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なぜ無嗣改易という事態がたくさん起こったのでしょうか?
大名や家老は万一に備えてそういった危機管理をしていなかったのでしょうか?
藩主にたとえ弟がいても、相続を認めなかったのは何故でしょうか。

A 回答 (2件)

跡継ぎがいないというのはまともに奉公するつもりがないということで、子や弟がいてもちゃんと届け出ていなかったり、幕府から跡継ぎと認められていない場合は、跡継ぎがいないということであつかわれました。


本音としてはできるだけ外様大名を減らしてしまおうということですが、この原則は外様だけではなく譜代やご家門にも容赦なく適用されました。
また、跡継ぎがいても幼少の場合は要地はまかせられないとして国替えされたような場合もたくさんあります。
大名の側もそういう事態を避けようとはしましたが、当主がまだ若い場合は子供が生まれる可能性があれば下手に養子をすると、実子が生まれた場合に養子と実施の間での争いが起きたり、あるいは誰を養子にするのかで重臣間で勢力争いになったりして、それが原因でお家取り潰しになったりした例もたくさんありますのでそう簡単にはいかないということもあったようです。
なお、無嗣断絶の場合でも、大名の地位は失ったものの弟や近縁の者が名跡相続を許されて旗本になる例はたくさんあり、3000石以上の旗本には取り潰された大名家の名跡を継いだ家もたくさんあります。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
姫路藩は幼少を理由に頻繁に国替えになっているようですね。
子どもが生まれるのが先か、藩主が亡くなるのが先か、その見極めが大切だったのですね。

お礼日時:2005/10/04 07:54

幕府は外様大名(いつ敵になるか判らない)を減らす為に、藩主が死んだ時点で嗣子がいなければ取り潰すという武家諸法度のルールを厳格に適用したようです(弟まで認めていては、それだけ潰すチャンスが減るということです)。


嗣子がいない場合の危機管理としては養子制度を利用するしかなかったわけですが、早めに養子を決めても、その後万が一嗣子が生まれた場合の混乱(お家騒動)を危惧して後手にまわることが多かったようです。
その後幕府は、大量の浪人発生に手を焼き、由井正雪の乱以降「末期養子(藩主の死後養子を決めても、生前から遺言で決めてあったと幕府に届けること)」という抜け道を認めたとのこと。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
改易になった家の家臣は堪らないですね。

お礼日時:2005/10/04 07:51

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