デカルトの身心二元論をわかりやすく説明してください。
特にわからないのは、
「物(身体)は延長を本質とし,心(精神)は非延長的な思考を本質とする」
という考え方です。ここでいう「延長」とはなんのことなんですか?
急ぎの用なので本を読む時間がありませんでした・・・
至急お願いします!!!!!m(._.;)m

A 回答 (1件)

デカルトが流行ってらっしゃるのでしょうか^^;


心身二元論については下の方の質問にも答えているので
それを参考にして頂けるとありがたいのですが、
さらに「延長」について説明します。

延長は、物体を語るうえで重要な概念です。(観念論じゃなくてよかった^^)
物体を定義しろ、という時に何を思い浮かべます?
重さはないけれど、物があるってことありますよね。真空とか。
で質料とかもかなり微妙ですし、不可入性とかも言われたりしますが、
まず何よりも先に立つのは延長です。
延長は広がりとか言ったりしますが、要するに、縦、横、高さ(3次元なので)
があることです。1つでも2つでもいいんですが。
でもどれもないってことは物体である以上ありえないですよね。
どれもないものは、だから精神なわけです。

延長というのは物体が空間の中に存在する以上、必然のことであり、
空間を一定の量占めて、そこにあるという存在の形式でもあります。
デカルトはこれを実体「物質」の属性(本質)とします。
これはスピノザやロックも受け継いでいきます。

分かってしまうと何でもないことなんです。少なくともデカルトにおいてのみ言うなら^^;
ただいかにも専門用語!といった感じなので戸惑われるかもしれません。

「方法序説」なんかは薄いし、肝心のところさえ読めばすぐです。
意外と分かりやすいので、気になるようでしたらご一読を。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

大変解りやすいご回答、ありがとうございました!!
すごく役に立ちました(*^^*)。
また、お礼を言うのがとても遅くなってしまい、大変申し訳御座いませんでした
(>_<)

お礼日時:2001/10/15 00:35

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Qデカルトについて教えてください

哲学に詳しい方、暇な時に回答お願いします。
デカルトの言う「物質は延長である」というときの「延長」とはどういう意味なのでしょうか。入門書などを読んだのですがいまいち腑に落ちないのです。
「野球中継が30分延長した」とかいう時の「延長」とは違うのですよね。素人にもわかるように説明いただけますでしょうか。

Aベストアンサー

空間的広がりのことです。
デカルトの二元論において、物質は空間的広がりを持つもの、
精神は空間的広がりを持たないもの(思惟するもの)とされています。

もとの語はextensionですか。
「延長」という訳語は多少わかりにくいですが、
要するに、四方八方に延びているというイメージです。
野球中継は時間的に延びるわけですが、
ここでは空間的に延びる(というか、延びを持つ)ことを言っています。

Qデカルトの心身二元論について

デカルトは心と体は独立しているという考えでしたが、精神的に病んでいれば実際に体調も悪くなると思います。

これは心と体が通じ合っているということではないのでしょうか?そうすると心身二元論は成り立たなくなると思うのですが、どうなのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

> 精神的に病んでいれば実際に体調も悪くなると思います。

いやいや、そういう考え方が「精神」と「身体」を二元論的に考えている、ということなんですよ。

だって、一元論的に考えると、そもそも「精神」と「身体」を分けて考えることもなく「体調が悪い」とだけ言うではありませんか。

「精神的に病む」(原因)→「体調が悪くなる」(結果)
というふうに、原因と結果という脈絡で考える、その考え方そのものが二元論なのです。

わたしたちは身体とは別に精神というものがある、とどこかで考えています。
デカルトの登場した近代ヨーロッパばかりでなく、世界中で、大昔からそういう考え方は根強いのです。

デカルトが「心身二元論」の祖とされるのは、そういう意味とはちょっとちがいます。
デカルトは身体という実体と精神という実体とのふたつに切り離します。そうして、精神である心が主体、延長(※これはデカルトの用語で、「放送時間の延長」とかの意味とはちょっとちがう)である身体は客体と位置づけていったのです。
そうして、その心と身体の結び目を「松果腺」という脳の器官に置いたのです。

だから「精神的に病んでいれば実際に体調も悪くなる」というのは、デカルト的に言っても「無問題」なわけ。

このデカルト流の心身二元論というのは、わたしたちの考えのなかにも根強いものです。
わたしの体はわたしのもの、という言い方があるんですが、このとき「わたしの体」を所有している「わたし」って何なんでしょう? わたしの「心」? わたしの「脳」? ともかく「体」以外の何かが体を所有しているから、そういう言葉が出てくる。その発想が二元論なんです。

