻撃で阻害されます。

誰かが困っているのに気づかない場合があります。これも遅延攻撃で阻害に結び付きます。自分が接する範囲に「困っている人」が居てはいけないという暗黙のメタがあるんです。知らないふりをすると徳に反しますから忘れた頃にハブられます。

世の中の安定や大筋の意見に反論してみたくなる人がいます。これは義に反していますので必ずハブられます。大丈夫そうに見えても「困ったとき生贄にするならあいつだよな」くらいに憎まれているはずです。

なので「俺の自由な意見」は「義に沿っている時」のみしかしてはいけません。大衆の意見が義(理想)に反しており単なる不満であったとします。これに相乗りしてもだめです。やはり遅延攻撃でアウトになります。けっして理想からそれた意見を言ってはいけません。

この様に「大丈夫に見える系」が全て遅延攻撃になっているんです。チェックする要素は5つ(仁義礼智信)ありますので細心の注意で臨みましょう。

「他人は自分の物臭を覚えている」

以下は会議などで5つの徳を同時に使った場合の例です。

人が集まったら孤立しそうな人を直ぐに見出し、意見を述べさせたりして仲間の一人として尊厳を確保する。そして満遍なく公平に全ての人の尊厳を守ろうとする(礼)。その時は誰もが納得できる合理的な説明(智)をしたり、共感を得る例え(仁)を使って賛同して助ける。現実論や妥協案が出て来ても「いつかはこうしたいよね」と理想(義)を語って置く。その上で「一緒にやるか」「一緒に休憩するか」と誘い続ける。また結果については問わず「楽しかったねえ」とだけ態度で表す(信)。

これをやったら間違いなくそのグループのリーダーだと思われるでしょう。一目置かれると思いますよ。また自然にできるように習慣化(コンボの練習)することです。ここに拘りが出れば道徳ガチ勢です。

こういう練習を意識的にやってない人は運以前の問題なんです。

以上、ご参考になれば。
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どのようなスタイルでも『確固たる自分』があるのでしょう。

そういう人はあまりぶれないし、いろいろ経験して自信もあるのかもしれません。わたしは周りに合わせてブレブレなのでそういうのは憧れますけど。だから他人から何を言われようと自分は自分だと思える自信があるのでしょう。日本にもそんな人増えているんですね。『寂しい』という気持ちを全面に出す人は、相手に与えるものがあまりないから、つまらないのかもしれません。友達にはある種の魅力を求めるじゃないですか。寂しいからそばにいるだけの人って扱いに困るというか、かなり気を遣ってしまいます。わたしの住んでる台湾では、根拠のない自信過剰な人もいます。言ったもん勝ちみたいなところがあって、話の輪に入ってこなければ放置もされます。つまり友達が欲しければ自分にどんな魅力があって付き合うとそれなりに得だってことをわかってもらわないと友達ができないんです。だからその2人のお友達も、なぜか友達がいるのではなく、人を惹きつける何かがあるのでしょう。単なる孤独ではなく孤高だとか魅力を感じるのかもしれませんね。
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常に怖がってたりオドオドしてる人よりも


あっけらかんとサバサバしてる人のほうが
見る側からしたら気分いいですからね!
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