いつ世界のどこでお菓子が食べられるようになったんですか?教えてください!!

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A 回答 (4件)

 日本のお菓子の歴史


http://www.mars.dti.ne.jp/~zenkaren/history/reki …
http://www.meikatanbou.com/chi_/chi_r/chi_r.htm
http://www5b.biglobe.ne.jp/~okasiya/rekisi.htm
 世界
http://www.kurata-net.co.jp/faq2/faq.html
によりますと、パンと菓子の区別がされたのはギリシャ・ローマ時代になってからです。記録によれば紀元前200年頃には72種類の菓子が作られており結婚式にはゴマと蜂蜜で作った婚礼の菓子あったそうです。
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「菓子」の定義をどうするか.で別れますが.


たとえば.乳酸菌発酵食品を全部ひっくるめて.チーズといえば.日本では平安時代から食べられています。自分自身で.「チーズ天皇」と名乗った人もいました(普通.天皇の呼び方は死後つけられるのが普通ですが.このチース天皇はみずからをチーズ天皇と呼ばせました)。

古くからある和菓子一つは.ようかんでしょう。漢字の「羊羹」のとおり.これは羊の肝臓を模倣した食品で.禅寺で開発された(中国からの輸入かもしれません)ものです。
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ko-ko-seiさんが先ほど質問された内容と重複しているものと考えてお答えします。



主食、副食、菓子、と、食事が分類される前から、人間は、今で言う「お菓子」への願望が強かったのではないかと思われます。

お菓子の元祖は、その漢字から想像されるとおり、果物です。日本でいえば、柿が、長い間果物の王様として君臨してきたようです。やはりその甘味。糖分が今のように簡単に取ることができなかった頃、果物は、手軽に採取できる糖分として、重宝されてきたはずです。干し柿など、そのおいしさを保存しておきたい人間の知恵の産物だと思います。それこそが、お菓子へのスタートだったのでは?

ただ、やはりこういうものはほとんどが保存食ではないし、日常の食事とは性格の違うもの。そんなわけで、主に間食のもの、臨時のものとして位置づいたのではないでしょうか。

今でこそ、辛いもの、化学調味料もののスナック菓子が主流となっていますが、もともとは人間が、果物を取って食べたものを、菓子の源流と考えるのがよいと思います。
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ここでお菓子の歴史を書くつもりはないのですが終戦後、昭和21年頃何もない時は[お菓子]まで手が廻らなかった人々も多く


食べるのがやっとだったという事は、人類の歴史でも余裕がない内はそこまで考えられなかったと思います。

小林亞星氏が何かに書いていましたが、集団疎開の頃お腹がひもじくて先生の目を盗んで[わかもと]や[EBIOS]をオヤツ代わりに
盗み食いをしたら、消化がよくなって余計腹がすいた困ったと言うのです。。。(私も経験ありですが・・・!)

何か一工夫するという意味では主食以外の歴史は古く、奥が深いとは思いますが発掘遺跡の栗や胡桃がお菓子の始まりに繋がるか
どうかは今後の研究を待たなければ、いつ頃何処で始まったかという[菓子の歴史]は解明されないでしょう。。。
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Qいつから日本人は白米を食べるようになったのですか?

こんばんは。
いつから日本人は白米を食べるようになったのですしょうか?

Aベストアンサー

>白米
米ではなく、糠の部分を完全に除いた精白米(現在、普通に食べているご飯)という意味なら、

 江戸時代に、「江戸患い」(現在の脚気)という病気がありました。これは、江戸の富裕な商人にあった病気で、米を精白して、マズイ糠の部分を食べなくなり、ビタミン不足になったからです。逆に言えば、民衆は、精白米を食べていなかったというわけです。
 幕末の米の生産高は、1700万石。人口は、3000万人くらいいました。年間の一人の消費量は1石なので、平均で言えば、米だけでは必要量の半分くらいにしかなりません。ですから、麦や雑穀、芋などを混ぜないと、必要カロリー量が満たされません。

 日露戦争で、日本の陸軍兵士は、脚気で倒れました。兵隊の志願者の最大の楽しみは、「白いごはん」。これも、白いごはんは、一般化されていなかった、というこてず。
 そこで、脚気の潜在患者です。脚気で死んだほうが、鉄砲に撃たれたよりも多いとか。海軍は、脚気にならなかったのは、パン食を取り入れたからです(吉村昭「白い航跡」)。ちなみに、脚気菌のようなもの(存在しない)を提唱したのが、ドイツで細菌学を学んだ陸軍医学の責任者の文豪・森鴎外だったとか。

 亡くなった父(農家出身、大正5年生れ)は、「戦前は、麦を混ぜたご飯が当たり前。正月の餅も、真っ白な餅は、1割か2割程度だった」と話していました。お年寄りに訊かれては。
 というわけで、国民が白いご飯を食べられるようになったのは、戦後でしょう。

>白米
米ではなく、糠の部分を完全に除いた精白米(現在、普通に食べているご飯)という意味なら、

 江戸時代に、「江戸患い」(現在の脚気)という病気がありました。これは、江戸の富裕な商人にあった病気で、米を精白して、マズイ糠の部分を食べなくなり、ビタミン不足になったからです。逆に言えば、民衆は、精白米を食べていなかったというわけです。
 幕末の米の生産高は、1700万石。人口は、3000万人くらいいました。年間の一人の消費量は1石なので、平均で言えば、米だけでは必要量の半分くらいにしか...続きを読む

Q世界地図の最新版を購入したい!いつのが最新?