たとえば臓器移植なんていうことができるのも、身体の中の臓器を機械の部品のように考えているからそういうことができる、ともいえます。
あるいは「脳死」は人の死かどうか、という議論にしても同じです。

「人間は身体としてある」みたいな意識が哲学で出てきたのは、二十世紀に入ってからですからね。それでも、一元論的にとらえるのはなかなかむずかしいんです。

> 精神的に病んでいれば実際に体調も悪くなると思います。

いやいや、そういう考え方が「精神」と「身体」を二元論的に考えている、ということなんですよ。

だって、一元論的に考えると、そもそも「精神」と「身体」を分けて考えることもなく「体調が悪い」とだけ言うではありませんか。

「精神的に病む」(原因)→「体調が悪くなる」(結果)
というふうに、原因と結果という脈絡で考える、その考え方そのものが二元論なのです。

わたしたちは身体とは別に精神というものがある、とどこかで考えてい...続きを読む

Qデカルト『方法序説』は何が言いたかったのか?

 デカルトの『方法序説』を読みました。
疑問に思うのは、『方法序説』で彼は何が言いたかったのでしょうか?
 単なる自分の今後の予定と自分の自慢話を展開させているだけに思えたのですが・・・。
 自分としてはセカネの着眼点に関心しただけでした(セネカの本を岩波文庫は出版しろよ!と思ったり)。
 デカルトの偉そうな口調に耐えて、耐えて、疑問に思ったのですが、デカルトは医者だったのでしょうか?
心臓の仕組みに詳しくないですか?(デカルトが、『方法序説』の中で書いていた心臓に対する記述が正しいものかは不明ですが。)
 あの傲慢な口調からして見れば、「こいつ知ったかだろ。」としか思えないです、汗。

1・デカルトは『方法序説』を通じて、何を言いたかったのでしょうか?
2・何故、人間の身体の仕組みについて、あれ程詳しいのでしょうか?

Aベストアンサー

なるべく平たく書きます。高尚な考察ではない、俗っぽい文章であることをご容赦ください。


最初に余談ですが、我らがデカルト先生は
「疑うことを教えてくれたから、間違った理論を教えてくれた教師たちには本当に感謝してる」
というような趣旨の発言をしちゃう、元々からして嫌な奴です。
とはいえ、それを指し引いても偉そうな口調は自身を権威付ける第一歩であり
近代以前では当時ではごく普通の論調であると思います。
自信の無さそうな文を書いても誰も納得しませんよね。
最後は朝起きて講義しなきゃいけないストレスで早死にしたとも言われてますし
実際は繊細な人がそういうスタイルを演じていたのかもしれません。好意的過ぎるかな?




1:『方法序説』について。
従軍時代の経験から、4つの方法論(精神を導く基準)を導き出しました。
一言で言うと要は「疑え」。つまり「自分で考えて検証しろ」。
その上で信ずるに足る基準を見つけたのならば、それを変えないということです。
この方法論こそが、日本語訳のタイトルになっているんでしょうね。


この考え方で現在の数学の根幹部分を作り上げ人類史に名を刻んだデカルト先生は、
世界の学問の根幹部分である"哲学"に飛び込んでいきます。

真理を求め、数年の旅で世界を観察したデカルト先生はあることに気づいてしまいます。
社会が信じる基準とは絶対的な真理ではなく、みんなが広く認めている旧来の風習であると。
最終的には真理へ変えることが必要であっても、
今現在において「幸福な生活を送るためにはその国の習慣やルールに従う必要がある」
と考えるようになります。
最後に付記されているガリレオの話や、公表しなかった自身の「宇宙と光の考察」は
その端的な例であると言えます。


では、真理が世界に無いのなら、いったいどこにあるのか?
デカルト先生は驚くべき結論に達します。
その結論により人類という生物は最後の進化を遂げることとなったのです!



