「人間の命は地球より重い」のフレーズはよく耳にしますが,誰がこれを最初に発言し,またどのような経緯で広まったかおしえてください.
ちなみに,戦後の福岡地裁で時の裁判官が判決のときにこれを言ったとか,聖書の中に登場するフレーズが変形してこの形になったとか,時の内閣総理大臣がこれをつかって答弁をしたとかさまざまありますが,どなたか正確な情報をよろしくお願いします.

A 回答 (4件)

No.2の回答者です。



vita hominis gravior est quam orbis.
(人生 人間の 重い である より 地球) 

ラテン語の教科書の例文などで見るのですが出典が不明です。
もしかしら、日本人の作文かも知れません('est'の位置など怪しい)。

なお、アルキメデスが「適当な棒と支点さえあれば、自分は地球をも動かすことが可能である」と言ったと言われるように、地球が球体であることは古くから知られていました。アルキメデスの前記発言の真偽は不明ですが、少なくとも地球が球体であることはアリストテレスによって証明されています。
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この回答へのお礼

さっそくの回答本当にありがとうございます.ラテン語からのアプローチはまったく知りませんでした.また,地球という概念がないと「地球」という表現にならないということにもきづかされました.

お礼日時:2001/11/30 14:18

地球が重さの比較になるということは、地球が球だとわかった15世紀以降の創作ということになりますので、聖書とか神話が起源とは思えません。

やはり、最高裁判例かな。

参考URL:http://member.nifty.ne.jp/terubozu/kakugen/kakug …
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この回答へのお礼

参考アドレスをつけてくださって大変理解の助けになりました.これからもよろしくお願いします.

お礼日時:2001/11/30 14:20

ラテン語の格言に同様のものがあったと思うのですが自信ありません。



いま、文献が手元にないので、もう少し待って下されば、ちゃんと調べてみますが。
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私は、1977年ダッカ事件(日本赤軍が日航機をハイジャックして人質と引き替えに仲間の釈放と金品を要求)の時に当時の福田首相が言ったのが最初だ、と思っていました。



ご質問を見て気になって調べてみたら、それよりずっと以前、死刑制度の合憲性を争った裁判(最高裁1948年3月12日大法廷判決)の判決文において、「一人の生命は全地球よりも重い」という文句があります。
(・・・でも死刑は合憲、という結論なのですが)

これが一番最初のものだと思うのですが・・・。
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この回答へのお礼

いち早くの回答誠にありがとうございます.福田首相だったのですね.はっきり理解できました.もし,よければさらにこの質問を深化させてください.本当にありがとうございます.

お礼日時:2001/11/30 14:23

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Q人一人の命は地球よりも重い、って?

最近幼い子供を殺害した少年の学校の校長が、事件後こう言ったとか。(正確には「人の命は地球よりも重い」でしたっけ?)

よく聞く言葉です。人命の大切さをたとえた言葉なんでしょう。
わたしは、この言葉にちょっと引っかかっているんです。

これ、もとは誰の言葉なんでしょうか。

そもそも、本当に「人一人の命は地球より重い」なんて思っている人っているのでしょうか。

もちろん人の生命の尊さは言うまでもありません。自分がこの世からいなくなったり、家族や愛する人の死がどれほど重大なことかもよく知っているつもりです。

それでも、「地球より重い」なんてホントに思いますか?
全人類の命、じゃなく、ただ一人の命ですよ?
じゃあ、どこかの誰かが死なないためなら、地球一個差し出してもいいの?なんて。

これが偽善的な言葉に聞こえてしまうわたしは、冗談でなくまじめに考えています。

Aベストアンサー

偽善かどうかではなく、自分的な受け止め方が問われているような気がしたので再度。

「あなたが死ねば地球は助かります。死にますか?」という状況には多分ならないでしょうが…。

私にとっては「私の存在あってこその地球」です。
私がいなくなって地球が存続しても、私としてはちっともうれしくありません。
そういう意味では、私の命は地球より重いと思います。

しかし…
「愛する人の住む地球を救うために命を捨てることが出来ますか?」と問われれば「出来るかもしれない」と感じます。
その意味では私の命は地球より軽い。

(自分の命に限定した場合)命の重さも、地球の重さも状況によって代わり得ると思います。

しかし、この言葉が使われるときは往々にして「アカの他人の命」を対象にしています。
そこが、【嘘くさい】んですね。

また、この言葉を言う人に【嘘くさい人】が多いことも偽善的に聞こえる原因ですね。
・教員(日教組関係者)
・左派政党の議員
・左翼思想を持つマスコミ関係者(朝日系、毎日系)
などが好んで使うようです。

考えてみると、ダッカ事件は「日本政府が共産ゲリラに敗北を宣言した」という大事件です。
左翼思想家が好んで使うようになったのも頷けます。
そして、(うまく隠そうとしても見え隠れしてしまう)左翼思想に裏付けられた【嘘くさい社会正義】とともに語られるから偽善的なのです。

もちろん、「我が子の命」や「自分の命」の重さを語る人からは【左翼的嘘くささ】は感じません。
人が【命の尊さ】を語るとき、哲学的な「一般的な命」ではなく、目の前の(我が子、自分、愛する人の)「この命」を語る方が心に響きますよね。

「自分の命の重さは状況によって変わり得る」、「愛する者の命お重さはは何モノにも勝る」しかし、「アカの他人の命の重さを量るはかりは何者も持ってはいないし、持ってはいけない」。
私はそう思います。

偽善かどうかではなく、自分的な受け止め方が問われているような気がしたので再度。

「あなたが死ねば地球は助かります。死にますか?」という状況には多分ならないでしょうが…。

私にとっては「私の存在あってこその地球」です。
私がいなくなって地球が存続しても、私としてはちっともうれしくありません。
そういう意味では、私の命は地球より重いと思います。

しかし…
「愛する人の住む地球を救うために命を捨てることが出来ますか?」と問われれば「出来るかもしれない」と感じます。
その意味...続きを読む

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む


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