清水の次郎長で有名な森の石松や大政、小政のことを歌にした「清水港の名物はお茶の香りと・・・」で始まる、旅姿三人男(宮本旅人作詞、鈴木哲夫作曲)の二番の歌詞は最後に「何で大政 何で大政 国を売る」となります。この歌詞は何を意味するのでしょうか?大政は元は武士だったと思います。武士から次郎長の子分になったということで、国を売ったという意味なのでしょうか?
どなたか意味を教えていただけないでしょうか?今は武士だったのに国を売って次郎長の子分になったという意味だと思っているのですが、どうも自身がなくて・・・・。

A 回答 (1件)

 


  問題の歌詞を検索すると、どこかはいいませんが載っていました。これを見ると、「大政は、故郷を売るような男でない」という反意語のように読めます。こちらの方が正しいのではないかという気がします。
 
  どうも、よく分かりませんが、故郷を売るよほどの理由というのは、あったとすれば、それは次郎長の子分になったということではないような気がします(少なくとも、この歌詞の文脈では)。何か別の劇的な決断があったのでしょう。その結果、子分になったのかも知れません(大政が次郎長一家に加わるまでの経緯を調べてみてください)。
 
  しかし、反意語と取るのが自然な気がします。その場合、故郷を売らねばならないようなディレンマに大政が直面したというような話があるのかも知れません。しかし、売るようなことはしなかった、という意味になります(また、故郷は、清水港と定めた、ということなら、大政は、決して次郎長を売るような男でない、とその義理堅さを強調する言葉のようにも読めます。大政の人物を歌っているのでしょう)。
 
  と以上、アドヴァイスです。
 
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。たしかに反意語と解釈した方が意味が合いますね。国語の能力が低いので、反意語だとは思いませんでした。しかしながら、いざ指摘されてみるとまさにそうですね。もう少し調べてみます。

お礼日時:2001/11/29 23:01

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Q次郎長一家の森の石松について

次郎長一家の森の石松について
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供養塔があるってことは実在した
証拠になりますか?供養塔なんてものは役所や行政が管理してるものですよね?実在してない人物の供養塔が
あるなんてことありますか?

ということは森の石松は実在の人物か
どうか疑わしいが都田の吉兵衛は
実在していて次郎長一家に殺された
という解釈iでいいんですかね?
またこういう疑問を自分で調べるには
静岡の地元の図書館とかいけば
調べられますか?

Aベストアンサー

追記です。
Wikipediaに

>なお、現在語り継がれている石松は、清水次郎長の養子になった天田五郎の聞き書きによって出版された『東海遊侠伝』に因るところが大きく、そこに書かれて有名になった隻眼のイメージは、同じく清水一家の子分で隻眼の豚松と混同していた、または豚松のことを石松だと思って書かれたとも言われており

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Q武士と公務員の違い、及び、武士の公務員化について。

江戸時代の武士はある意味公務員化していたと思うのですが、武士は武士です。この江戸時代の武士(文化)が明治初期の役人(文化)として働きました。
したがって明治初期の公務員の感覚は今日のものとはまったく違うと思います。武家は世襲であり試験選抜されるものではありません。
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徳川家を始め、有力武家が知行を放棄するというのは世界史はもちろん日本史にとっても不思議です。安直な結果論的説明で済ませられるほど簡単な出来事ではないと思います。アイデンティティーのために命を張ってきた武士がアイデンティティーを放棄しました。武家を廃するのですから武家としていわば究極的に無責任な生き方を選んだのです。
その豹変についての説明は真剣に成されるべきだと思いますので、自分の家の歴史を重んじる武家になったつもりでお答え下さい。
またその理解のために、(1)江戸時代の武士と、(2)明治初期の公務員と、(3)現代の公務員との違いについても歴史的変遷をまじえて、各時期の当事者の心理・信条がイメージできる形で教えて下さい。

よろしくお願いします。

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徳川家を始め、有力武家が知行を放棄するというのは世界史はもちろん日本史にとっても不思議です。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E6%97%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1
明治期の公務員についてですが、そもそもこの時期に公務員という用語が適切であるかは議論のあるところだとは思います。明治から戦前までは「天皇の官吏」、戦後は「公務員」とする方が違いがはっきりするように思います。官尊民卑などの言葉に代表されます。この件に関してはwikiの官僚制の中の辻清明の説が端的に言い表していると思います。
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第十条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル
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国民との関係も江戸期からの流れを引き継ぎ、為政者として上から目線でした。権力の最下部機関である巡査が「おい、こら」と国民に対したことにその一端が現れています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E5%90%8F
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E5%83%9A%E5%88%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E4%BB%BB%E5%AE%98

以上、長くなり、期待通りの回答にはならなかったと思いますが、参考まで。

徳川家を始め、有力武家が知行を放棄するというのは世界史はもちろん日本史にとっても不思議です。
明治維新期の知行ですが、大政奉還・王政復古の大号令以後、德川家(慶喜)に対する辞官納地(慶喜の正二位内大臣兼右近衛大将の辞職と、四〇〇万石の幕府領の返上-二〇〇万石の返上まで減額)が戊辰戦争の契機の一つとなっており、すんなりと知行を放棄したわけではありません。慶応4年1月5日(1868年1月29日)に鳥羽伏見の開戦・幕府軍敗退後には中国・四国・九州各地には新政府軍が進軍したり、新政府側...続きを読む

Q大政奉還から真珠湾攻撃まで僅かに87年しか経っていません。日本という国は何故、世界には例を観ない発展

大政奉還から真珠湾攻撃まで僅かに87年しか経っていません。日本という国は何故、世界には例を観ない発展遂げたと思いますか?

Aベストアンサー

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その事のほうがスゴいと思います。
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Q清水次郎長

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Aベストアンサー

こんにちわ。

清水市民です。参考URLが一番わかりやすいかと思います。
清水市では未だに次郎長の生家の復元から祭りなどなどイベントが
沢山あります♪

参考URL:http://jirocho.org/jirotyou-1.html

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大政奉還の時の江戸城で慶喜が武士達に命令している絵を探しているのですが、なかなか見つかりません。
それと、明治天皇が京都から江戸へ行幸しているところの写真も探しています。
お願いします。

Aベストアンサー

江戸城ではなく、二条城のものなら見つかりましたが…。

http://www.eva.hi-ho.ne.jp/iwaemon/tokugawa.htm

参考URL:http://www.eva.hi-ho.ne.jp/iwaemon/tokugawa.htm


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