続きは「方法序説」でね☆




2;人間のしくみについて
もちろん、学生時代にも勉強していますが
デカルト先生は真理を探究する過程で、「自然科学」者と多くの交流を持っています。
現在の常識とはことなり、当時は現在「応用科学」に分類される医学であっても
その「自然科学」に含まれるのです。

当時の自然科学の探求者が物理学と医学の両方を修めているという例は普通のことです。
デカルト先生が最も影響を受けたという従軍時代に会った人物も、多数の学問を修めていました。

なるべく平たく書きます。高尚な考察ではない、俗っぽい文章であることをご容赦ください。


最初に余談ですが、我らがデカルト先生は
「疑うことを教えてくれたから、間違った理論を教えてくれた教師たちには本当に感謝してる」
というような趣旨の発言をしちゃう、元々からして嫌な奴です。
とはいえ、それを指し引いても偉そうな口調は自身を権威付ける第一歩であり
近代以前では当時ではごく普通の論調であると思います。
自信の無さそうな文を書いても誰も納得しませんよね。
最後は朝起きて講義し...続きを読む

Qデカルトの「物体の延長」

質問はタイトルについてなのですが、端的に言いますとデカルトの
延長に代わる物質のもっとも一般的な概念を考えてみたいのです。

デカルトは物体が占有する長さ・幅・高さを「物体の延長」と呼び、「私の存在」と同程度に理性が明晰判明に理解できるものだと考えたそうですが、このため真空の存在を否定することになりましたよね。
その後の科学の世界を踏まえた上での、上述の質問のような概念を今考えています。

皆さんのご意見をお聞きしたいです。

Aベストアンサー

回答になっているかどうかは、わかりませんが、参考までに、現在の物理学的な「真空」概念について。。。

1.物理学的に「真空」という概念は、以下に述べる概念に基づき、そこにおいて両側の世界が分断されるようなもの(たとえば「無」とします)ではない。
2.宇宙全体が一つの時空連続体として「存在」している「塊」として考えるなら、その内部にある「もの」を「完全に切り分けて」考えることは不可能。
3.なぜなら、二方向に分裂して飛んでいく量子は、「空間」を隔てて「まさに一塊」として扱われるべきであることが示されているし、
http://nucl.phys.s.u-tokyo.ac.jp/sakai_g/epr/
4.また、「真空」内部には無数の量子レベルの揺らぎが内在されている(たとえば、「カシミール効果」など)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%8A%B9%E6%9E%9C
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%A9%BA
5.さらに、エネルギー保存則など、「真空」であっても「物質内部」であっても、「時空連続体」内部の性質として記述可能な法則は、その基本に「対称性」があり、ネーターの定理と呼ばれる数学的な法則と密接に関連している。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa316948.html
6.したがって、「時空連続体」が分断されているような「無」が介在しているとすれば、その領域をまたいだ「対称性」は保たれ得ないが、「真空」と呼ばれる領域は、まさに、そういった「対称性」を保つような性質を含有する「空間」として「存在」している。

以上です。

回答になっているかどうかは、わかりませんが、参考までに、現在の物理学的な「真空」概念について。。。

1.物理学的に「真空」という概念は、以下に述べる概念に基づき、そこにおいて両側の世界が分断されるようなもの(たとえば「無」とします)ではない。
2.宇宙全体が一つの時空連続体として「存在」している「塊」として考えるなら、その内部にある「もの」を「完全に切り分けて」考えることは不可能。
3.なぜなら、二方向に分裂して飛んでいく量子は、「空間」を隔てて「まさに一塊」として扱わ...続きを読む

Qデカルト and self

今、self, individuality, subject, subjectivity について勉強しているんですけど、今回まずデカルトとselfについて質問があります。

デカルトはまず全てに懐疑的に考え、そこから『cogito ergo sum』に辿りついたと思いますが、彼は体と思考を本当に分けて考えたんでしょうか?彼は”meditation2”の中で蝋燭を論点として論述していますが、その中の一節でこのように述べています。

i comprehend, by the faculty of judgment alone which is in the mind, what i believe i saw with my eyes (Descrtes).

蝋燭に火を灯せば、やがてその物体は以前とは違う形に変わって行きますが、その残り(remain)から、私たちはそれが何であるか想像することができる、と述べた後のこの一節なんですが、”思考により理解する”また”目で見た物”とデカルトは述べていますが、”目で見る”行為はすでに五感の一つであり、これは体と思考の繋がりを述べているようにも思えるのです。デカルトは肉体と思考の関係(二元論)をどのように考えていたのでしょうか? またデカルトはselfとworldを分けて考えていたのでしょか?

