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こんにちは。
終戦後、進駐軍として米軍が日本本土に最初に
降りた場所(飛行場)は厚木飛行場です。
この厚木に決まった理由と背景を教えてください。

A 回答 (6件)

一番首都東京に近い飛行場だったからじゃないですか?

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当時、首都に一番近い飛行場は厚木飛行場ではありません。



決まった理由は、きわめて専門的な文書の検証が必要なため、ここで明確な回答は得られないでしょう。

考えられる範囲では、
・厚木飛行場には海軍の参謀本部があり、主戦力のあった 基地だから。
・横須賀にも一大海軍基地があったが、主戦力というより、研究機関的な基地だった
・厚木基地はB29をもっとも撃墜した基地で、終戦後も一部の将校たちが反乱を起こし、最後まで戦う姿勢を見せました。屈強な兵どもを抑えるという意味でも厚木になった、と考えられる。
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マッカーサーが厚木に降りた後、最初に仮設司令部を置いたのは横浜だったそうです。

理由としては、日本国内の治安状態に未だ不安があり、すぐに東京に入る事を恐れたからだそうです。
そうなると、GHQが最初に入る場所の条件として以下の三点を考慮したと考えられます。
・東京に至近だが都下では無い。
・大規模な人員の収容能力があり、通信設備も確保出来る都市(横浜)がある。
・大規模な補給線を確保出来る飛行場設備(厚木)と港湾施設(横浜、横須賀)がある。
上記の条件を考慮した結果では無いでしょうか。首都近辺でこの条件を満たす地域が他にありませんので。

ついでに言うと、横空の飛行場は大型機による大量輸送に使うには一寸手狭ですし、首都圏における海軍の本拠地(軍令部は日吉でしたが実施部隊の拠点としては最大ですね)ですから、ここにいきなり降りることはマッカーサーも憚ったのではないかと考えます。
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厚木飛行場を選択した理由は、


ここから多くの迎撃機を送りだしてB-29を迎え討っていた訳なのですが、

飛行場の占領(完全に制圧した)
これを日本国民に深く理解させる目的が目的です。

このマッカーサーの姿を新聞で見ると、
サングラスにコーンパイプ。

多くの国民が、このラフな姿を見て、
「国土を占領された」
「物資、考え方が全く違う。」
この現実を痛感した訳です。

更に、天皇と一緒の写真を取る事により、

旧憲法の、天皇は神である。を否定し、
天皇は人間であり、
現在の法律で言う「象徴(代表)である」
これ浸透させる狙いがありました。

戦後、米軍に対する暴動やテロリスト、反米運動などを抑え付け、スムーズに戦後処理が進むように、
巧みに国民感情を操作して治安維持図ったのでしょう。

戦後の食料の配布などは、米軍でなくユニセフが行ったのですが、米軍が配ったと勘違いしている方が多いようです。

もちろん、米兵も、自費でガム、チョコレートを購入して子供に必死で配ったようです。
食事も自分は半分にして残飯を分別して日本人への配布に協力したようですが、
全国に配布するに至らず、ユニセフの力を必要としました。

米軍無しで日本の再建はあり得ない。
こう国民に納得させて行きました。
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マッカーサーの司令部は最初、横浜のニューグランドホテルに置かれました。


マッカーサー専用機は愛称が「バターン」号と言いました。
フィリピンのバターン半島から名付けられたもので、戦時中、アメリカ軍捕虜が数百キロの距離を歩かされ1万人近くの死者がでた地名です。アメリカ軍にとっては屈辱と復讐を誓った名前です。

マッカーサーは陸軍の軍人ですから、海軍のニミッツに気をつかったのか船で乗り込む事はしませんでした。
あるいは「バターン」号を見せつけるために飛行機で乗り込んだのかもしれません。
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参考になるサイトがありました。



参考URL:http://fdr.nifty.com/info/2005/08/post_7bd7.html
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