普おう戦争でプロイセンはオーストリアに勝ったのになぜ、北ドイツ連邦の中にオーストリアを組み込まなかったのでしょうか。よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

オーストリアを統一ドイツに組み込むというのは、オーストリア帝国を解体して、そのドイツ人居住地域(地域名としてのオーストリア)のみを統一ドイツに組み込むことです(大ドイツ主義による統一)。


というのも、NO.2の方がおっしゃるように、オーストリア帝国にはドイツ人以外の民族が含まれていたからです。
しかし、NO.1の方がおっしゃるように、オーストリア帝国を解体できるほど圧倒的に勝ったわけではありません。
そこで、小ドイツ主義による統一となったのです。

そもそも、ドイツ主義とは大にしろ小にしろ民族運動であり、多民族国家であるオーストリア帝国の王家にとっては危険なことでした。
大ドイツ主義であれば、それは帝国が解体されることですし、小ドイツ主義であっても民族主義の高まりはオーストリア帝国内の民族主義を刺激し、帝国の解体を誘発しかねないからです。
また、小ドイツ主義によるドイツ統一はプロイセンの強大化をも意味しましたから、やはり、いずれにせよドイツ統一はオーストリア王家にとって認められないことです。

オーストリア王家にとって、もっとも嬉しいのは、ドイツ地域にあっては緩やかな連合体の中で中心的地位を占め、ドナウ地域にあっては多民族国家の王室として君臨することです。
戦争に負けてしまいオーストリア王家は小ドイツ主義によるドイツ統一をしぶしぶ認めましたが、大ドイツ主義による統一を許すほど負けたわけではありません。
すなわちドイツ地域によるプロイセンの優位を承認し、自らはドナウ地域の王家であることに専念することにしたのです。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。当時のプロイセンとオーストリアの力関係や、他民族の動向など深く理解することができました。オーストリアが複合多民族国家ということも思い出しました。プロイセンに破れたオーストリアはバルカン半島に目を向けていったのですね。どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/10/19 02:56

s-wordさんは世界史を勉強中なのでしょうね。

とすると、ドイツ統一のところで大ドイツ主義と小ドイツ主義という言葉をきいたことがあるはずです。

単純に言えば、大ドイツ主義とはオーストリアを中心として(もちろんオーストリアを含めて)ドイツを統一しようとするものであり、小ドイツ主義とはプロシアを中心としてオーストリア抜きでドイツ統一をしようというものでした。

ここで、普墺戦争はドイツ統一の主導権を争うものであったことを忘れてはいけません。つまりこの戦争の勝利によってプロシアはドイツ統一の主導権を握り、オーストリアを排除することに成功するわけです。とすれば当然のことに、オーストリアを北ドイツ連邦に組み込むはずがありません。

なお、蛇足ですが、当時のオーストリアはハプスブルク帝国でもあって、ハンガリー(マジャール人)チェコスロバキア(チェック人とスロバキア人)などドイツ人以外の住む地域も支配していました。つまり、大ドイツ主義によりドイツ統一を行うと、ドイツ人以外の地域も含まれてしまうことになるのです。
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この回答へのお礼

>ここで、普墺戦争はドイツ統一の主導権を争うものであったことを忘れてはいけません。つまりこの戦争の勝利によってプロシアはドイツ統一の主導権を握り、オーストリアを排除することに成功するわけです。とすれば当然のことに、オーストリアを北ドイツ連邦に組み込むはずがありません。

なるほど、その点を忘れていました。そう考えるとプロイセンにとってオーストラリアは不穏分子だったんですね。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2001/10/19 02:50

戦争に勝ったから、相手の国を占拠する...戦争ってそんな簡単な問題では


ないんですよ。

当時のプロシャは、周囲に多くの敵国を抱えていました。
たまたまオーストラリアに勝ったのですが、あまり手ひどくやっつけすぎて
しまうと、こんどは別の国が警戒感を持ってしまいます。

