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日本側の主張
「宋書」「広開土王碑」「日本書紀」が証明する任那』


1、「宋書」
次の中国南北朝時代の「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を見て下さい。

421年 讃 叙爵
438年 珍 安東将軍・倭国王
443年 済 安東将軍・倭国王
451年 済 安東将軍・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事
462年 興 安東将軍
478年 武 安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事

451年の倭王済及び478年の倭王武の記述に「任那」の文字があります。
当時、任那という地域が存在し、その「軍事」(当時の中国の官職)に「倭王」が任命されていたことを証明しています。

2、「広開土王碑」
広開土王碑には次のような記述も見られる。
曰く「大軍をもって新羅城を奪還すると、撤退する倭兵の背後から任那加羅まで急追していった」

3、「日本書紀」
日本書紀には、当時の倭国は朝鮮半島に大規模な軍事力を駐屯させており、任那日本府というのはその駐屯地などを兼ねた日本の朝鮮半島における拠点であった。
その後、百済・新羅などによって任那は軍事的圧力を受け続け、紀元562年に任那は新羅に滅ぼされています。(日本書紀、欽明天皇二十三年)


韓国側の主張

1、日本書紀の記述に関して「任那日本府を通じて、日本へ朝鮮半島からの文化が伝わった(要約)」ことが書かれているが、この中の「日本へ朝鮮半島から文化が伝わった」と言う部分だけを引用し、その前提となる「任那日本府」については虚偽であるとしている。

2、また、広開土王碑についても、旧日本軍の改竄説を主張して、論拠を否定している。

3、韓国では「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を認めていない。



任那は存在したと思いますか?

A 回答 (5件)

宋書を見ても、任那が存在したのは確実です。

いかに実態を伴わない称号とは言え、ありもしない国名を付けるわけはないですからね。

また任那がどこだったのかも、宋書を見ればわかります。倭王珍は、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称していました。それに対して、百済からも朝貢を受けていた宋は、次の倭王済に対して「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の称号を与えます。百済をはずすが、加羅を加えて同じ六国の王にするから我慢しろ、という訳です。

珍は既に実態の存在しなかった秦韓・慕韓を加えてまで国の数を水増ししていましたから、任那と加羅が全く別物なら、当然加羅も加えて「七国諸軍事安東将軍」を自称したはずです(実際、済の次の武はそうしています)。

これは、珍が任那=加羅と考えていたからに他なりません。任那は、加羅諸国連合の中心部分(おそらくは大伽耶+金官伽耶)を指す言葉だったのです。

ただ、任那「日本府」が実在したとは考えられません。宋書に書かれている通り、当時の正式な国名は「倭」であり「日本」ではなかったからです(日本という国名が正式に用いられるのは、天武天皇の時代以降です)。
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この回答へのお礼

なるほど。

任那は存在した。
任那日本府は存在しなかった。
ということですね。

厩戸皇子は存在して、別名、豊聡耳(とよさとみみ、とよとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれていたが、
当時、「聖徳太子」とは呼ばれている人物はいなかった。

「北条早雲」と呼ばれている人物は
名字は伊勢、名は長氏、あるいは盛時、通称は新九郎。
号は早雲庵宗瑞。
または伊勢宗瑞。
正式な名のりは、平長氏、あるいは平盛時。
北条氏を称したのは子の氏綱の時であるので、当時、「北条早雲」は存在しなかった。

以上の理論に当てはまるワケですね。

お礼日時:2005/11/23 04:05

>虚偽である。



これは、歴史では認められない、子供の言葉です。

虚偽であるなら、真実はこうで、こう言う証拠の文献があり、
この時代の遺跡として~がある。

この裏づけが必要です。

日本書紀など文献ではありません。
こんな文献を持ち出した結論では意味がありません。

剣道が朝鮮から伝来したとか、
証拠があれば、素晴らしい歴史的な成果なのですが、
残念な事ばかりです。

全て主張なされるばかりです。
もう少し、努力し、証拠の文献や、遺跡発掘をなさって下さい。
と、言いたいですね。

国は、歴史とは無関係です。
政治家は、歴史学者ではありません。
これを履き違えと言います。

関係あるのは、
努力して文献や、証拠、遺跡を発掘する歴史学者のみです。

この国、もういいよ。^^;
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
参考になりました。

お礼日時:2005/11/23 04:06

神武東征なんかを、一番自然に考えれば、ちょうど、イギリスのノルマンコンクェストみたいなイメージで、朝鮮半島に住んでいた一部族が日本に移住or侵略して大和政権ができた、ような気がします。

任那は、彼らの朝鮮での本拠だったのでは。
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この回答へのお礼

なるほど。
神武東征の出発地点は薩摩は日向ですよね?
しかも、吉備で長い間留まっていますし。

ということは、移住してきて同化したということでしょうか?

お礼日時:2005/11/23 03:56

古代史においては、文献の不足や、記載のあいまいさから、分からない事が多々ありますので、想像と文献、遺跡などを組み合わせて考えるしか方法がありません。


その過程で、意見対立が起こる事は、不思議ではありません。

私が思うに、古代朝鮮半島の南部に、日本と何らかのかかわりのある「任那」が存在していた事は、まずたしかだと思います。
ただ、それが何であったのかが判明しません。
日本人の居留地だったのか、日本の属国のような物だったのか、百済との交渉窓口(大使館のようなもの)だったのか、そもそも任那が、日本人発祥の地であったのか。
韓国南部から北九州にかけて、当時の「倭」とは、別の政権が存在したのか。

これらは、完全に解明される事は無いと思います。
古代史へのロマンと考え、むきになって自分の主張をしたり、相手を反論したりしない事が、大人の対応だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
よく分からない部分が古代史へのロマンをかき立てるポイントなんでしょうね。
任那は存在したというに確信が持てました。

お礼日時:2005/11/23 03:54

韓国側の主張はいずれも根拠がありません。

1と3は文献の一部だけをとりだして、ここは正当、ここはだめ、というやりかたで、実のところ韓国に限らず日本でも古代史関係で特に頻繁にとられる手法ですが、こういうことをやったら、どういう主張でもなりたちますから、そもそもまともな学問とはいえません。
2についてですが、そもそも名称が変です(よく使われている言い方なのは承知)もともと広開土境、つまり国の境を広く拡げた王様、ということなので、境をとってしまうと微妙に意味が変わります。やはり好太王碑と読んだ方が妥当なように思います。
これについては、確かに改竄は実在しますが、古田武彦氏の「失われた九州王朝」などの研究により、韓国・共和国側の主張するような改竄ではない、また改竄者は旧日本軍ではないことが証明されています。この人は「九州王朝説」という今の日本では特異な立場の学者ですが、好太王碑についての論は少なくとも説得力があります。

一方、日本側の主張は文献に基づくものであり、とりわけ、宋書は利害関係から言っても格別倭国にひいきした文献ではありません。原文改訂を前提にしないなら任那実在は当然の前提になります。ただし、そこと大和朝廷の関係があったかどうかは別です。筑紫の君磐井がとの関係とかね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やはり任那は存在したのですね。
なぜ韓国は任那の存在を認めないのでしょうか?

お礼日時:2005/11/23 03:51

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