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ユダヤ教とキリスト教において、一神教である理由が判りません。

聖書の文章の出典:http://bible.salterrae.net/kougo/html/genesis.html
         口語訳旧約聖書1955年版 創世記

旧約聖書 創世記には、主語が「神」の天地創造と「主なる神」の天地創造の話が出てきます。
旧約聖書にて、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記は、トーラーとか
モーセ五書と呼ばれ、伝承では預言者モーセが書いたということになっていました。
聖書を研究するということが始まり、18世紀に複数の著者がいたらしいという研究が
出ているようです。(※1)

該当宗教に詳しい人が言うには「複数の著者がいたので、神と主なる神が別になって、
内容も多少の伝承のずれがある。それが両方記された」との見解です。(※2)

※1※2:https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13789862.html
     ※1はNo3様の回答、※2はNo1様の回答より。


しかし、旧約聖書が成立したのが紀元前後(※1)そこから数えて1700年間は「モーセが書いた」
という話であり、モーセ五書の著者は一人という認識だった。
なのに、なぜ「神」と「主なる神」両方が出てきて天地創造を2回行ったのでしょうか?

聖書の研究はその後も行われ、その成果として「創世記の天地創造の話は、同一神の同一創造だが
著者が違うので神様の名前(主語)と順番が違うようだ」という結論になっています。
このため実は同一神というなら、判ります。
しかし、そういう研究が出る前に「著者はモーセ一人」という伝承があり、かつ「神と主なる神
創世記には両方出てきている」という状況で、同一神と言っています。

私には「著者が一人という知識を前提とするなら、神と主なる神は別神格」としか読めません。

質問:
何故、聖書の学問的研究が始まる前から = 著者はモーセ一人とされている時代から、
神と主なる神が同一神格という解釈で、キリスト教・ユダヤ教では一神教なのでしょうか?

例えば「伝承ではモーセ一人が書いたことになってるが、どうも怪しい」とも伝わっていたとか。
そういう合理的な説得力がある回答をお願いいたします。

質問者からの補足コメント

  • 皆様へ補足

    1.古代ユダヤには「満場一致のパラドックス」という考えがあった
    2.聖書の研究により旧約聖書の著者が複数いたらしいというのは、ここ200~300年の話
    3.モーセ五書はモーセが書いたと伝承されている。それまでは著者1人という認識であった
    4.主語が「神」の天地創造、「主なる神」の天地創造が出て来て、順番も内容も違う
    5.4は「これは神と主なる神は別ではないのか」と私は疑問に思った

    これらを矛盾なく説明する仮説として下記を挙げます
    ・5のように、疑問を持つ人を育てるため敢えて矛盾を乗せている可能性
     聖書を学ぶ人間が「これは矛盾があるのでは」と、矛盾に気づかせるためである可能性
    ・であるなら「満場一致のパラドックス」を避けるため、問題点に気づく人間が育つかも
    ・また「これおかしくないですか?」と言える空気を維持するのにも役立ったかもしれない

      補足日時:2024/04/27 21:31
  • 皆様へ補足2

    過去質問のNo.1様の回答があります。
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13789862.html

    要は旧約の成立過程で、急いでいたので内容に矛盾があった、という研究からの意見です。
    急いでいた理由はユダヤ人が団結する必要があり、その拠り所とするためとの事。
    ・質問者の疑問には「旧約は急いで作られかつ団結する必要があったため、そんなことは
     言っていられない状況であったから」という説明も可能
    こういう可能性もあります。
    確かに第2次大戦後イスラエルが建国されるまで、ユダヤ人には国がありませんでした。
    (今も大変ですけど)
    なあなあでやらざるを得ず、満場一致のパラドックスを考える(策を吟味する)余裕も
    無かったのかも知れません。

    キリスト教には1000年の暗黒時代があり恐怖政治でしたから、No6様が仰る「メリットなし」
    という説明が可能です。

      補足日時:2024/04/27 21:48
  • No11様と皆さま

    ユダヤ教、キリスト教が一神教であるのは、破綻している理論をそう思わず(矛盾に気づかず)
    しがみついていたから、という理解でいいでしょうか?