今、self, individuality, subject, subjectivity について勉強しているんですけど、今回まずデカルトとselfについて質問があります。

デカルトはまず全てに懐疑的に考え、そこから『cogito ergo sum』に辿りついたと思いますが、彼は体と思考を本当に分けて考えたんでしょうか?彼は”meditation2”の中で蝋燭を論点として論述していますが、その中の一節でこのように述べています。

i comprehend, by the faculty of judgment alone which is in the mind, what i believe i saw with my eyes (Descrtes).
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Aベストアンサー

 端的に申し上げますと、デカルトの叙述自体は曖昧で、感覚は身体に属するとしながらも思惟が感覚を持つと述べることは珍しくありません。しかし、デカルトが辿り着こうとした結論が、思惟と身体(物体)とは別の実体であるという二元論であるということには、あまりブレはないと思われます。それは、デカルトが哲学に取り組んだ動機にあります。
 デカルトは、ガリレイなどと同時代の自然科学者であり、自然界を数学的原理に基づいて認識することができることを主張することをライフワークとしていました。しかし、自然界が数学的に観測可能なものであるためには、それが生き物のように不規則な変化をしない、という前提を要求します。すなわち、後の時代に「ラプラスの魔」と評されるように、自然界は、(人間の肉体をも含めて)数学的必然性と原因性とに支配されていなければならなかったのです。
 ところが、当時の自然界についての考えの正当な流れは中世以来のスコラ哲学であり、その考えに従えば、自然界は神の意志に充たされたものであり神の意志によって息づいていました。福音書の言葉で言えば、神の許しがなければ一羽の雀も地に落ちることはない(マタイ10:29)、ということになるのです。そのため、デカルトは自然の諸現象の説明原理から、物体に内在する意志とか魂のようなものを払拭する必要があったのです(また、デカルトよりも少し前の、ルネサンス期は、自然界を汎神論的に捉える神秘主義的傾向を強く有していたという問題もあります)。
 そのため、デカルトの、cogito ergo sum はデカルト自身の身体(物体)と思惟とを媒体にして物体と精神との分離を試みる考察をなしています。デカルトは、自分自身の身体が無かろうと疑っているかぎり思惟する精神は存在するのであるから、精神は物体とは独立に存在するとし、精神が物体とは別物であるならば、物体(身体)には何の精神的属性も、例えば、意志だとか欲求だとか思惟だとかいったものは属さない、とすることによって物体から精神的性質のすべてを除去することができると考えたのです。このような証明が果たして妥当なものかは、大きな疑問を残しますが、物体から精神的なもの全てを取り除くことによって、数学的要素、デカルトが重きを置くものとしては、特に幾何学的性質、すなわち、幅とか長さとか奥行きなどによって、自然界を精密に観測することが可能になると考えられていたのです。
 ですから、デカルトは、self と world とを、より厳密には、mental なものと corporeal なものとを分けて考えていましたし、少なくともそれらを分けて見せようとしていました。
 それゆえ、また、肉眼によって何かを見てそれが心の中に入ってくる、という立場は、基本的には、デカルトの存在論に反するものです(とはいえ、デカルトの研究には視神経がどのように脳に情報を伝えるのかを扱ったものなど、『省察』とは異なった性格の著作物もあります。私は、これらが、一体どのような企図からなされた研究なのかちょっと分かりません)。デカルトの認識論は、心の中に散在する様々な観念のうち、正しい観念とは何か、宇宙を忠実に再現(represent)している観念はどれなのか、を見出すことに終始しておりそれは一貫して心の中でのみ展開されます。
 示して下さったテクストのラテン語原文が手もとに無いのでちょっと自信がありませんが、英文テクストで指摘させていただくと、

what i believe i saw with my eyes

となっており

what i saw with my eyes

とはなっていないことがポイントです。つまり肉眼で何を見ていようとそれはどうでもよく、私が肉眼で見ていると「信じている」もの、心の中のものが認識の直接的な対象なのです。デカルトの立場に従えば、身体は身体で独自に感覚を持ちますが、それとは全く別に感覚についての観念が心の中でうごめいているのです。デカルトは、このような立場を支持する例として幻影肢すなわちケガや手術などで失った手足の感覚を持つという奇妙な現象を挙げていたと思います。すなわち、身体は感覚を持っていないのにもかかわらず、心はその感覚があるという観念を抱くのです。
 したがって、デカルトの理論によれば、自然界には魂を抜かれたパペット人形のようなものが練り歩いているのであって、その心はどこか別のところで自然界とは関係ない観念をあれこれと抱いているのです。このような結論は、あまりにも非常識で、デカルトという一人の人間が全面的にこれを支持していたとは少々考えにくいところがありますが、自然界を数学的に観測可能なものとして捉え直すというデカルトの哲学の動機に基づくかぎり、理屈上、物体(身体)の中に精神の諸属性を溶け込ませるわけにはいかなかったのです。
 そしてまた、この理論には、重大な欠陥がありました。それは、心の中において正しい観念を捉えたとして、それは、自然界とどう関わっているのか、それが自然界についての数学的な認識である以上、何らかの仕方で自然界と関わっているはずなのに、心と自然界とが完全に切り離されているとしたら、数学的な自然科学の基礎付けはやはり不可能になってしまうのではないか、という問題です。デカルトは、この問題を意識していた著作を残していなかったようです。それゆえ、これらの問題は、マールブランシュ(「すべての事物を神において見る」)、スピノザ(神という一個の実体の中での精神と物体という二つの属性)、そしてライプニッツ(予定調和説)といったいわゆる大陸合理論の大家に引き継がれていきます。なお、subject という哲学用語を今日のように「主観」「主体」の意味へと転換したのはライプニッツの業績です。それ以前は、subjective というと主観的なものではなく人間の思惟とは独立にある実体に関するものを指していたのに対し、objective というと客観的なものではなく人間の思惟に現れてくるものを指していました。