世界地図の最新版を購入したいと考えていますが、
いつ製造されたものなら最新と呼べるのでしょうか。

Aベストアンサー

2~3年たつと結構かわってたりしますが、
主要国に関しては領土とかあまりかわりませんので
何年か前のでも問題ありません。

東ティモールとかセルビアモンテネグロとか
考えると2003年以降がよいでしょうね

Q日本人が白米を食べるようになったのはいつから

日本人が白米を食べるようになったのはいつごろからでしょうか?
弥生時代は赤米、黒米だったようですが、
白米が生産されるようになったのはいつでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 古代米と白米という意味の質問であれば、白米が生産され始めたのは奈良時代のようです。
 江戸時代の中期までは赤米も多く作られていたようですが、年貢としての価値が低いことと、生産量が少ないため、だんだん作られなくなりました。
 特に明治以降は生産量向上の為、政府が白米作りを奨励したため、今日ではほとんど作られなくなりました。

http://agrin.jp/hp/q_and_a/akamai.htm

 玄米と精米という意味では#2の方も言っていますが、江戸時代に江戸で白米を食べることが流行し、それがだんだん全国に広まって行ったようです。
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明治9年の呉淞鉄道です。
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Q日本人で初めてキムチを食べた人は、誰でしょうか。いつ頃食べ、どのような

日本人で初めてキムチを食べた人は、誰でしょうか。いつ頃食べ、どのような感想を残したのでしょうか。
当時(いつ頃かわかりませんが)の日本人がどのような感想をもらしたのか、大変興味があり、質問するものです。

Aベストアンサー

 ここで質問者様がおっしゃるキムチは、多くの日本人が「キムチ」と聞いた時に頭に浮かべるあの、白菜をとうがらし・塩などで漬けた赤いものを指していることでしょう。

 キムチが誕生した日本で言う江戸時代に、日本から朝鮮に海難のため流れ着いた漂着民たちがいました。今までの研究では1618年からの約250年間で、約1,200人いたようです。(同じ時期に日本に流れ着いた朝鮮人漂着民は約9,700人いたことがわかっています。)これら漂着民は日朝間の取り決めにより、それぞれ自分の国に送り返されました。
 
 こういう朝鮮に漂着した人たちが食べた可能性があるので、4番の回答者様がおっしゃるように無名の人であったか、3番の回答者様がおっしゃるように釜山で倭館という役所を運営していた対馬藩の人であったことでしょう。
 対馬藩は倭館での業務を、書類としてかなり残しているようです。そういう記録の中に何らかの記述があるのかもしれません。

 また、朝鮮に漂着する日本人は漁師、船乗り、商人らでしたが、稀なケースとして1819年(文政2年)に薩摩藩の武士3人ら一行が漂着し、うち一人の安田喜藤太(当時30歳)が「朝鮮漂流日記」という日記を付けていました。この日記は『安田義方 朝鮮漂流日記』として、神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ住田文庫というところで公開されているらしいです。この中にも何かの記述があるかもしれません。
 武士が書いた日記なのでたぶん漢字がいっぱいで難しそうですが。
 この日記のことを中心に書いた本、
池内 敏著 『薩摩藩士朝鮮漂流記
         「鎖国」の向こうの日朝交渉』 講談社 2009年刊
に朝鮮貴族からふるまわれたご馳走のメニューがいくつか載っています。この武士が画いたご馳走の絵も1枚載っていますがここにはキムチは無いようです。もしふるまわれたとして、武士が「キムチ」とは記さないですよね。「塩辛漬け」「朝鮮漬け物」などと書いたでしょうか?それとも他の難しい漢字で書いたか?
 キムチ(とうがらし入りキムチ)は庶民の食べ物として出発したので、朝鮮貴族が日本の武士階層を客人としてもてなす食膳にはそもそも無かったかもしれません。  

 

 ここで質問者様がおっしゃるキムチは、多くの日本人が「キムチ」と聞いた時に頭に浮かべるあの、白菜をとうがらし・塩などで漬けた赤いものを指していることでしょう。

 キムチが誕生した日本で言う江戸時代に、日本から朝鮮に海難のため流れ着いた漂着民たちがいました。今までの研究では1618年からの約250年間で、約1,200人いたようです。(同じ時期に日本に流れ着いた朝鮮人漂着民は約9,700人いたことがわかっています。)これら漂着民は日朝間の取り決めにより、それぞれ自分の国に送り返されました。
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