例えば、プロシャの七年戦争では周囲の国全てが敵国となり当時のプロシャ軍
は大苦戦をするハメになりました。戦いに勝った後の戦後処置が悪いとこういう
事態を引き起こしかねないのです。
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この回答へのお礼

>戦争に勝ったから、相手の国を占拠する...戦争ってそんな簡単な問題では ないんですよ。
当時のプロシャは、周囲に多くの敵国を抱えていました。

なるほど、そういう事情が背後にあったんですね。領土を広げるより自国の国家建設に重点を置いたのですね。お返事ありがとうございました。

お礼日時:2001/10/19 02:46

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Qドイツ・オーストリア・ロシア(特にドイツ)はなぜ王朝がさかんだったのか

先進国は、何らかの民主化が早々起こってもいいはずだと思いますのに、なぜドイツは大戦まで革命がなかったのでしょうか?なにかフランスとかに比べて「いい王朝」だったのでしょうか。

Aベストアンサー

ドイツにおいても、ウィーン体制の頃に、何度か立憲制を求める革命騒ぎはありましたし、
さらに前の宗教戦争のころに起こった、ドイツ農民戦争は、
抜本的な社会変革を求めた革命であったと認識されています。
しかし基本的にはイタリアと同じで、ドイツは統一されていなかったというのが
第一の理由です。統一と国民国家の成立が非常に遅かったんで、
イギリスやフランスのごとき民主主義の進展が阻まれたというだけに過ぎません。
いい王朝だったというのは全く逆で、ドイツが細分化され、分裂し、
旧態依然としたローカルで中世じみた支配体制だったということ。
要するに後進的だったのです。
特に東に向かうほどドイツでは後進性が酷く、農奴制に近い社会が残っていました。
君主や領主の絶対的な権力が強く、軍隊も人民を抑圧する道具として機能していました。
人民の意見は武力で容易に弾圧できたわけで、いい王朝どころか
ドイツ地方の各政府は強圧的な政府ばかりだったといえます。
特に代表的なプロシアは、厳しい厳罰主義が軍隊と人民を支配していて、
18世紀の前半から軍国主義をとっていたので、民主化の芽はすべてももぎ取られていたというわけです。
大戦後にドイツで革命騒ぎが頻発するのは、実際、ドイツ政府の権力が弱体化したからに過ぎず、
民主勢力に対する圧力が弱まったので噴出すようにそういった運動が動き出したということです。
ま、現実的にはどれも成功しませんでしたが。

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Qプロイセンが生まれ変わって東ドイツ…?

プロイセンが生まれ変わって東ドイツ…?

つい最近、ネット上で『旧東ドイツはプロイセン公国の生まれ変わりで、ドイツ連邦共和国は神聖ローマ帝国が成長した姿』と主張される方々をちらほら見かけるようになったのですが、何が起きているのでしょうか?
私は世界史が苦手で、日本史ばかり勉強していたのであまり知識が深くないのですが、高校のときに使っていた世界史用の地図帳を改めて見ると何だか位置がずれているような気がしてモヤモヤしてしまいます…。