 端的に申し上げますと、デカルトの叙述自体は曖昧で、感覚は身体に属するとしながらも思惟が感覚を持つと述べることは珍しくありません。しかし、デカルトが辿り着こうとした結論が、思惟と身体(物体)とは別の実体であるという二元論であるということには、あまりブレはないと思われます。それは、デカルトが哲学に取り組んだ動機にあります。
 デカルトは、ガリレイなどと同時代の自然科学者であり、自然界を数学的原理に基づいて認識することができることを主張することをライフワークとしていました。し...続きを読む

Q世界観において 二元論と言ったら・・・

 他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。
 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。

 ▼ (ヰキぺ:二元論) ~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96

 (にげんろん、dualism)とは、

  世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。
  例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわちここで 単純に

  ▼ または二つからなる区分に分けられるとする

 という場合も二元論と呼ぶのだと言っているようです。けれどもこの場合というのは 二項対立とか二項区分あるいは双対と言ったりする場合なのではないでしょうか?


 すなわちもし 二つの事項があって互いに区別されているだけの状態であってもその二項について――つまり精神と身体 あるいは モノと心といったように互いに区別されている二項であるなら―― 二元論という用語で呼んでさしつかえないとするなら  けっきょくおよそ《ふたつのもの》は二元論になってしまう。
 というだけではなく じつはそれだけではなく  どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。のではないでしょうか?

 そんな一元論など 意味がない。はずです。すべてのものごとの根元をひとつだと見ることから 一元論と言うのであって 根元を問わない《ひとつのもの》が 一元だと――世界観において――言うなら へんなことになりませんか? そんな用法は無用にすべきではないでしょうか?

 他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。
 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。

 ▼ (ヰキぺ:二元論) ~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96

 (にげんろん、dualism)とは、

  世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分...続きを読む

Aベストアンサー

>《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。
誤読です。そんなこと言っていない。
たぶん、説明文を
(世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から
構成される、)または(二つからなる区分に分けられる)とする概念のこと。
と読んだからこういう結論になったものと思われます。
日本語文法上、こう読むことは可能だけど、そういう意図でかいたわけじゃないでしょ?
(世界や事物の根本的な原理として、)それらは<(背反する二つの原理や基本的要素から
構成される、)または(二つからなる区分に分けられる)>とする概念のこと。
と読めばよいだけ。日本語文法上、こちらの読み方も可能。というより、こちらが普通。

二区分に分ける場合も、根本的な原理で区分しないとなりません。
根本的な原理で区分したのだから、当然、勝手に統合することはナシです。
根本的な原理を統合したら、意味が変わってしまいます。

>どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。
そうですよ。そのとおりです。
でも、以下の意味であり、条件限定です。たとえば、
善悪二元論:行動Aと行動Bで、どちらが究極的に正しいかわからない。(最終で勝ったほうが善、なんだろうな。)
善悪一元論:行動Aと行動Bで、どちらが正しいかは最初から決まっている。(けれども、当事者はどちらが正しいか判明できない。)
この二つを同一視してよいような議論のたてかたであれば、二元論を一元論として述べても差し支えない。
(たとえば、ごく普通に倫理を語る(=二律背反を語る)とき。)
要するに、根本的な原理そのものを語るのではなく、根本的な原理が単なる前提条件となったとき。

ゆえに、結論。
>そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。
そんな用法は無いし、そんな用法を述べているという事実すら存在しない。

>《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。
誤読です。そんなこと言っていない。
たぶん、説明文を
(世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から
構成される、)または(二つからなる区分に分けられる)とする概念のこと。
と読んだからこういう結論になったものと思われます。
日本語文法上、こう読むことは可能だけど、そういう意図でかいたわけじゃないでしょ?
(世界や事物の根本的な原理として、)それらは<(背反する二つの原理や基本的要素か...続きを読む

Q原爆はデカルトがつくった?

