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忠臣蔵では吉良上野介は凄い悪者として描かれています。
しかし、あれは巷談の増幅で、地元では良き殿さまとして描かれているという説もあります。
真相はどうだったのか御存知の方はご教授お願いします。
また、吉良上野介は吉良屋敷で見つかった時、追手に斬りかかったとする話聞きますが、
本当でしょうか。

A 回答 (6件)

吉良上野介が何か意地の悪いいじめやパワハラを行ったとは考えにくく、むしろ浅野内匠頭の方に大きな問題があったと考えるのが自然です。

実は浅野内匠頭の母方の叔父である内藤忠勝と、又従兄弟である稲葉正休が同様の刀傷沙汰を起こしているのです。

母方の叔父、内藤忠勝は第4代将軍・徳川家綱葬儀中の増上寺で永井尚長に対して刃傷に及んで切腹および改易となりました。又従兄の稲葉正休は江戸城で堀田正俊に刃傷に及び、その場で老中らに斬殺されています。つまり、浅野内匠頭の血筋は公的な場で刀傷沙汰を起こすような人間ばかりであり、恐らく、かっとしやすい性格が遺伝していたと考えられるのです。

内藤忠勝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4 …
稲葉正休
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89 …

浅野内匠頭に対する幕府の処断が厳しくなったのも、内藤忠勝や稲葉正休といった親類が同様の事件を起こしていたことが影響したのです。

このかっとしやすい性格については、当時の史料にも記録が残っていて、吉良上野介の手当てをした栗崎道有が残した『栗崎道有記録』には、浅野長矩は癇癪持ちであったと記されているのです。
更に当時の別の記録には、浅野内匠頭には「痞(つかえ)」もしくは「痞気」という、息が詰まって胸が苦しくなる持病があったと書かれています。
これは江戸時代の医学では胸が何かにつかえて苦しくなる病気のことですが、現代医学で考えると不安障害・パニック障害の症状と考えられるのです。

以上のようなことは当時の庶民には知られておらず、仇討ちを武士(もののふ)らしいとか格好良いとする風潮から、吉良家に討ち入りした四十七士が賛美されて持ち上げられ、その反動として吉良上野介が、ひねくれた性格の悪い意地悪爺扱いされてしまったと考えられるのです。

吉良上野介は討ち入りの追っ手に見つかったときに、脇差しを抜いて抵抗したようです。当時の武士なら当たり前でしょう。

尚、吉良上野介が治水事業や新田開拓を行ったのは事実ですが、これを拡大解釈して吉良上野介を名君であったと地元で讃えるようになったのは比較的近年になってからのことのようです。赤穂浪士の討ち入りが古くは芝居や講談、近年ではテレビの時代劇などで放送される際に、吉良上野介が悪く描かれ、その結果として地元まで悪く言われる風潮になっていることから、反発した地元の人たちによって吉良上野介を讃える伝承が形成された面があります。つまり、四十七士を褒め称える世間の風潮への抵抗・反発として名君の評判が形成されていったのです。
結局のところ、感情によって浅野内匠頭と四十七士側も吉良上野介側も、どちらも誇張して賛美していて、事実から乖離してしまっているのです。
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この回答へのお礼

解決しました

お礼日時:2023/12/12 22:24

「吉良は名君」というのも後世に作られた盛った話です。


吉良は江戸定府でしたから、領地に立ち寄ることができるのは、京に出張に出かけた時に立ち寄るくらいです。
また、あの事件は完全に浅野内匠頭が悪く、吉良は無辜の被害者です。ガチ基地の浅野内匠頭と不幸にも目が合ったので切りつけられたのです。
浅野内匠頭の母方の叔父も同じような事件を起こしているので、遺伝性のキ印だったのです。
さらに逆恨みされて強殺されるなんて踏んだり蹴ったりですよ。あまりにも可哀そうなんで、名君にでもしておかないと浮かばれないでしょう。
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この回答へのお礼

Thank you

お礼日時:2023/12/16 00:23

今の政治家を見なさい



国会で
いろいろと問題を起こしても
地元で
橋をかけたり
急行を止めたりしていれば
再当選

全国と地元での評価は
違います
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この回答へのお礼

助かりました

お礼日時:2023/12/12 22:24

#1さん回答に一票です、名君として地元では称えられています。


忠臣蔵は徒党を組んで、一人の老人を殺しに行った、現在の価値観から
言えば犯罪者の集団となります。

それを、初代市川團十郎が主君の仇を討った忠義の志として、歌舞伎
の演目として創作したのが「大忠臣蔵」で大ヒット作になりました。
悪役がいないと芝居としては受けませんので、吉良上野介を強欲な
憎たらしい人物にしたのです。

浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に斬りかかり、即日に切腹の
沙汰が下され死罪となったのは事実です。

吉良上野介は事件当時、齢60を超えていました、年齢を考えると
派手に歯向かうなどは無理でしょう、尾ひれが付いて広まった悪評
のひとつですね。

浅野内匠頭は、現在では、辛抱、我慢が出来ず、多くの家臣や家族に
浪人の憂き目を味会わせた、馬鹿殿の評価ですね。
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この回答へのお礼

助かりました

お礼日時:2023/12/12 22:24

浅野君、日ごろから短気な行いがあったようです。


今、裁判をすれば、斬り付けた浅野が悪い。吉良は被害者ということになるでしょう。
まぁ、吉良も、若干パワハラぎみに接してたようで、その過失があるでしょう。
討ち入りも、集団でやってますからね。敵討ちなら、一対一でしろよという意見もあるようで。
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この回答へのお礼

助かりました

お礼日時:2023/12/12 22:24

『地元では良き殿さまとして描かれているという説もあります。


説ではなく、実際に地元では名君として尊敬されてます

普通に考えて浅野くんがストレス性障害か何かで突発的に刃傷に及んだのでしょうね
その原因には吉良さんの嫌味とか叱責でもあったのかもしれない

人間100%の善人は居ません
いい人でも偶に嫌味を言いたくなったりするだろうしね
で賂に関しても江戸時代の価値観で言えば、交際費的な意味で贈り物や付け届けをするのは当然の話であり
現代の価値観で金品の受け渡しは倫理的に~とか言っても意味ないし


吉良さん事件当時は60歳過ぎのご老人ですからね
高家ってことは武勇を競う家柄でもないですし
完全武装した集団に囲まれてしまえば反撃は難しいと思いますが

講談は講談として愉しめば良いんじゃないかと思いますが
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この回答へのお礼

助かりました

お礼日時:2023/12/12 19:13

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