    尚、聖書の研究において「著者が複数だった」というのは、あくまでも仮説です。
    ダーウィンの進化論が仮説であるのと同義で、あとから調べたらこういう事らしい、ということです。
    著者が一人だったという可能性もあります。その場合は別神格であり一神教は破綻します。

    一神教が先にあったので、それを矛盾なく説明するために複数の著者説となった可能性はあります。
    その場合、聖書の内容はあまり信用できるものではない、ということにもなります。

    理論的に破綻しているのなら、悔い改めるべきではないのでしょうか?

      補足日時:2024/04/29 14:51
  • 〆ます。

    回答のあとまだ疑問は残るものの、合理的な説明を頂いたNo6様をベストアンサーに致します。

      補足日時:2024/05/01 11:37

A 回答 (11件中1~10件)

あ、すみません、少し回答のポイントを外していたような気がするので補足します。



例えばですね、是非を論じるつもりは全くないですが、
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という憲法の条文があって、
でも一方で自衛隊は明らかに陸自海自空自と揃って「戦力」になる。
両者は、素直に考えれば矛盾する。

でもこの状況、成り立ってますよね。何故ならば、憲法の成立過程と、自衛隊の成立過程はそれぞれ別で、一度成立した前提は簡単には崩せないからです。

議論はある。どちらかが間違っているとして、修正しようとする人もいる。でも、今のところ成り立っている。たぶん、今後もわざわざ自衛隊を放棄することはないだろうし、憲法の条文を変更するのも、かなり念入りに時間をかけて根回しをして、世間の風潮を変えていくか、あるいは問答無用で戦争が起こるかしないと難しい。

しかもそれらは恐らく正義と論理的妥当性に基づいて起こるのではなく、戦争が起こりそうだとか、背後の利権がどうだとか、そういう現実の問題に対処するために起こる。

じゃあ、創世が二回あることを指摘して、誰がどう得をするのか。学問が成立した後なら、得をする人はいるんです。学説の正否に、自分の将来や権威が掛かっていますから。

宗教の成立と教典の成立は必ずしも同時ではなく、並行して起こることもあり、その両者が矛盾しても両方受け入れられることは別に珍しくない。

そして、一度受け入れられたら、その矛盾の修正は「するメリット」がない限りされない。

それが、一神教と、教典の二回の創世が特に問題として顕在化しなかった理由かと思います。

顕在化というのは、記録に残るかという意味も含めてですね。私のようなただの一市民が「心というものは実在しない」と主張しても、仮にそれに同意する人が100人くらいいても、1000年後の人はそんなこと分かりませんよね。

何で二回創世があるんだ、と疑問を口にした人も、いなかったんじゃなく、いても結果それが変わらなかったなら誰も記録に残さなかった、というだけのことかも知れません。
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この回答へのお礼

誰も得をしないから。なるほど、判りました。

ただ、ユダヤには「満場一致のパラドックス」故、満場一致の採決は採用しない、
という考えがあったと聞いています。

出典は私が知る限り「日本人とユダヤ人」という書物ですが、
これが非常に怪しくて、どこまでが事実なのかが、今となっては明確ではありません。
満場一致の採決は避けるべき、は真実だとは思いますが、古代ユダヤでも
事実として避けられていたのかはちょっと不確かです。

もし満場一致の採決は避ける、という考えがあったのであれば、
ご意見の「誰も得をしないから言い出さない」という所には、
若干の疑問が残ります。

お礼日時:2024/04/26 16:17

>なぜ天地創造を2回行ったのでしょうか?


旧約聖書にそういう記載、ありましたっけ?
複数の著者がいたという説は、定説の表現では
第1章(天地創造)がP文書、2~4章(楽園追放)がJ文書。
メタ情報散見という点はあれど、いちおう時系列順。
 注意:いちおう定説と書いたが、複数の著者がいたという説の中での定説であり、複数の著者がいたという説自体は定説とは言えない。
天地創造の2回とは、どれとどれを指す?