原爆はデカルトがつくった、という言葉を聴きました。
デカルトの説いた合理主義、心身二元論といった言葉がキーワードになっているようです。

もちろん、原爆の理由をデカルト一人に帰すつもりはありませんが、
近代科学や近代資本主義に対して、デカルトがどういう役割を果たしたのか、教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

人類のあらゆる文明や文化で大局的に見て合理的でなかったものはありません。そんな一般的な歴史的経験の中で、ヨーロッパの中世の暗黒時代というキリスト教に毒された非合理的な経験は、特殊な事例だと思います。ですから合理主義であれば現在が出てくると言う主張は、何も情報を含んだ主張ではなく、人間なら現在の状況が出て来たという以上のことを言ってはおりません。従って、現在を理解するキーワードが合理主義であるはずがありません。

原爆に関しては、自然界を数学を使って記述しようと言う神懸かったことを言い出したことが、本質的に重要なことだと思います。この神懸かりは多分西洋文化を除いて、他の文化には出て来なかった不思議な視点だと思います。確かに、ピタゴラスがそのことについて触れておりますが、ギリシャも凋落し、アラビヤが辛うじてギリシャやローマの知的集積を細々と伝えていた状況でした。やはり、それより千数百年を隔てたガリレオの数学に対する神懸かりを待つしか無かったのでしょう。ガリレオがその当時知っていた数学は、現在日本で言う、足し算引き算掛け算割り算の算数と、幾何学と言う超初等的な数学だけでした。微分積分などの高度な数学は、ガリレオより数十年後に生まれたニュートンを待たなくては,生まれて来ませんでした。こんな未熟な算数しか知らないガリレオが、「数学は自然を記述する言語である」などと、ほとんど証拠もなしに言い出し狂気が、現在の技術と原爆への道を切り開いたのです。デカルトは、ガリレオの引いたレールの延長上を歩いていただけです。

また、近代科学と近代資本主義を並列に置くとは、何とも乱暴な対置ですね。例えば、現在の銀行制度のほとんど全ての制度が、戦国時代の堺の町で存在していたそうです。その堺人で知らなかった制度はクレジットカードだけでした。何故なら、その時代まだプラスティックが発明されていなかったからだ、という古典的なジョークがあるくらいです。

金儲けの資本主義制度と、科学的認識を一緒くたにするとは、何ともはや、乱暴と言うか、物の本質を見ていない見解ですね。経済活動は合理的でなくては出来ませんが、必ずしも科学的でなければ出来ないわけではありません。非科学的ではあるが合理的である社会の良い例が、現在のアメリカです。今現在アメリカ人の80%以上がダーウインの進化論を認めておらず、キリスト教の神による創造説を信じていると言う統計結果が出ています。しかし、アメリカ人は本質的にビジネスマンですので、彼らは大変合理的です。合理的でなければ,ビジネスは出来ませんからね。また、経済活動は軍事力の発展も促すのもであり、その結果、欧米が経済的にも軍事的にも覇を握っているのです。覇権を握っていることと、高度な知的文化を持っていることを混同しては行けません。

こと程左様に科学的であるとこと、合理的であることは,同じことではないのです。それなら何処が違うのか、質問者さんご自身でその答えを見付けて下さい。我々は、科学的な社会を目指しているのか、合理的な社会を目指しているのか、それともそれとは何か違った社会を目指しているのか、面白い問題ですね。

人類のあらゆる文明や文化で大局的に見て合理的でなかったものはありません。そんな一般的な歴史的経験の中で、ヨーロッパの中世の暗黒時代というキリスト教に毒された非合理的な経験は、特殊な事例だと思います。ですから合理主義であれば現在が出てくると言う主張は、何も情報を含んだ主張ではなく、人間なら現在の状況が出て来たという以上のことを言ってはおりません。従って、現在を理解するキーワードが合理主義であるはずがありません。

原爆に関しては、自然界を数学を使って記述しようと言う神懸かっ...続きを読む

Q運命論、宿命論、決定論の本を探してます。

運命論、宿命論、決定論の本を探してます。書店やネットでは参考になる本が見つかりませんでした。(タイトルだけでは内容が分かりませんでした)。ちょっと分かったことは、あまり考える必要のない分野だとか。そのことも踏まえて本を読んでみようかと思っています。詳しい方いましたら是非教えていただきたいです。おねがいします。

Aベストアンサー

まずは、
Wikipediaの「自由意志」の記述をご覧になってみては。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97

そして、そこに記されている参考文献などを手がかりにしてみては如何がでしょう?