Aベストアンサー

 東ドイツとプロイセン公国に直接の関係はありません。
 
 中世以来、領邦国家の連合体であった神聖ローマ帝国ではハプスブルグ家を中心とした大ドイツ主義による統一がナポレオン戦争によって破綻した後、プロイセン公国から発展したブランデンブルグ・プロシア王国を中心とした小ドイツ主義が有力となり、最終的に普仏戦争でナポレオン3世に勝利したプロシア王国は占領下のパリでドイツ帝国の成立を宣言しました。要するに統一ドイツ帝国の母体となったのがプロシア王国です。
 このドイツ帝国は第一次世界大戦の敗戦で崩壊し、ワイマール共和国が成立しましたが、敗戦国ドイツはポーランドに領土を割譲する形で西に追いやられました。この時、旧プロイセン公国のあった場所は縮小された上に、いわゆるポーランド回廊によって分割されてしまいました。
 さて、敗戦により過酷な賠償を課せられたドイツのワイマール共和国では戦後のベルサイユ体制に対する不満が高まり、それに乗じてヒトラーが政権を取り、第三帝国が始まりました。しかし、やけくそに世界戦争を始めたドイツは結局はまたしても敗戦の憂き目に会い、今度も東方領土を大きく削られ西に追いやられました。
 プロイセン公国発祥の地はソ連に割譲され、今なおロシア共和国の飛び地として存在しています。そして、独ソによる第2次ポーランド分割でソ連が割譲した分だけポーランドが西に追いやられたので、その分だけドイツの領土が削られています。よってドイツ統一前のプロイセンの領土の多くは現在のロシア領とポーランド領にあることになります。
 東ドイツは、西に追いやられて残ったドイツ領のうち、英米仏ソの四カ国で分割占領したうちのソ連の占領地域が独立したものです。ちなみに首都ベルリンも四カ国に分割占領されていたので、周囲を東ドイツ領に囲まれる西ベルリンは冷戦下では陸の孤島でした。もっとも、ベルリンは冷戦下では占領を解かれていないので、ずっと四カ国の占領下のまま(東ベルリンは違うかもしれないけど)で、それが解かれたのは東西ドイツが統一してからです。

 ちなみに、ドイツでは戦争はナチスが勝手にやったことになっているので、反省もしていないし、連合国との講和もしていません。ナチスの国家が崩壊したところを連合国が占領して、そこから新たなドイツ国家が独立したというのが建前なので。


>『旧東ドイツはプロイセン公国の生まれ変わりで、ドイツ連邦共和国は神聖ローマ帝国が成長した姿』
 
 以上のように、東ドイツとプロイセン公国には何のつながりもありませんし、西ドイツにしたって敗戦に継ぐ敗戦で旧神聖ローマ帝国の版図のごく片隅に追いやられてるだけの姿を見て、どこが成長しているのかわかりません。

 

 東ドイツとプロイセン公国に直接の関係はありません。
 
 中世以来、領邦国家の連合体であった神聖ローマ帝国ではハプスブルグ家を中心とした大ドイツ主義による統一がナポレオン戦争によって破綻した後、プロイセン公国から発展したブランデンブルグ・プロシア王国を中心とした小ドイツ主義が有力となり、最終的に普仏戦争でナポレオン3世に勝利したプロシア王国は占領下のパリでドイツ帝国の成立を宣言しました。要するに統一ドイツ帝国の母体となったのがプロシア王国です。
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Qドイツ連邦

ウィーン会議後に成立したドイツ連邦の境界は、
オーストリアのおおよそ西半分のみがドイツ連邦に組み込まれているのですが、
オーストリアの国境と完全には一致していないのは何故なのですか?

Aベストアンサー

ウィーン会議の目的は、「革命前の状態への復帰」が名目でした。ですから、革命中に滅亡した神聖ローマ帝国も復活させねばならず、結果としてドイツ連邦は神聖ローマ帝国とほぼ同じ領土となりました。

その結果、オーストリアの全土が組み込まれていません。
(正確に言えばプロイセン王国も全土が入っていません)

そもそもこの「ドイツ連邦」というのはドイツを統一させるものではありません。

むしろその逆で、会議ではイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアの勢力均衡をはかることも原則とされたために、実際のドイツ連邦というのはいわば、プロイセンとオーストリアがヨーロッパ中央部での覇権争いを抑止するための人工的な勢力均衡の枠組みでした。
(プラス、保守反動体制(ウィーン体制)による、ドイツ統一を防ぐ役目)

ですから、上記の、神聖ローマ帝国の復活と言うのは全くの名目でした。

その後、オーストリアを破ったプロイセンによってドイツが統一されるのはご存知の通りです。

Qドイツとは…?(プロイセンとの違い)