>モーセ五書の著者は一人という認識
近年の事例を反例とします。
吉川三国志、横山三国志といえば、著者は吉川さん横山さん、ですよね。でもその下敷きとして、三国志演義(施耐庵?羅貫中?)、正史三国志(陳寿)があり、[三国志演義は「講談」を編集したものなので著者でなく編者]というのが正しいよね?
にもかかわらず、吉川三国志、横山三国志は、それぞれ「著者」。
モーセ五書についても、吉川三国志、横山三国志みたいなものだという可能性が大いにあるところ、編者の可能性すらバッサリ切り捨てて「著者」
と主張したのが黄銀さんの主張。

普通の認識は、
モーセ五書の「編者」がモーセであり、それ以前の伝承をまとめたもの。
神話では普通にある話。

話は飛びます。
>一神教である理由
この場合の一神教とは唯一神教のこと。(多神のうち1柱だけを信仰、といった場合は除外。)
これは、アシモフの「聖書を科学する」(1983)がわかりやすい。
神を「全能」だとする。論理的に、「神は最大で1柱のみ」。
なぜなら、
全能者が2柱存在したとして、両者が戦ったらどうなるか。負けた側は全能でないことが確定。(引き分けは、両者ともに全能ではない。)
一方、我々の世界があることは確定。我々の世界はどうやってできたか、というと、考えられるのは以下の3つ。(現代科学は3.となる。)
1.永遠の昔からあった。
2.あるとき、だれかが作った。
3.あるとき、自然発生した。
どれが合理的かというと、古代(古代ギリシアを想定)で知られている科学的事実からすると2.。1.は無限というわけわからんものが必要だし、3.は、観測事実に反するので非科学的である。
 ※参考:日本神話の場合、混沌が昔からあって、そのあと神様が
  自然発生。その後、神様による国生み。

以上より、神が0柱は、ありえない。よって、1柱。

全能についての参考。
多神教の場合、
  ゼウスは、海や黄泉に対し支配権がない。
  アマテラスは、国譲り時点より前は出雲に対し支配権がない。
よって、全能ではない。


ここで、P文書とJ文書に戻ります。
J文書だと、たとえば
「知恵の実を食べたことで神と同等に」といった、神は全能からみて矛盾する表記が存在。
よって、
J文書が1神教成立過程、P文書が発展形、
P文書には書いてない部分をJ文書で補ったのが完成形であるモーセ五書
という考えは、筋が通っているとしかいえません。
 ※かといって、P文書とJ文書がある、ということ自体は仮説です。
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この回答へのお礼

神が一人でも全能というなら「神は自分が持ち上げられないような石を作れますか?」に回答ください。
持ち上げられないのなら、持ち上げられないことをもって全能ではない。
どんな重い石でも持ち上げられるのなら、作れないことをもって全能ではない。(多湖輝)
貴殿の論は破綻します。


さて、旧約聖書創世記から引用します。

主語が「神」の方
1:1 はじめに神は天と地とを創造された。
  ~
2:4これが天地創造の由来である。
ここまでは「神」が主語です。
光(昼と夜)→おおぞら→かわいた地(陸と海)→植物→
おおぞらに光があるように(太陽、星、月)→海の獣・水の動物・鳥
→家畜と、這うものと、地の獣、および人(男と女) と創造してます。
※御業の終わりには「それを見て良しと言われた」とある
※最終日、再度見直している
 「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」
※見直してるが一発で決めている。手練れと読める。

主語が「主なる神」の方
2:4(前略)主なる神が地と天とを造られた時
 ~
2:22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、
   人のところへ連れてこられた。
人→樹木、命の木と善悪を知る木→助け手(野のすべての獣と、空のすべての鳥
尚2:20から、家畜も作ったと読める)→あばら骨から女

