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1231年、高羅は、侵入してきたモンゴル軍に対して、政府軍と共に農民軍が戦いました。
一方、1274・1287年の元寇では、日本軍は武士だけが向かいうちました。

質問は、日本はなぜ農民軍が成立しなかったのでしょうか?

A 回答 (10件)

警察官が暴れる迷惑野郎と戦っている時に一般人が乱入しないのと同じじゃね

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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
猫の手も借りたい(少し意味が違っていますが)の気持ちにならないのでしょうか。

お礼日時:2023/11/08 10:51

えー、ですから、何回も言っているように、日本にそういう「農民軍」という概念も発想も全く無かったからです。


日本は支配階層末端(何回も繰り返すが「農民」などでは絶対に無い)が武士として武装化し、軍事も治安維持も独占的に請け負っていたのです。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました.

お礼日時:2023/11/10 15:43

奈良時代は農民に兵役を課して朝廷が軍隊を持っていました。


しかし、平安時代になるとそれをやめました。理由は、朝廷が戸籍を持っていなかったので、個々の農民から税を取ることも兵役を敷くこともできなくなっていたからです。さらに、朝廷が財政難で金が掛かる軍隊を持つことができなくなったから。地方を税の搾取対象としか見ていなかったので、地方の治安が荒れに荒れても放置したままにしておいたところ、支配階層の末端(農民では無い)が武装して自然発生的に武士が誕生したのです。そして朝廷は治安維持や軍事を、必要な時に武士に請け負わせるアウトソーシングが当たり前になったのです。
それから数百年、朝廷が独自に「農民軍」を結成するノウハウは勿論、意欲すら無かったのです。
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この回答へのお礼

早速の御回答りがとうございました。
高羅では、農民軍は、<朝廷が独自に「農民軍」を結成>するのではなく、
農民が自発的に結成したようですが。

お礼日時:2023/11/09 12:16

お礼について〈高羅は農民軍が編成されていましたが、なぜ、日本は発想や必要がなかったのですか?〉



※なぜ日本に農民兵の発想が無かったのかについては、最初の回答でも記していますが、日本の武士は実際には、特に下級武士は兼農が多く、兵力そのものも多かったので、敢えて武芸の訓練を受けていない農民を強制徴募する必要はなかったということです。

中国や高麗の武官は、武芸の鍛錬も行っているとはいえ朝廷の官僚です。兵力的にはそう多くはない。
要するに中国や高麗の人々は、大別するとまともな人民は官人と農民しかいない。あとは賤民である商工業者たちですね。
逆に云えば、高麗が大軍を組織する場合には農民を兵士にするしかなかったわけで、大量の武人でもある武士とその一党が最初からいた日本は農民軍を結成する必要なんてそもそもなかったということです。
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この回答へのお礼

再三の御回答ありがとうございます。
高羅・<高麗が大軍を組織する場合には農民を兵士にするしかなかった>
日本・武士と一党は農民混在・農民を根底にだったのですね。

お礼日時:2023/11/09 12:12

お礼について〈高羅は農民軍が編成されていましたが、なぜ、日本は発想や必要がなかったのですか?〉



高麗は中国と同じで、朝廷直属の武官はいますが、朝廷とは直接関係のない日本の武士のような兵士は元々存在しません。必要に応じて農民から兵士を徴募して軍を編成するのが一般的でした。

元寇のような大軍を編成する場合は、文官の方が武官より上位ですから、文官が総司令官や将軍・参謀となり、その指揮下に武官も入って兵を統率して戦うスタイルです。
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございました。
文官が優位、の国もあるのですね。

お礼日時:2023/11/09 18:03

当時の日本は封建制です。

封建制というのは領主が領主が領民を武力で守る代わりに、領民は領主に年貢ををさめるという制度です。領民は武士に守られる存在なので彼らが武装し立ち上がるというのはそもそも筋違いな話です。一般庶民が徴兵され兵隊として祖国防衛に立ち上がるというのは、フランス革命による国民国家成立以降の話です。
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この回答へのお礼

<筋違いな話>というのは、ほぼ循環論法のようですが。

お礼日時:2023/11/08 17:50

鎌倉武士も底辺は農民を兼ねていました。

武士専業だったのは源氏や平氏など中央から天下ってきた在地の領主とその一党ですよ。

ただ、農民専業と兼農を含む武士は一線を画していました。
平安時代に朝廷が国軍を原則廃止したので、盗賊などから農民や輸送業者を護るために必要に迫られて武装化したのが武士です。

ゆえに、元寇当時の農民は武装もしていなければ、武芸の鍛錬もしていませんでした。そもそも農民が武力集団と戦うという発想がなく、その必要も無かった。

だから、文永の役では九州の御家人たちが元軍を迎え撃ち、弘安の役では予め安達盛宗を肥後守護にするなど坂東の武士団の一部も九州に送り込んで防衛体制を固めたわけです。元軍襲来を知って大番役で京の六波羅に駐屯していた鎌倉武士団も九州に向かいましたが、到着前に元軍は壊滅しています。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
<農民が武力集団と戦うという発想がなく、その必要も無かった。>ですか。
高羅は農民軍が編成されていましたが、なぜ、日本は発想や必要がなかったのですか?

お礼日時:2023/11/08 17:47

その当時の日本には農民に軍役を課して動員するという発想が無かったからです。


元々幕府は、将軍と主従関係を結んだ御家人に対してだけ軍事動員権がありましたが、元寇で非御家人である全ての武士への軍事動員権を朝廷から認められました。
また、元寇で実際に動員されたり戦ったのは九州の武士だけでした。幕府は西日本に所領を持つ御家人に対して、西日本の所領に行って、いつでも動員に応じられるよう待機せよと命令を下しましたが、それ以外の御家人や武士にとって、元寇は別世界の無関係な話でした。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
なぜ<その当時の日本には農民に軍役を課して動員するという発想が無かった>のですか。高羅は農民軍が編成されていました。

お礼日時:2023/11/08 10:56

文永の役って確か戦争期間14日とかしかなく、


そのうち対馬侵略が10日、壱岐侵略が2日、博多上陸して2日とかで戦争終了。

どうやって40年も経って予告なく突然襲来する敵に対して、政府は農民軍を徴兵して成立させる方法があるのか、あなたの考えを聞きたい。
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この回答へのお礼

差足の御回答ありがとうございます。
高羅は農民軍が編成されていました。

お礼日時:2023/11/08 10:54

農民が兵士として参加するようになったのは戦国時代以降で、それ以前は武士と農民は別れていました

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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
肝心なのは、なぜ別けれていたのですか?

お礼日時:2023/11/08 10:52

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