歴史の教科書を読んでいると、ドイツという国が生まれたという記述なしに「ドイツ」という表記が出てきます。

たとえば、ナポレオンとの戦いに敗れたのがプロイセンだと書かれながらすぐ下で
(ナポレオンとの)「戦争の敗北で自信を喪失したドイツ人に対して、哲学者フィモテは「ドイツ国民に告ぐ」という講演でドイツ人の愛国心情を鼓舞した。」(改訂版 詳説世界史研究、山川出版、2009年、P352)

とあったり、いきなり「ドイツ統一運動」という言葉が出てきます。
世界史は苦手なので記憶違い、読み飛ばし等々あるかとは思いますが、ドイツとは一体いつできた国なのでしょうか?
ドイツの正式名称はドイツ連邦共和国ですが、様々な民族の集合体をドイツというなら、そのドイツという概念はいつ生まれたのでしょうか?また、プロイセンの敗北がドイツ人の敗北とイコールになるのはなぜでしょうか?

下手な説明で申し訳ありませんが、ドイツとプロイセンの違いを説していただけたらと思います。

Aベストアンサー

ドイツというのは神聖ローマ帝国から、オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・リヒテンシュタイン・スイス・イタリア・オーストリアなどが離脱していった残りの部分といった概念です。厳密な説明は避けますが、大雑把にいえばそういうことになる。神聖ローマ帝国はその末期には国としての実態がなく、実際は封建領主の集まりみたいになっていました。名目的にはハプスブルク=ロートリンゲン家のフランツ2世が神聖ローマ皇帝でしたが、ナポレオン戦争の時代に、弱小封建領主がライン同盟を結成し、ナポレオンを盟主と仰いで、帝国からの離脱を宣言して、それを受けてフランツ2世が帝国の解散を宣言します。こうして19世紀初頭に神聖ローマ帝国は名実共に滅亡してしまいます。

『ドイツ国民に告ぐ』で有名なフィヒテはライン同盟に参加したザクセン王国で生まれたドイツ人です。『ドイツ国民に告ぐ』として知られる演説が行われたのは神聖ローマ帝国が解体して、プロイセン・オーストリア・ライン同盟(ナポレオン配下)といった具合に三分割された時のことなのです。

ドイツは様々な民族の集合体ではありません。東フランク王国の時代は様々な民族の集合体だったといえるけど、その後の歴史によってドイツ人という民族的アイデンティティを持つようになったのです。

念のため付け加えれば、オーストリアは多民族国家でした。オスマン帝国の脅威に対抗する為にチェコ人、スロバキア人、ハンガリー人などがドイツ人であるハプスブルク家の支配に服したといった国がオーストリアでした。

ドイツの歴史は滅茶苦茶煩雑なので、ここでは極めて大雑把な説明に留めていることを理解してください。

19世紀後半になると分裂していたドイツに統一の機運が生まれるのですが、異民族を含むオーストリアも含めた統一ドイツにするのか(大ドイツ主義)、オーストリアを除外したプロイセン王国と旧・ライン同盟諸国だけで統一ドイツを結成するのか(小ドイツ主義)という議論が起こります。

元々オーストリアは神聖ローマ帝国に関係なく、ハプスブルク家が帝国の領域外に領土を広げてチェコ人、スロバキア人、ハンガリー人などを抱え込んだから話がややこしくなっている訳です。

オーストリアを除外して、統一ドイツの盟主となりたいプロイセン王国は小ドイツ主義を唱える。統一ドイツの盟主になりたいオーストリア帝国は大ドイツ主義を唱える。旧・ライン同盟諸国は小ドイツ主義派と大ドイツ主義派に分かれて、それぞれプロイセン支持、オーストリア支持に回ります。その対立が普墺戦争に至った理由な訳です。

とりあえず説明はここまで。まずいっておきたいのは教科書も参考書も滅茶苦茶大雑把な地図に過ぎないといったことです。教科書は、ユーラシア大陸、アフリカ大陸、アメリカ大陸ぐらいしか記述されていない、いい加減な地図みたいなものなのです。教科書は勉強の取っ掛かりにはなるけど、そんなものを何回読んだ所で、絶対的に歴史など分かるわけがない。教科書を取っ掛かりにして後は自分で細かいところを調べて補ってください。それは私の回答についても同じです。それが歴史の勉強です。