※「神」とは順番も違う。
※海の獣と水の生き物は創造していない。
※御業のあと見直しているのは同じだが、助け手を作ろう等、手直しが必要。
※「良しと言われた」という言葉が出てこない。
※未熟と読める。
※創世記6章
6:6主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、  ←
6:7「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、
 這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」
で、ノアの洪水をおこします。

結論:多湖輝氏の書籍を待たず、主なる神は全能ではない。
   神や主なる神は、自分の御業を見直して必要があれば手直しする。
   PDCAサイクルを回しているから、それを万能と言ってるのでは?
   イエスが言う「悔い改めよ」を自ら実践している。

結論:また手練れか未熟か。創造の順番。両方違う。
   著者がモーセ一人であれば、別の神格と結論付けられる。
   (複数の著者説はこれを回避できるが)

お礼日時:2024/04/29 14:35

質問者様の聖書の読み方でずっと気になっているのは、国語的ないし文法的な観点からしか読んでいない(ようにしか思えない)と言う点です。

端的に言えば「書かれている文字しか読んでいない。書かれていない事は読んでいないし読もうともしていない」と言う感じでしょうか。

確かに国語的な読み方だけで言えば質問者様の読み方の方が自然に感じられるのかもしれません。しかしながら思想と言う観点で言えば、質問者様の読み方はかなり特殊なものと言わざるを得ないと思います。質問者様の読み方はこの「思想」と言う観点がすっぽり抜け落ちているわけです。

先の回答にも書いたように「唯一神が天地創造を一度だけ行った」と言うのは思想的に極めてシンプルで分かりやすいものです。一方で質問者様が解釈されているような「二人の神様がそれぞれ一回ずつ天地創造を行った」と言うのは、少なくとも整合性の取れそうな思想とはすぐには受け取りにくいものです。「世界を二回作るとはどう言う事なのか」等々と言った事を後からいろいろ考えないといけなくなります。そんな小難しい理屈よりは「一人の神様が天地創造を一回だけ行った」と考えて「理由は分からないが神様は二種類の呼ばれ方をしていて(天地創造と言う)同じ事を二回書いている」と受け取った方が思想としては素朴で受け入れやすいと思います。
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お礼コメントに対してですがもちろんそんな疑問は生まれません。

聖書の記述は「一人の神様が天地創造した」と言う思想と矛盾する点はない(と考える事ができる)からです。

学問的な予備知識を一切持たずに聖書を読んでまず浮かぶのは当然「一人の神様が天地創造を一度だけ行った」と言うものです。そして少し注意深く読むと「神様の呼び方が二種類ある」「天地創造の記述が二回出て来る」と言った事に気が付くでしょうが、そこでまず浮かぶ解釈は「二人の神様がそれぞれ天地創造を行った」ではなくてやはり「一人の神様が天地創造を一回だけ行った」と言うものです。「理由は分からないが一人の神様を二種類の呼び方で呼んでいる」「実際の天地創造は一回だけだが聖書では二回書いている」と解釈する方が思想としては自然です。そもそも「天地創造」は言わば定義によって一度しか行えないわけですから(天地は一つだけなので)「二回天地創造を行った」と言うのはやはり不自然な読み方と言わざるを得ないと思います。
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この回答へのお礼

> 「この聖典、私が教わったこと(一神教)とちがうのでは」という疑問が生まれませんか?

という質問に対して「そういう疑問は生まれません」という回答と解します。
貴殿とのやり取りはこれで終わります。

他の人は「そういう疑問が生まれることも有るよなぁ」という立場を組んでの回答を頂いていますので。

可能なら、私はブラックリストに載せ以降の回答はお避け下さい。

お礼日時:2024/04/26 21:41

そもそもの話「旧約聖書(の各巻)を読み解いた結果ユダヤ教の教えが生まれた」としか考えないからわけが分からなくなるのでは? 逆に「ユダヤ教の教えが先にあってその教典として旧約聖書が書かれた」あるいは「ユダヤ教が旧約聖書を教典として採用した」と考える事もできるはずです。

