
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
武士の次三男は養子の口がなければ厄介ということで兄の世話になるしかありませんでした。
ごくたまに運がよければ新規お召抱えの口があって召抱えられることもありました。
大身の旗本や大名であればごくたまには分知ということで所領の一部をわけてもらうこともありましたが、これは江戸初期を除けばほとんど望めませんでした。
そのためよい養子の口があるように次三男は長男(嫡子)に比べて武道や勉学に励んだとも言われます。
農民の場合も跡継ぎ以外は跡継ぎの世話になる厄介でしたが、こちらは町へ奉公に出たりすることが多く、また田畑の一部をもらって分家させてもらったり、新田開発などに応募して新たに家を起こすことも可能でした。
この回答へのお礼
お礼日時:2005/08/31 06:52
ご回答ありがとうございます。
嫡男と部屋住みとでは天と地の差だったのですね。
同じ次男三男でも身軽な農民の方が生きやすかったかもしれないのですね。
No.4
- 回答日時:
武士でも町人に転職する者は少なからずおりました。
有名なのは近松門左衛門(諸説あり)などですが、井原西鶴の「好色5人女」に出てくる源五兵衛という両替商も武士の息子から両替商に養子に入ったと言う設定です。
町人からお金の力で武士になる(勝海舟の祖父)者もいれば、武士に見切りをつけ町人になる者もいました。
一説には武士出身で町家に婿入りした者は礼儀作法がしっかりしてると歓迎されたとか。
ただ武士の場合、お金を扱うことを下賎と蔑む風潮があり、福沢諭吉など幼い頃は顔を隠して買い物に行くよう兄に言われたと供述しています。(武士がお金を持つことは恥じ)
その為、出身を大ピらにはしなかったのでしょう。
No.3
- 回答日時:
武家の家督相続は、常に嫡男が相続したとは限りません。
父親の仕事を世襲するケースが一番多いのですが、その仕事にふさわしい二男、三男に相続させた例も多くあるようです。で、ご質問の趣旨は、相続しない子弟達がどこに行ったか、ということだろうと思います。その意味では、(1)冷や飯食いの居候、(2)ごく希に、新しい仕官の道、くらいではなかったかと思います。
新しい仕官の道は、算術・会計、剣術指南などの特殊技能を必要とする仕事については、世襲ではできないと言うことになると、他から求めたようです。こういうときに、新しい仕官の道ができる可能性があります。
農家の次男三男は、奉公に行きます。5年の年期奉公、つぎの5年のお礼奉公を経て、手代、番頭と出世する道がありました。
奉公ではなく、職人になる道もありました。関東の人が上方にいったり、その逆もあり、人の流動性は、ある程度はあったそうです。
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