ドイツというのは神聖ローマ帝国から、オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・リヒテンシュタイン・スイス・イタリア・オーストリアなどが離脱していった残りの部分といった概念です。厳密な説明は避けますが、大雑把にいえばそういうことになる。神聖ローマ帝国はその末期には国としての実態がなく、実際は封建領主の集まりみたいになっていました。名目的にはハプスブルク=ロートリンゲン家のフランツ2世が神聖ローマ皇帝でしたが、ナポレオン戦争の時代に、弱小封建領主がライン同盟を結成し、ナポレオンを盟...続きを読む

Qウィーン体制で成立したドイツ連邦について

ドイツ連邦について教えてください。

ドイツ連邦は、自由主義を弾圧する一方で、ドイツ統一を抑圧する機関でもあった、
という説明がいくつかの書籍に書かれていました。

しかし、統一をしないのであれば、単にオーストリアもプロイセンも、そのまま独立
国家として存在するのがいちばん手っ取り早いような気がします。

もともとは、大国の勢力均衡を現出するために作ったのが、たまたま後付けで、
ドイツ統一を抑圧する機能をもったということなのでしょうか?

また、後の経緯からもわかるように、プロイセンもオーストリアも一国にまとまった
ほうがドイツ民族としては有利な状況を作れたはずです。他国が反対するのは
わかりますが、なぜこの両国は自ら統一に反対したのでしょうか?

おわかりの方、ご教示ください。

Aベストアンサー

1815年6月8日に成立したドイツ連邦規約では
連邦の権限はドイツ内外における安全保障にかかわる措置のみに限定され
他の全ての権限は各領邦国の主権に委ねられました
フランクフルトに連邦議会、ウィーンに仲裁裁判所は設置されたものの
連邦自体に立法権も行政権もありません
しいていえば連邦規約第13条で各領邦国で議会制を施行するべしとしたところが進歩的であっただけでしょうか
ある歴史家によるとドイツ連邦は「対外的に弱小で対内的に半身不随」と述べています

多民族国家であるオーストリアはネイション的な国民国家の成立を恐れていましたが
19世紀前半のドイツ人が大多数のプロイセンの場合は国民国家成立よりは
ジャコバン的急進的革命国家の成立を王族やユンカーが恐れていたのが実情ではないでしょうか

ただここで間違ってはいけないのはあくまで政治上の話だけです
経済的には
プロイセン中心のプロイセン・ヘッセン関税同盟、ザクセン中心の中部ドイツ関税同盟、バイエルン中心の南ドイツ関税同盟が
オーストリアのメッテルニヒの反対を押し切り
1834年プロイセンが主導しドイツ関税同盟を成立させ域内関税、市場統合、労働力原材料の自由移動という
後のEECを先取ったような共同市場を成立させドイツ産業革命の基礎を作りました
安価な英国製品の入るメクレンブルクなど海岸地帯領邦国、都市や
統一的な中央行政組織による指導を望まないフランス国境のバーデン大公国を除き全ドイツ領邦国がドイツ関税同盟に参加しました
態度を変えこれに参加しようとしたオーストリアを最終的に1854年に排除

つまりこと経済的には既に政治的統一以前の約20年前に小ドイツ主義的統一はなされていたのです
これが統一間もないドイツ帝国の英国を凌ぐ経済的発展をもたらした要因の一つです

長文失礼致しました

1815年6月8日に成立したドイツ連邦規約では
連邦の権限はドイツ内外における安全保障にかかわる措置のみに限定され
他の全ての権限は各領邦国の主権に委ねられました
フランクフルトに連邦議会、ウィーンに仲裁裁判所は設置されたものの
連邦自体に立法権も行政権もありません
しいていえば連邦規約第13条で各領邦国で議会制を施行するべしとしたところが進歩的であっただけでしょうか
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