キリスト教の場合は明らかに宗教の方が教典より先だったわけですから、ユダヤ教も同様だったと考えてはいけない理由はどこにもないはずです。

ユダヤ教やキリスト教のような「唯一の神が宇宙すべてを創造した」と言う考え方は、哲学で言う「第一原因」と言う考え方にも通じるわけですから、教えとしては非常に素朴で分かりやすいと思います。そしてユダヤ教は「数々生まれた一神教の中の一つ」と言う事になるでしょう。
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この回答へのお礼

一神教が先に有って、あとから旧約聖書ができたとします。
であれば、「この聖典、私が教わったこと(一神教)とちがうのでは」
という疑問が生まれませんか?

いずれにせよ、教えと聖典が乖離していると思いますが。

お礼日時:2024/04/26 19:22

>エホバの証人では、旧約聖書創世記もキリストの弟子が書いた、とされるのですか?


▶私は、そう聞いたのですが・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
他のキリスト教系の宗派やユダヤ教では、質問本文に書いたように
創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記はトーラーとか
モーセ五書と呼ばれ、モーセが書いたと伝承されています。

また聖書の本文の内容も、新世界訳聖書であり、共同訳などと
異なるようです。

これはこれで、おかしいところを修正した、とも見れますが。

お礼日時:2024/04/26 14:30

それは「そういうもの」なんじゃないかなぁ、と思います。

共同体の「常識」や「神話」って、そもそも疑えるものではないですから。

例えばですけど、新宗教の教祖が誰々の生まれ変わりだとか、歴史上の偉人の霊と対話できるとか、外から見れば論理的な破綻に誰でも気付くものであっても、教団内ではそれが当たり前で、明確な破綻には誰も言及しなかったり、かなり無理のある遠回りな説明が付けられていたりすることはよくあります。

なので、誰もその疑問を持たなかったか、持っても議論できなかったことは特に不思議とは思いません。

別の例を出すなら、私は割と自信をもって「心は存在しない」ということを説明できますが、それを私が言ったら、「心」を大切にする現代のまともな人たちの何割がそれに耳を傾けてくれるでしょうか。
あるいは、私は「嫌なやつ」「頭のおかしいやつ」と思われたりしないでしょうか。
そんなことを条理を尽くして説明したところで、私を含め誰も得をしないし、「心」という言葉が機能して、諸々の場面で役に立っていることには私も異論はないので、わざわざ「心は存在しないのではないか」と提起したりはしません。

先にも書いた通り、一神教にとって、神がひとりであることは「論理的帰結」ではなく「前提」です。なので、疑問を持たなかったのかという点については、
第一に多くの人は持たなかっただろうと思いますし、第二に持った人も「機能している一神教」にわざわざそんな疑問をぶつけるような、誰も得をしないことはしなかったのではないか、と思います。
かつてそんなに大きくも強くもなく、国教でもなかった一神教の教典に矛盾を感じ、それがおかしいと思ったら、信じず離れればいいだけなんですから。わざわざ「これはおかしいのではないか」「どういうことか」と議論するのは、その教えが社会全体にとって無視できないほど大きいからこそ起こり得ることです。
ユダヤ教はユダヤ人の民族宗教、他民族にとっては他人事ですし、キリスト教もコンスタンティヌス帝が出てくるまでは主流の宗教ではありませんでした。

そもそも、科学的・論理的考察が教典をも凌駕して物事の正否を決めるようになったのは、どんなに早くても紀元前300年代のアリストテレスあたり以降でしょうから、紀元前1600あるいは1300年代とされるモーセの時代からはだいぶ先ですし。

このあたりが答えになるんじゃないかと思いますが、どうでしょう。
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この回答へのお礼

確かに、外部の人間の素朴な疑問は、実は盲点を突いていた。
こういうことは得てしてあります。
「言われてみたらそうであるが、誰も疑問視していなかったなぁ」
ということはあり得るかもしれないですね。