ですが、手っ取り早いところでは、
 中村秀吉 パラドクス 論理分析への招待 中公新書
がよろしいのではないでしょうか。

運命論・決定論などについての記述があり、非常に参考になります。
結構、難しい本ではありますが、それでも、読み物感覚で読むことのできる良書ですよ。

Qチョムスキー「デカルトの問い」

ノーム・チョムスキー著
「Language and Problems of Knowledge: The Managua Lectures」
本書第一章、A framework for Discussionの中から質問です。
原書、訳書をもっておられましたら、ぜひご回答よろしくお願いします。
カテゴリーが英語、文学、科学…どれに当てはまるかわからず、 その他(学問&教育)で設定しました。


p.5~から「デカルトの問い」について記述されています。
我々が何を言い、なぜそう言うのかということに関係している「The production problem(発音に対する問い)」がデカルトの問いであり、それは我々が、言語使用の創造的一面とでも呼ぶモノを説明している。
(大雑把な解釈で申し訳ありません)
その後に、
Descartes and his followers observed that the normal use of language is constantly innovative, unbounded, apparently free from control by external stimuli or internal states, coherent and appropriate.
(訳:デカルトと彼の弟子たちは、通常の言語使用は制約がなく、斬新で、刺激や抑制から独立したものだが、それでいて、首尾一貫して状況にふさわしいものであることを発見した。)

とあります。
デカルトの思考は
「無生物の物体や生物の世界と人間の身体の作用のあらゆる現象は、機械のふるまいという観点から説明することができ、すべて機械の部分部分の振る舞いと外部環境から決定することができる」
(デカルトの身体論より引用)
ではないのですか?
これでは上記の文と相反する内容になってしまうと思うのですが…

デカルトの問いに関して、チョムスキーが何を述べているのかよくわかりません。
ご回答よろしくお願いします。

ノーム・チョムスキー著
「Language and Problems of Knowledge: The Managua Lectures」
本書第一章、A framework for Discussionの中から質問です。
原書、訳書をもっておられましたら、ぜひご回答よろしくお願いします。
カテゴリーが英語、文学、科学…どれに当てはまるかわからず、 その他(学問&教育)で設定しました。


p.5~から「デカルトの問い」について記述されています。
我々が何を言い、なぜそう言うのかということに関係している「The production problem(発音に対する問い)」がデカルトの...続きを読む

Aベストアンサー

チョムスキーがデカルトやフンボルトを援用したり、ソシュールやスキナーを批判すると、必ずその道の「専門家」に「それは違う」「そんな一面的な理解では話にならん」と言われるのですが。

ま、それはともかく。

デカルトにとって、人間は心臓を熱機関とする精巧な自動機械であると同時に、動物と違って精神をもっており、その意味で人間は単なる精神でも物体でもない第三の独特な世界を形づくっている、ということになります。

単純な「人間機械論」とは一線を画しているとは思いますが、私の専門ではないので、あまり深入りしないことにしましょう。

さて、チョムスキーが「言語使用は創造的だ」というとき、それは、「人はこれまでに見たことも聞いたこともない文を発することができるし、理解することができる」と言う意味です。

また、「言語使用に制限がない」とは、「人は無限の数の文を発する(理解する)ことができる」ということです。

とすると、人間の「心/脳」(mind/brain)の中に、全ての言語表現が収められているはずがない。では、「心/脳」には何があるのか? 無限の数の文を発する(理解する)ためのシステム、つまり文法である。言い換えれば、無限の言語表現を生成できる有限の計算機構である。

システム(文法)自体は一種の機械のようなものです。
これでつながりませんか?

チョムスキーがデカルトやフンボルトを援用したり、ソシュールやスキナーを批判すると、必ずその道の「専門家」に「それは違う」「そんな一面的な理解では話にならん」と言われるのですが。

ま、それはともかく。

デカルトにとって、人間は心臓を熱機関とする精巧な自動機械であると同時に、動物と違って精神をもっており、その意味で人間は単なる精神でも物体でもない第三の独特な世界を形づくっている、ということになります。

単純な「人間機械論」とは一線を画しているとは思いますが、私の専門では...続きを読む

Q急ぎです!哲学の授業の課題「真理とは何か?」について煮詰まってしまいました…!(>□<)ご意見ください!!

よろしくお願いします、哲学の授業の課題でかなり困っているのでご意見を頂けないでしょうか?(><)
授業で「真理とは何か?自分は真理をどう考えるか?」を考えて(哲学して)レポートにまとめよう!という課題です。レポートは2500字以上で、先生が求めているのは授業の確認(授業で習った真理説について改めてまとめるとか)ではなく私たちに「真理」について自分なりに考える事で「哲学」をして欲しいって事らしいです…(それが難しい!!)課題自体は私は結構面白そうだと思うし、2500字なのでなんとか書けるかな~と思ってたんですが・・・いざ書き始めるとどう展開して書いていけばいいのか全然分からなくて、まったく進められなくなってしまいました!!(>□<)もともと文章書くのは苦手ですし・・・
一応私が考えている「真理」は
・「真理」はあると思う、でも言葉で表すのは少し難しい
・真(本当の事、整合説とか)と「真理」は違うと思う
・存在の真理(ありのまま)説が一番近い気がする
という感じなのですが(大雑把でスイマセン・・・)、これをつまりどういうことか、とまとめていくのが難しくて…しかも「真理」の意味(?)について「でもこうとらえる事も出来るかなぁ・・・またこうも・・・」と考えてくとなんかキリがなくなっていっててなかなか結論を書けません!
どういう展開で書いていけば2500字分くらい論じられるのか・・・自分でもすごく考えたんですがなんか煮詰まってしまって質問させて頂きました・・・。どんな事でも良いので沢山ご意見頂ければ嬉しいです!よろしくお願いします!(><)

よろしくお願いします、哲学の授業の課題でかなり困っているのでご意見を頂けないでしょうか?(><)
授業で「真理とは何か?自分は真理をどう考えるか?」を考えて(哲学して)レポートにまとめよう!という課題です。レポートは2500字以上で、先生が求めているのは授業の確認(授業で習った真理説について改めてまとめるとか)ではなく私たちに「真理」について自分なりに考える事で「哲学」をして欲しいって事らしいです…(それが難しい!!)課題自体は私は結構面白そうだと思うし、2500字なのでなんと...続きを読む

Aベストアンサー

2500字も必要でしょうか?
私なら簡潔に一言書いて提出します。

「真理とは自然であると私は感じます。」

自然って?て聞かれたら口頭で説明しますがそれを書けといわれると、2500字じゃたりないかもw
じゃあもとい! もう少し補足しましょう。

「人間がそれを(真理)理解しようとしまいと、発見しようがしまいが
ずっとそこに在るもの。
つまり真理とは自然の法則がそれで、私たち個人のあり方によって形をその都度変えるようなものではなく、さりとて人間的な感情を持ち合わせるような類のものでもない。
人によっては真理という人もあれば、神と呼ぶ人もあり、その呼称は
信じる表現(宗教)によって様々である。
我こそ真理を見たり!!と叫ぶものあれば、あれは邪教だと誹る声もあり。しかしながら、真理とは異端の能力を持った人間のみに理解できるものではなく、また、それを信じる者と信じないものとを分け隔てるものでもない。
生きとし生けるもの、存在する全ての物に至るまで完全なる平等によって包むもの。
つまり真理である自然がそれである。
何人たりとも、またどんな僻地の些細な出来事においても自然の法則を逸脱して活動することはなく、完全なる数学的な正確さでもって絶え間なく営まれているのである。
完璧とはわれわれ人間が永久に到達し得ない概念としてある地点であるが、自然は完璧を備えている。
不完全である我々が、はたして完全を理解できるのであろうか?
自然が未だ神秘に包まれているのは、その所以だと私は思う。」

こんな感じ?

短いか^^;;

2500字も必要でしょうか?
私なら簡潔に一言書いて提出します。

「真理とは自然であると私は感じます。」

自然って?て聞かれたら口頭で説明しますがそれを書けといわれると、2500字じゃたりないかもw
じゃあもとい! もう少し補足しましょう。

「人間がそれを(真理)理解しようとしまいと、発見しようがしまいが
ずっとそこに在るもの。
つまり真理とは自然の法則がそれで、私たち個人のあり方によって形をその都度変えるようなものではなく、さりとて人間的な感情を持ち合わせるような類のもの...続きを読む


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