お礼日時:2024/04/26 16:19

最初は多神教だった。



やきもち焼きの神がいて、“俺だけだろ”と念を押されて一神教になったらしい。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そういう経緯であれば、納得する話です。
その名残が、創世記に天地創造が2回出て来る部分かも知れませんね。

すると、後世の聖書研究では「同一神格だが著者が違うので記載がダブってる」
とされてます。これがマユツバ物になる、ということでもありますね。

お礼日時:2024/04/26 08:02

専門の研究者ではないので、飽くまで「そうじゃないかな」くらいのお話ですが、習合の結果なんじゃないでしょうか。



今や世界最大の宗教のひとつであるキリスト教にも、一新興宗教に過ぎない時代はありました。自分たちより遥かに大きく強い宗教、例えばミトラ教などがある中、教えを広めていくためには、「あなたがたの信じる神は本当の神ではない。我らの神を信じよ」とやるより、「あなたがたの信じる神は、実は我々の神と同じものなのだ。その神はこう説いている」とやる方が受け入れられやすい。

当初はそのような方便も使ったでしょうし、使わざるを得なかったでしょう。ならば聖書の元になった原典も複数あっておかしくないし、それぞれに創世神話があれば重複も出てくると思います。原典が複数あるなら、著者や編者が一人でも記述が二回あるのはさほど不思議でもありません。

>質問:
何故、聖書の学問的研究が始まる前から = 著者はモーセ一人とされている時代から、
神と主なる神が同一神格という解釈で、キリスト教・ユダヤ教では一神教なのでしょうか?

これは、たぶん順序が逆なんじゃないでしょうか。キリスト教・ユダヤ教では「神はただひとり」というのは大前提であって、解釈ではないからだと思います。
つまり聖書研究というのは、「記述によると神は何人いるのか」という問われ方はしていなくて、「神はただひとりなのに、何故創世の記述は二度あるのか」という問われ方なんだと思います。その結果として、複数人の著者がいるのではないか、といった「解釈」が出てくるのは聖書の学問的研究が始まった後のことだ、という話なんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

ユダヤ教も一神教です。まずユダヤ教に限ってみます。
モーセ五書の著者はモーセ一人と伝承されています。
でも、天地創造の記載は2回あり、主語も順番も違います。
同じ人がこういう事を書くとは考えにくい。
従って、これは別の神様ではないのか?という疑問がなぜ生まれなかったのか。
これが判りません。

逆に、仰るように「神がひとり」というのが大前提であったら、
この聖書は成り立たない。聖書がおかしい。
こういう話になって、2000年近い間に修正が入らなかったのが疑問です。

キリスト教については、この辺はユダヤ教をそのまま受け継いでるので
一神教が最初にあったとしても、同じ疑問が湧きます。

お礼日時:2024/04/26 07:13

簡単に言えば、最初に宗教という嘘を作り出した人にとって


そのほうが都合がよかったからです
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この回答へのお礼

その嘘がほころんでるところが、例えば旧約聖書の創世記の記載である。
こういう理解でいいでしょうか?

その意見には反論せねばなりません。
旧約聖書創世記を読む限り、神と主なる神が出てきますが、ノアの洪水の付近までは主なる神という主語が続きます。
この神様の言動を読むと、イソップ寓話の如く教訓を読み取ることはできます。
主なる神はひとを創り、(見直したら不足だったので)動物や家畜を創り、それでもまだ不足だったので、人のあばら骨をとって女を創りました。
こういう部分は、今でいう「PDCAサイクル」を回していると読めます。
「トライアンドエラー」とか「試行錯誤」「カイゼン」という名前でもいいです。キリストの言葉を借りると、神様が「悔い改めて」いらっしゃいます。

神様は失敗したら修正し、行動を改善するから万能なんだよ。
こういう宗教的解釈ができるような書物でもあります。

ただ、そういう教義ではなく、何の説明もなく「神は万能だ」です。


ご意見のように嘘があるのであれば、ユダヤ教とキリスト教ではこの部分は
どういう嘘で言いくるめているのか。
それが知りたいです。

お礼日時:2024/04/26 07:25

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